恋の障害 4
「六本木にいい店があるんだけど、これから飲みにいかない?」
「お酒でしたら、もう充分にいただきましたわ。今日はありがとうございました。さようなら」
冬樹の戯言を聞き流しつつ、彼を乗せたスポーツタイプの赤い外車を手を振って送り出すやいなや、橘乃はホテルの中に取って返した。
「橘乃さん?」
一緒に見送ってくれた梅宮が、怪訝そうに問いかけながら彼女を追いかけてくる。しかしながら、この時の彼女には、どうして自分が急いているのかを彼に説明しているだけの余裕が、時間的にも精神的にもなかった。
葛笠は、片目と片足が不自由だ。だが、人並み以上に耳は良い。あの程度の距離ならば、彼の耳にも冬樹が彼を侮辱する言葉が届いたはずだ。
隣で食事をしているだけの男から嗤われて、葛笠は傷ついただろう。もっと早くに自分が冬樹を止めていればよかったと橘乃は後悔していた。悪戯心を起こして、葛笠をこの場に連れ出すようなことをするのではなかった。一刻も早く、橘乃は彼に謝りたかった。
2階まで橘乃が戻ってみると、葛笠は、ちょうどレストランから出てきたところだった。
「私が誘ったのに、どうして葛笠さんが奢ってくれるの?」
「女子大生に奢らせるなんて、俺の沽券にかかわるからですよ。ああ、お嬢さま。今日はご苦労さまでした」
妹の紅子と他愛もない言い争いをしながらこちらに歩いてきた葛笠が、駆け寄ってきた橘乃にねぎらいの言葉をかけた。
「全体的にお姉さまの好みからかけ離れた人だったわね」
紅子も、姉に対して同情的であった。
「葛笠さん。さっき冬樹さんが言ったことだけど…… ごめんなさいね」
「あんなの、どうだっていいですよ。言われ慣れてますから」
葛笠が、橘乃の謝罪を笑い飛ばす。だが、『言わることに慣れている』という葛笠の横には、彼が侮辱されることに本人以上に神経を尖らせている紅子がいた。
「あの人、葛笠さんのことで、何か失礼なことを言ったの?」
「別に何も」
妹に説明しようとする橘乃を目で制しつつ、葛笠がとぼけた。「言ったといっても、実にくだらないことです。それより、私たちのほうこそ、橘乃お嬢さまに謝らなくてはいけません」
そして、橘乃は、自分たちを標的に設置された防犯カメラと盗聴器の存在を知った。
「み、見られていたの?」
橘乃は青くなった。
冬樹との食事風景を、防犯カメラで見られていた? そして、聴かれていた?
冬樹との、あの会話を? 始めから終わりまで? 沢山の人々に?
(梅宮さんにも?)
走らずに追いかけてきた梅宮を振り返る。愕然とした橘乃の顔を見ただけで彼は状況を察したらしく、「聞かせていただくつもりはなかったのですが……と言ったところで、何の言い訳にもなりませんが」と謝罪らしき言葉を口にした。
「う……そ、やだ」
恥ずかしさのあまり、橘乃は顔を覆ってその場に座り込んでしまいそうになった。だが、こんなところで腰を抜かしたりすれば、それこそ恥の上塗りである。
咄嗟に…… 後から思えば、そんなバカげた行動に出た理由が自分でもわからないのだが、橘乃は梅宮に背を向けて逃げ出した。廊下の、更に奥へ。だけども、進行方向に盗み見と盗み聴きの首謀者らしき人物を見つけた途端、彼女の恥じらいは急激に怒りに変換された。
「お父さまの馬鹿っ!!! 大っ嫌いっ!」
「違うっ!! カメラも盗聴器も、私じゃない! やったのは和臣だ!」
すれ違いざまに叫んだ橘乃の背後から父源一郎の喚き声が追いかけてくる。だが、追いかけてきたのは彼の声だけで、源一郎本人は橘乃を追いかけてはこなかった。追いかけてきたのは、よりによって梅宮だけだった。恥ずかしさと腹立たしさですっかり混乱していた橘乃は、時折かけられる梅宮の声を無視して、ひたすら前に進み続けた。
大窓に面した廊下を抜けてロビーに至る大階段を降り、フロントの脇を通ってエレベーター横の廊下を直進し、人気のない階段を上がり、息が切れたところでまた廊下に戻り、そして再び廊下を抜ける。そんなことを何度か繰り返しても、走るのをやめても、彼は橘乃を放っておいてはくれなかった。声をかけて振り向かせることは諦めたようだが、つかず離れず、一定の距離を置いて、ずっと橘乃についてくる。
(どうして、ついてくるの?)
しかしながら、梅宮の行動以上にわからないのは、橘乃自身がやっていることだった。
自分のほうこそ、これほどムキになって梅宮から逃げ回るようなことを続けているのは、なぜなのだろう?
