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誕生日には歌を  作者: 風花てい(koharu)
34/86

恋の障害 3

 ピシリ ……と、その時、空気が凍りつく音を聞いたような気がした。



 その直前まで、要たちは、橘乃の苦労をしばし忘れて、竹里秋彦の話に聞き入っていた。なにしろ、浩平に促されるままに竹里秋彦が語り始めたホテル・セレスティアルという名前の本当の由来というのが、彼らにとって予想外すぎた。


「ホテル・セレスティアルというという名称は私が決めた。天上の館――つまり、天人のおわす場所という意味を持たせたつもりだ。そして、この場合の天人とは輝夜姫のことだ」

 そして、この場合の輝夜姫とは彼の妻の輝美のことであると、秋彦は恥ずかしげもなく言ってのけた。 改名したのは、20年ほど前。要が茅蜩館に来てから数年後のことである。


「その頃、私は輝美と結婚したことで幸せの絶頂にいた。だが、ひとつだけ不満があった。それは、輝美が私の気持ちを疑っていることだった。彼女は、私が彼女と結婚することで茅蜩館とより深い縁を結び、その縁を足がかりに茅蜩館を手に入れようとしているのだと……つまり、自分はそのための手駒に過ぎないと思い込んでいるようだった」

「ええ」

 貴子の相槌に合わせて、要や八重もうなずく。茅蜩館の関係者のほとんどは、今でも、秋彦の輝美への愛情を疑っている。 

 

「彼女の思い込みを覆すために、私は、もっと別の形で自分の気持ちを彼女に伝える必要があると感じた」

「だから、その話は、もういいのよっ! 秋彦さんの気持ちは充分に伝わったし、私にだけ伝わっていれば充分だから! だから、ここまでにしましょう! ね?」

 淡々と語る秋彦の横で、輝美が必死になって彼を止めようとしている。だが、彼女がムキになればなるほど要たちの好奇心は刺激された。中途半端なところで話をやめられたら、続きが気になって眠れなくなってしまいそうである。


「で、でも、なんで、こんなのが輝夜姫? そりゃあ、《竹里輝美》っていう名前だけなら、輝夜姫っぽいといえば輝夜姫っぽいけれども、この女は、どこからどうみても輝夜姫ってガラじゃあ……」

「『こんなの』とは失礼ね。理由なんて、なんでだっていいでしょう! あんたには関係ないんだから!」

「あんたこそ、黙ってなさいよ。私は、秋彦さんに訊いているの!」


「ああ。なるほど、そういうことだったんですか」


 口喧嘩を始めた腹違いの姉妹の声の間を縫うようにして、八重の声がゆったりと割り込んだ。

「秋彦さんは、輝美の居場所を作ろうとしてくださったんですね? 身内を裏切るようにして茅蜩館を出ていって、嫁ぎ先でも居心地の悪い思いをしている輝美が還る場所はここだと――秋彦さんの所だと、ホテルの名前を変更することで輝美に伝えようとしてくださったんですね?」

「たとえが良くなかったようで、彼女には、うまく伝え切れなかったようですが」

「伝わってるわよ。っていうか、秋彦さんがそんな気を遣ってくれる必要なんかなかったのよ」

 仏頂面の輝美が、八重に向けられた台詞を横取りする。 

「手駒でもなんでも、私はかまわなかったもの。あなたの傍にいられるのなら、誰を裏切ろうと、何て言われようと、私は……」

「強がるのは君の悪い癖だ」

 秋彦が大真面目な顔で妻に指摘する。「本当は皆と仲直りしたいのだろう? 茅蜩館を訪ねるたびに貴子さんと喧嘩して、そのたびに落ち込んでいる君を見るのは忍びない」

「あんたが仲直りしたがっているようには、とても見えなかったわよ。でも、まあ…… 私も、そうは見えなかっただろうから、おあいこか」

「これからは気兼ねなく遊びにおいで、貴子と待っているからさ」

 反省らしきものを口にしながらも輝美と目を合わせようとしていない貴子とは真逆の表情で八重が輝美を誘った。

 輝美は、それでも意地を張るのを止められないらしかった。「で、でも、仲直りしたって、私は浩平をこのホテルのオーナーにすることを諦めたわけじゃないですからね。浩平だって、好い男だもの。今は要にリードを許しているかもしれないけど、これから巻き返すんだから」と、精一杯の虚勢を張る。 

 だが、輝美の野望は、当の浩平によって、その場で潰えることになった。


「あ、僕は、オーナー争いから抜けるから」

 片手を挙げて、明るく浩平が宣言する。 

「橘乃さんは、嫌いじゃないよ。でも、僕は、自分が恵庭久志の隠し子だなんて今さら信じちゃいないし、なにより、茅蜩館のオーナーよりも、なりたいものができたんだ。他になりたいものを見つけられたらオーナー争いから抜けてもいいっていう約束だったよね?」

 居合わせた全員に確認を取るように浩平が首を巡らした。 

「あんたは、また、やぶから棒に……」

 小言を言い始めた八重を挟んで、鎌倉と横浜の総支配人が、「言われてみれば、そういう話だったな」と顔を見合わせて確認し合った。彼らは浩平の支持者ではないから動揺していなかったが、諦め切れないのは輝美である。 

「そんな話は聞いてないわよ。なりたいものって、なんなのよ?」

「今は、まだ言わない」

 噛みつかんばかりの勢いで問いただそうとする戸籍上の母親に、浩平が首を横に振る。 

「でも、僕がそれになれたら、輝美だけじゃなくて、おじさんたちも気に入ると思う」

「そんなこと言って、本当は、なんにも考えていないんじゃないの?」


「あの! 僕も抜けます!」

 輝美と浩平が言いあっている間に、隆文までもが脱落を宣言する。

「隆文?!」

「僕よりも要のほうが、東京の茅蜩館の次期総支配人にもオーナーにも相応しいと思う」

 顔色を変えた二人の男性総支配人に向かって、隆文が早口でまくし立てる。「なにかにつけて要と比べられるのが、ずっと嫌だった。おじさんたちだって、もうわかっているんでしょう? 殊更に要に辛く当たったのは、要のほうが僕よりも茅蜩館のリーダーに向いていることを認めたくなかったからだ。それに、僕だって、要と同じで久志さんの本当の子供じゃない。誰の子かも知っているよ。 確認したことはないけど、お祖母ちゃんだって本当は知っていると思う」

「『知っている』?」

 横浜の総支配人の視線が、隆文から八重に移動する。 

「噂程度にですけどね」

 言葉を濁しながら、八重が目を伏せた。彼は、諦めたように深く息を吐いた。


 自分は武里グループから茅蜩館を守るために用意された偽物。だから、自分の勝手でオーナー争いから降りる訳にはいかない。これまでの隆文は、そう自分に言い聞かせて我慢し続けてきたのだと言った。 

「でも、浩平がオーナー争いから降りるなら、僕ももういいよね? それに、橘乃さんにオーナーの権利が移行した以上、血筋云々で争うのは無意味だよ。それよりも、これからは、みんなで力を合わせて茅蜩館を盛り上げていったほうが――そのための努力をするほうが、遥かに建設的だと思うんだ」