(いつまでも逃げ回ってないで、私のほうが、立ち止まればいいのよ)
そんな簡単なことを橘乃が思いついたのは、今歩いている廊下の先が行き止まりだということに彼女が気がつくのと、ほぼ同時だった。前方には、幾何学模様の桟が組み込まれた細長い腰高の窓しかなかった。これ以上は、逃げようがない。
橘乃は小さな吐息を漏らすと、回れ右をした。
橘乃の動きに合わせて、梅宮が、ゆっくりと立ち止まる。
「すみません。ここまでしつこく橘乃さんの後を付け回すつもりはなかったんです。でも、やめるにやめられなくなったというか……」
橘乃と目を合わせるなり、梅宮が謝った。彼もまた、自分自身の行動に戸惑っているように見えた。
「私が止まらなかったから?」
「はあ…… もしかしたら、独りになりたくないのかなと思って」
「私が?」
「本当に独りになりたいのであったら、客室に戻って鍵をかけてしまえばいいわけですから」
「あ」
橘乃は口元に手を当てた。 確かに、梅宮の言うとおりである。
「盗み見も盗み聞きも、される方にしてみれば不愉快ですよね。本当に、すみませんでした」
威儀を正した梅宮が、橘乃に対して深く低頭する。その下げっぷりが、惚れ惚れするほど潔い。自分以外の全てを見下すような態度を取っていた冬樹に飽き飽きしていた後だけに、橘乃の気持ちは和んだ。
「梅宮さんが謝ることないのに」
橘乃は笑った。
この人のことだ。父親の悪戯に巻き込まれただけに決まっている。
「それより、私こそ謝らなくちゃ。私、冬樹さんに、なんにも言い返せなかった」
冬樹との食事のことを思い出した途端、橘乃の中に強烈な不快感と怒りが込み上げてきた。
「ああ! もう! なんで、ビシッと言ってやらなかったのかしら? 冬樹さんご自慢のホテルよりも、茅蜩館のほうが何倍も何十倍も素敵なのに! あの人のホテルなんて、ただ目新しいだけじゃないの!」
「新しさも、話題性が高いという点で、立派な魅力のひとつだと思いますよ」
身もだえしながら悔しがる橘乃に、やんわりと梅宮が意見する。
「そうかもしれないけど。 古さだって立派な魅力だもの」
一緒に怒ってくれない梅宮に対して口を尖らせながら、橘乃は主張した。「状態の良いまま遺していくのって、実は大変な努力がいるんだから」
古いからこそ丁寧に扱ってきたと――ボロではなく歴史のある建物だと訪れた客に思ってもらえるように手を掛けているのだと客室係の女性たちが橘乃に話してくれたのは、今から数時間前のことでしかない。
「それから、今日の肉料理に出されたお肉は、牧場の人が手放す時に泣いて見送るほど愛情を注いで手間をかけて育てた牛だし、ここで出されるお料理のソースは、ドレッシングやケチャップから全部オリジナルレシピによる手作りだし」
それは、昨日、梅宮と食事をしている時に、シェフや給仕の人から聞かされた。
「今日の食べたムニエルのマツダイは三浦から直送された採れたてで、出張のついでに鎌倉の総支配人自ら運んできたものだし、ついでに言えば、彼の鎌倉のホテルでは、近くの漁場であがる市場にあまり出回らない魚も食べられて、それがとっても評判なのだとか……」
もっともっと、冬樹に言ってやりたいことがあった。みんなが…… 梅宮が聞いているとわかっていたら、橘乃は冬樹の暴言を聞き流したりしなかった。
それなのに、梅宮は橘乃を責めることなく、「たった2日で、茅蜩館のことを沢山知ってくださったんですね」と、誉めてくれた。
「そうよ。 茅蜩館のことなら何でも知りたかったんですもの。それなのに、冬樹さんに馬鹿にされっぱなしになっちゃった。どれもこれも、冬樹さんが馬鹿にしていいようなものじゃないのに。私、みんなから、ちゃんと教えてもらったのに……」
愛想笑いを浮かべて彼の自慢話を聞いていることしかできなかった橘乃に、彼らはきっと失望しただろう。
「ちゃんと言えばよかった。『あなたのホテルなんて、茅蜩館とは比べものにならない』って言ってやればよかった。『あなたのホテルなんて、軽薄で、バカみたいで』、バカみたいで……」
既に帰ってしまった冬樹に向かって言ってやりたかった罵詈雑言を並べようとしてみるものの、日頃から言い慣れていないせいだろう。橘乃の悪口の語彙は、あっという間に尽きた。
しかも、出てこない言葉の代わりに涙が出てきた。
「いやだ、なんで泣く……」
橘乃は、涙を振り払うように頭を強く振った。