「『小さいパイを奪い合うよりも、パイそのものを大きくして分け前を増やそうじゃないか』 隆文が言いたいのは、そういうことだな?」

「うん。そう。僕たちなら、できると思う。要が次のリーダーなら申し分ない。要にずっと助けてきてもらってきた僕が保証するんだから間違いないよ」

 源一郎の助け舟に、隆文が嬉しそうにうなずいた。 


「僕も、『次期リーダーは、要に』に、1票!」

 隆文以上に要に世話をかけてばかりいる浩平も、天井を突き刺すような勢いで、真っ直ぐに手を挙げた。

「……っていうかさ。オジサンたちが現実を見ようとしなかっただけで、要は昔から3人の中ではリーダー格だし、ほとんどのホテルスタッフの認識もそうなんだけど?」

「む。確かに」

 後見人として先頭に立って隆文を応援してきた横浜の総支配人が、口をへの字に曲げる。

「なんとなくだけどね。八重さんと貴子から『要が総支配人になりたがっている』って聞いた時から、こういう結末に落ち着くような気はしていたんだ」

 鎌倉の総支配人は、ガッカリというよりもホッとしたような表情を浮かべていた。


「それに、僕は橘乃さんとは結婚しません。他に好きな人がいるから」

 ショックから抜け切れていない人々に向かって、隆文が更に爆弾発言を投下した。

「え? どんな子、どんな子?」

「香織ちゃんに、オーケーしてもらったのかい?」

 新しい話題に身を乗り出す鎌倉の総支配人と嬉しそうに微笑む八重の横で、「香織ってのは、誰だよ?! もしかして、ここの花屋の娘か?!」と、横浜の総支配人が喚く。 

 要も驚いていた。 

「いつの間に、香織ちゃんとそんなことになってたんだ?」

「そこまで鈍いのは要だけだよ。香織ちゃんと知り合ったばかりの橘乃ちゃんだって、気がついたってのにさ」

 呆然と呟く彼の背後から首を突き出すようにして、浩平がモニターの中で苦戦している橘乃に微笑みかけた。冬樹の許しがたい発言をモニターと一緒に仕掛けられた盗聴器が拾ったのは、その時だった。



『あんなみっともない男に、あんな美人の彼女がいるなんて、理解できないな』


 冬樹は、六条源一郎の秘書の葛笠を、その見た目だけで侮辱した。 

 性能の良い盗聴器は、冬樹の侮蔑的な笑い声まで、しっかりと拾っていた。 


 心無い発言に、その場にいた全員が顔色を変えた。だが、当人だけは気の利いたことを言っているとでも勘違いしているようだ。

『まさに美女と野獣の取り合わせだな。彼女も、あんな男のどこが気に入ったんだろう? もしかして、夜になると彼が本当に野獣になったりしてね。そして、彼女は、猛獣使いさながらに襲い掛かってくる彼を……』

 調子に乗って話し続けるうちに少しずつ大きくなる冬樹の声に反比例するように、モニターを見つめる人々の表情が冷めていく。彼の話を間近で聞かされている橘乃も、耐えられなくなってきたようだ。 


「やめてください!」

 鼓膜をきしませるようなハウリング音と共に、彼女の声がスピーカーを通して聞こえてきた。続く橘乃の謝罪は、冬樹に対してではなく他のテーブルの客に向けられたものだろう。

「そういうこと、言わないほうがいいです」

 冬樹に向き直った橘乃が、声を潜めて彼を諌めた。 


「いいじゃないか。どうせ聞こえない」

「あちらに聞こえなくても、私には聞こえます。はっきり言って不愉快です」

「君は優しいんだな」 

 反省の言葉ひとつなく、冬樹が橘乃を口説きにかかる。「ますます気に入ったよ。それに、僕に意見できる度胸も、なかなかだ。うなずいてばかりの女には飽き飽きしてたんでね」

 橘乃は答えず、話題を冬樹が一番話しやすいであろうことに――彼がオープンさせたばかりのリゾートホテルについての話に誘導した。


「勝負あったな」

「そうですね」 

 厳かに告げる源一郎に、和臣が静かに応じた。


「お父さんの言うとおり、無駄な心配した僕が馬鹿でした。橘乃をあそこまで怒らせるとは、ある意味たいした男ではありますが、橘乃は間違っても彼を夫に選ばないでしょう。僕も、彼を認める気にはなれません。姉さんや妹たちも、僕と同じ意見だと思います」

 兄の言葉に、姉妹を代表して明子がうなずく。彼女の隣では夫の森沢が、「食事の相手が橘乃ちゃんだったのは彼にとって幸運だったね。紫乃さんだったら、あの男にテーブルごと投げつけていただろうから」と、六条家の長女を引き合いに出して笑っていた。 


「我々も、どうあっても彼を認めるわけにはいかん」

 多くの茅蜩館一族の代表者としての横浜の総支配人も、両眉がくっつきそうなほど眉間にきつくシワを寄せてながら意見を表明した。 

「なぜなら、あの男は、まるで久助さんじゃないか?」

「そうそう。うちの旦那さまは、あんな感じでしたね。ご自分は何もお出来にならないのに、他人にケチをつけたり壮大な計画を語るのや知ったかぶりをなさったりすることだけはお上手で、スタッフやお客さまを怒らせてばかり。後始末はいつも大旦那さまや私たちで、本人は、何度お諌めしても反省すらなさらなくてね。あの頃は本当に大変でしたよ」