こんなところで泣くなんて、どうかしている。目の前で女に鳴かれたら、梅宮だって困るに違いない。なんとかして涙を止めようと、橘乃は、乱暴に目を擦った。
「ああ、ダメですよ」
梅宮が橘乃の右手を慌てて掴んだ。だが、軽く掴んだようでも、そこは男性である。それほど力を入れていないようなのに、彼の腕を振り払おうとしても橘乃の手はビクとも動かなかった。
「子供じゃないんだから」
癇癪を起す寸前のような顔をしている橘乃を見て、梅宮が目元を緩ませた。
「そんなふうに擦ったら、ダメですよ。少しの間だけ、じっとしていてください」
梅宮は、橘乃の顎に手を添えて上向かせると、スーツのポケットから取り出した白いハンカチで橘乃の顔を拭い始めた。
「え? あの?」
「動かないで。口、閉じてもらえますか?」
突然のことに驚いている橘乃に、梅宮が命じる。
言われるがまま、橘乃は、真一文字に口を引き結んだ。梅宮の指が――もちろんハンカチ越しであるだろうが――彼女の唇の縁をなぞるように動くと、痺れるような甘さを伴った感覚が、彼の指先が触れた所から橘乃の全身に広がっていくような気がした。これまで経験したことのない蠱惑的な感覚に橘乃は怯え、恐怖に身を竦ませる子供のように、きつく目を閉じた。
「はい。もう大丈夫ですよ」
数秒後、彼女を引き寄せた時と同じくらいにあっさりと、彼が彼女を解放した。
「……。え? 大丈夫、 って?」
もしかしたら、動転し過ぎて数秒ほど意識が飛んでいたのかもしれない。2度3度と瞬きを繰り返しながら、ぼんやりとした顔で橘乃は問い返した。
「擦ったせいでマスカラが、かなり流れてしまったので。あと口紅も」
ハンカチをポケットに押し込みながら梅宮が苦笑いを浮かべる。
「マスカラ! ああ、そうでした!」
橘乃は、梅宮が拭ってくれた目元をそっと押さえた。
今となっては無駄な努力でしかなかったが、今日の橘乃は、冬樹に会うために気合を入れて装っていたのだった。涙で濡れた自分の顔を手で盛大に擦ったらどうなるかは、この場に鏡がなくても充分に予想がつく。彼女の顔は、きっと、とんでもないことになっていたのだろう。すぐに直してやらねば橘乃が気の毒だと、梅宮が思うほどに。
「その…… 直してくれて、ありがとうございます」
「いいんですよ」
しおしおを頭を下げた橘乃に、笑いながら梅宮が首を振った。
「あとね。僕たちの代わりに冬樹さんに怒ってくれようとしたことは嬉しいですけど、そんなこと必要はないですよ」
「でも……」
「言われた分だけ言い返していたら、子供の喧嘩と同じです。『わざわざ相手の土俵にまで降りてって喧嘩するなんざ、みっともないからおよし』と、祖母なら言うところでしょう。それから、食事やサービスを良いとか悪いとか評価するのは、あくまでもお客さまであって、私たちじゃありません。こちらから自慢してお客さまを無理矢理に満足させるような真似はしないほうがいい。茅蜩館の品位にかかわります。橘乃さんだって、そう思ったからこそ、冬樹さんに何も言い返さずにいてくれたのでしょう?」
「ええ。それは、そうなんですけど……」
だが、ひと言ぐらいなら、冬樹に言い返してもよかったのではないか? 不満げな橘乃の頭に、「最後まで、よく我慢してくれましたね」と微笑みながら、梅宮が手を置いた。彼に触れられた瞬間、反射的に身を固くした橘乃ではあるが、もうさっきのように恐ろしくはなかった。彼女の髪を撫でてくれる彼の手は、父や兄のように大きくて優しい。
「……。うん」
頭に乗せられた手の重さと温かさに委ねるようにうつむいた橘乃の顔に、笑みが浮かんだ。
「本当に、あれでよかったの?」
「ええ。上出来だと僕は思います」
小さな声で上目づかいに問いかける橘乃の目線に合わせるように、梅宮が腰をかがめる。目を合わせたふたりは、どちらからともなく微笑んだ。そして、どちらからともなく、ごく自然に顔を近づけ、そっと唇を合わせ
……る、はずだったのだが……
☆ ★ ☆ ★ ☆
ホテル内にある自宅――つまり八重の居間に戻ってきた要を、そこに集った人々は、ニヤニヤしながら出迎えた。
「いよっ! 色男!」「女泣かせ!」
恨めし気な顔をしている彼に向けて、歌舞伎座の大向うばりにハリのある掛け声も飛んでくる。
「キスしちまえばよかったのに」
自分の定位置にチンマリと収まった祖母が、要を見上げて、ひどく残念そうに呟いた。
「あんなところでやめるなんざ、お前さんも罪な男だよ」