「当時子供だった私でさえ、あの人が勘当されたって聞かされた時にはホッとしたものだよ。久志の死後、久助さんが戻ってこようとしていると聞いた時には、悪夢だと思ったね。うちの母なんて、彼の実の姉だっていうのに、あの時のショックで体を壊して以来、すっかり元気をなくしてしまった」

 夫を懐かむ八重の横で、鎌倉の総支配人が疲れ切ったような顔でため息をついた。本日の魚料理に使われた地元相模湾産の新鮮な魚を冬樹に全否定されたばかりの鎌倉の総支配人もまた、当然ながら冬樹に好い印象を持っていない。 

「そういえば、鎌倉の大伯母さまって、昔はとても活発な方だったわよね。 こちらにも、しょっちゅういらしてた。『お前は、茅蜩館の総領なんだから、早く嫁を貰え』って、お見合い写真やら釣り書きやらを手に兄さんを追い回していらしたっけ」

 懐かしそうに話に加わった貴子も、生みの母親ごと自分を捨てた久助のことを許していない。冬樹が久助に似ているというのなら、彼女にとっての彼は、嫌悪の対象でしかないだろう。

「そんな私のことはさておき、東京の古株のスタッフも、恵庭久助には迷惑を被っているわ。同じような人から再び威張り散らされるかもしれないとなったら、あの人たちは暴動をおこすでしょうよ。ホテルの混乱は目に見えているから、私は反対。橘乃さんの夫としてもね。 あんなのと結婚したら、彼女が八重さんと同じ苦労をするだけよ。要は、どう思う?」


「え、僕?! いえ、私、ですか?」

 キョトンとした顔で応じた要は、自分に向けられた多くの視線を前にたじろいだ。ここで意見を求められるなんて、彼は思ってもみなかった。親戚が集まる場所において要は出過ぎた真似をしないというのが、これまでの暗黙のルールだったからだ。『良い』とか『悪い』とか、『好き』とか『嫌い』とか、これまでの要は訊かれたことがない。言ってもいい雰囲気だったこともない。 


「おいおい、いつか総支配人になりたいって思っているんだろう? ここで意見を言わなくてどうする?」

 心情的に尻込みしている要を勇気づけるように源一郎が笑う。

「橘乃のことはとりあえず脇に置いておいてもいいから、竹里冬樹を見ていて自分が感じたことを正直に言ってみろ。例えばお前が総支配人だったとして、冬樹は、オーナーとして茅蜩館を自分の好きなようにする権利をもっていたとする。その冬樹に上から『ああしろ、こうしろ。 これからはこうだ』と指図されたとしたら、どうだろう? お前は、彼の指示に素直に従えるか?」


「僕は…… たぶん、冬樹さんとは上手くやれないと思います」

 要は慎重に言葉を紡いだ。だが、その程度の答えでは源一郎は彼を解放してくれなかった。「ほう、なぜ?」と更に質問を重ねる。

「ええと…… 冬樹さんがオーナーになったら、茅蜩館が長い間かけて培ってきたものを全て否定して別のものに変えてしまう。そんな気がするからだと思います」

「だが、冬樹のやり方のほうが今風だし正しいのかもしれないぜ。現実を見ろよ。冬樹がオープンさせたリゾートホテルは莫大な利益を生んでいる。間違っているのは、君たちのほうかもしれない。今こそ古いやり方を捨てるべきなのかもしれない。そうでなければ、全ての客を冬樹のホテルに奪われ、茅蜩館は時代遅れのホテルとして廃れていくかもしれない。それでも?」

「確かに、私たちにも改めるべきところはあると思います」

 梅宮は認めた。

「例えば?」

「例えば、馴染客が多いことに安心して新しい客を入れる努力が足りていないような気がします」

「うん?」

 先を促すように、源一郎が微笑む。やっぱり全部話すまで許してくれないようだ。

 ならば日頃思っていることを全部言い尽してやろうと、要は決めた。 

 不満や疑問に思っていること。 今までどおり続けていったことがいいと思うこと。改善したほうがいいと思うこと。武里リゾートの成功例に茅蜩館ホテルが追随しないほうがいいと思う幾つかの理由、逆に取り入れるべき幾つかの工夫、等々……  

 途中途中で挟まれる源一郎の質問に助けられたり、BGMのように聞こえてくる冬樹の自慢話に反発したりしながら言うべきことを言い終えると、要は、「僕は、冬樹さんの――武里リゾートの真似をしたいとは思いません。あんなやり方では20年ももたない。武里リゾートの成功は一過性のものです。ブームが過ぎれば、莫大な負債を残して倒産する可能性だってあります」という言葉で話を締めくくった。


 だが、要の話が終わっても、周囲の視線は彼を捕えたままだった。横浜の総支配人は組んだ手の上に顎を乗せたまま何やら思いつめた様子で要を見据えていたし、竹里秋彦も難しい顔をしたまま、こちらを睨んでいる……ように見える。


(い、言い過ぎっちゃったかな?)


「生意気なことを言って、すみません」

 とりあえず謝る。

「いや」

 直接関わってはいないとはいえ系列の会社を貶されて怒っていていいはずの竹里秋彦が、要を見据えたまま、ゆっくりと首を振った。「君が言ったのは生意気なことではなく、いわゆる直言だ。武里リゾートに関する君の考察は、的を射ている」

 彼の手元にある内部資料によれば、冬樹がオープンさせたホテルの客室稼働率は初年度がピークであり、次年度からは客足が目に見えて落ちるという。 


「おそらく、競合するリゾートホテル、または冬樹が別の地域にオープンさせたホテルに多くの客を持っていかれているのだろう」

「自分が建てたホテルに、お客さんを取られてしまうんですか?」

「いかにも。リゾートホテルという性格上、新しくて楽しげな場所に客が流れるのは致し方ないことではあります。しかし、一定数の客を平均的に確保できないとやっていけないのは、どこのホテルでも同じです」

 驚く八重に秋彦が説明する。 

「年平均80パーセント超の客室稼働率を長年維持できている茅蜩館と比べたら、冬樹のやっていることは派手だが足元にも及ばない。ゆえに、要くんが目指している方向は間違っていないと私は思う」

「私も、冬樹と張り合うなら、それぐらい生意気でいいと思うわよ」

 いつもは要に敵対的な輝美が、夫の言葉に言い添えた。 


「……ということは? 少なくともあなたたちは、本当に茅蜩館から手を引いてくれるつもりでいると思ってもいいということかね?」

「私は、書類上だけの関係かもしれませんが浩平の父親です。浩平が自分がやりたいことを見つけたというのなら、ここを潮時とすべきだと思います」

 秋彦が、横浜の総支配人にうなずいた。

「本当のことを言えば、秋彦さんは、始めから、こんな争いは馬鹿馬鹿しいと思ってたのよ」

 輝美が八重に打ち明けた。「でも、茅蜩館を手に入れるのは、お義父さんの悲願だったし、他の親戚からのプレッシャーもあるし、なにより、お父さんが武里ホテルの恩人ってことになっちゃっているから、やめるにやめられなくて……」

「恩人? 久助さんが?!」

 驚愕のあまり、茅蜩館関係者全員が一斉に声を上げた。

「はい。茅蜩館にとっては厄介者でしかなくても、武里グループにとって彼は恩人でした。高級ホテルはどうあるべきか、どんなサービスをどういう手順ですべきか? 父は彼に基本から教えてもらったそうです。彼がいなければ、『ホテル武里』は垢抜けない安ホテルのままだったでしょう」

「『武里剛毅が俺を買ってくれてる』っていうあの男の話は、本当だったんだ」

「言いっぱなしの人だったとはいえ、言うだけだったら旦那さまは誰にも負けないかもしれなかったしねえ」

 唖然とした表情で、貴子と八重が呟く。


「私の父や久助氏の執念を考えると簡単に引き下がれない。今までそう思ってきました。しかしながら、冬樹は、なぜ私たちの父親が無茶な手を使ってまで茅蜩館を手に入れたがったのかということさえ理解できていないようだ。あれに渡すぐらいなら、茅蜩館は今のままでいてくれたほうが武里グループにとってもずっといい。頼もしい跡取りに恵まれたことでもあるし」