「できませんよっ!」
顔を真っ赤にして要は喚いた。「見られているってわかっているのに! あれ、『C』のカメラでしょう?!」
テストと称して橘乃の兄が仕掛けた防犯カメラのほとんどは、彼女と冬樹が食事をしていたテーブルを写していた。
だが、『A』『B』『C』と用意された3つのモニターのうち、『C』のモニターだけは、別々の場所に設置されたカメラが撮影した画像を数秒ごとに順繰りに映していた。撮影箇所は4か所。 そのうちのひとつが写していたのが要と橘乃が話していた別館8階の廊下の隅だったということに彼が気がついたのが、彼が彼女の唇に触れる直前。見上げれば、カメラは、廊下の突き当たりより数メートル手前の天井に設置されていた。カメラに気がついた要が天井を指さすなり、橘乃は顔を覆って逃げていった。状況的に、要は彼女を追えなかった。
「なんで、あんな場所にカメラがあるんですか?」
「そりゃあ、お前。あそこなら、ほどんど誰も通らないだろうから、プライバシーの侵害とやらにはなるまいと思ったのさ。あんたたちが、わざわざあんな所で立ち話を始めるなんて、誰も思わないじゃないか。それとも、あれかい? 要は、人通りが少ないとわかっていたから、わざわざ橘乃さんをあの場所に誘導したとか……」
「違います」
からかうような視線を向ける八重に向かって、要はちぎれるほど首を振って否定した。
要にそんな下心はなかった。第一、橘乃の後についていっただけの要が、あの場所に彼女を誘導できるわけがない。
「でも、大丈夫だよ。盗聴器までは仕掛けてないから、僕たち、何も聞いてないよ」
隆文の言葉は、要にとって、ほとんど慰めにならなかった。聞かれてなくても見られている。そして、キスに言葉はいらない。「僕も、誰かとキスする時には、近くにカメラがないか気をつけよう」という浩平の言葉が、ノミのように要の羞恥心をえぐった。
せめてもの救いは、橘乃の父親がモニターに要と橘乃が映っていることに気がつかないまま家に帰ったことだろう。橘乃に盗撮の疑いを掛けられた挙句『大嫌い』だと言われたことが、相当に堪えたらしい。橘乃に叱られた六条源一郎は、その場で泣き崩れてしまったという。大勢の客が行き来するホテルのレストランの出入り口を、大の大人が泣きべそをかきながら占拠しているのはみっともなさ過ぎると、橘乃の兄と義兄が両脇から抱えるようにして彼を連れ帰ったのだそうだ。
「でも、こんなにすぐに要が積極的な行動に出るなんて思わなかったわ。次の総支配人もオーナーも要に決まったようなものだし、今日はいいことばっかりね」
人の気持ちも知らないで、養母の貴子は、すっかり浮かれている。
「お言葉ですが、僕は別に積極的な行動に出ようと思ったわけではなくてですね」
要は、傷ついている橘乃を独りにしておけなかっただけだ。子供みたいに天真爛漫な……というよりも素直すぎて少々危なっかしい彼女を放っておけなかっただけである。
言い訳する要に、「でも、恋なんて、そんなもんよ」と、貴子が笑う。
「他の人よりもなんとなく気になって、なんとなく放っておけなくて、結果的に一番近くにいる。そんな感じよね?」
「うん。そうそう」
兄の知らないところで花屋の娘と着々と愛を育んでいた隆文が訳知り顔でうなずくのが、腹立たしい。
「……。寝ます」
少しは強くなった、言い返せるようになった思ったのは、どうやら要の勘違いだったようだ。これ以上何をいっても遊ばれるだけだと判断した要は、肩を落として自分の部屋に向かった。
「明日も頑張れ!」
気落ちしている要の背中に向けて、次々に励ましの言葉がかけられた。
「頑張るもなにも、ライバルらしき男もいなくなってしまったしねえ」
「これなら、要でも楽勝だよね」
扉を閉めても、そんな声が聞こえてくる。
「そんなこと言って…… 明日、僕は、どんな顔して橘乃さんに会えばいいんだよ」
要は、ぼやきながら寝床に入った。
だが、『どんな顔をして会えばいいのか?』などという些細な悩みは、翌朝、暗いうちから弟に叩き起こされた時点で、要の頭から完全に吹っ飛んだ。
同時に、『ライバルが消えた』という茅蜩館の人間の思い込みも、ぬか喜びであったことも判明した。
というのも、昨夜橘乃にフラれたはずの竹里冬樹が、前日に要たちを悩ませたのとは比べものにならないほどの大量の花と共に、晴れやかな顔をして現れたからである。