「ええ。ねえ、みなさんも、そう思いませんか?」

 秋彦に相槌を打った源一郎が、真実を知らされて呆然としている茅蜩館の人々に問いかける。

「先ほどの要の話。そのまま新オーナー就任の挨拶に使えるほど申し分のないものだったと、私は思うのですが?」

 源一郎の言葉に賛同するように弟たちと貴子が手を叩き始める。 

「まあ、隆文が降りた以上、致し方なかろう」

「そうだな。竹里さんが言うとおり、ここらが潮時だろうね」

 横浜と鎌倉の総支配人も拍手に加わった。長年の重荷を降ろせて気が抜けたのだろう。 八重は、拍手をしようとして手を合わせたまま泣き始めた。 


「本当によろしいんですか? 意義を唱えるなら、今しかありませんよ?」 

 指揮者のように手を振って拍手を止めた源一郎が、居合わせた人々に念を押す。

 誰も何も言わない。

「あの、僕!」

「お前の意義は受け付けない。めんどくせーから」

 要の意義は、言う前に却下された。


「よし。決まった!」

 充分に間をおいてから、源一郎が宣言した。 

「ご異議がなかったので、これからの茅蜩館を引っ張っていくのは梅宮要くんに決定しました! みなさん! 長い間の相続争い、お疲さまでした!」


 この時になって、要は、ようやく気がついた。 

 この場で言動を観察されていたのは、冬樹ではない。要だ。 


「でも、いいんですか?」

「話を蒸し返すなよ。これで、いいんだよ。 な?」

「ええ。六条さん。このたびは、本当にいろいろとありがとうございました」

 源一郎に笑いかけられた隆文が礼を言う。 

 その一見何でもなさそうなやり取りに違和感を覚えたのは、要だけではなかったようだ。


「隆文。まさか、お前……」

「『このたび』ってなんだよ?」

「『いろいろ』って、どういうこと?」

 皆が一斉に隆文を問い詰めようとする。 


「ぼ、僕は、『六条さんがオーナーになるのなら、六条さんが後ろ盾になって、要に茅蜩館のオーナーと同じ権限を持たせてやってほしい』って頼んでみただけだよ」

 隆文は、あっさりと白状した。


「お祖母ちゃんから話を聞いた翌日に六条さんに会いに行ったんだ。でも、六条さんは、お祖母ちゃんの頼みを断るつもりだったみたいだった」

「俺が介入すると、話が余計にこじれると思ったんだよ」

 一度は八重の申し出を断ることに決めていた源一郎だが、隆文の気持ちを聞かされたことで、考えを変え、その2日後に、娘の夫となる者に茅蜩館を与えると発表した。

「この際だから、俺が強権を発動して、要を他のふたり……というよりも全ての男性と同じ土俵に乗せる状況を作ってみてもいいかもしれないと思った」

 茅蜩館とは無関係の男がオーナーになるかもしれない。そういうことになれば、相続人の候補者とされてきた3人の中から茅蜩館を率いるに最もふさわしいものを選ぶ方がマシだと考える者が多く出てくるかもしれない。 

 源一郎の発表以後、これまでいがみ合っていた茅蜩館の一族も傍観者に徹していた茅蜩館のスタッフも、源一郎の目論見どおりの動きを見せ始めた。つまり、要を推し出す方向に……である。


「わたくしどもの争いを解決するために、六条さんは、大切なお嬢さんをダシに使ってくださったというわけですか?」

「ダシだなんて、人聞きの悪いことをおっしゃってくださいますな」

 立ち上がった源一郎が、芝居がかった仕草で両手を広げながら、テーブルの周囲をゆっくりと歩き始める。

「『タダより高い物はない』っていうでしょう? ホテルをいただくならば、その見返りを私が茅蜩館に差し出す必要がある。そう思ったまでです。もっとも、私も驚いています。 ここまですんなりと要に一本化されるとは正直思っていなかった。まあ、最近の茅蜩館では、世話好きのジジババスタッフが暗躍したり、超自然的な力が働いたりするみたいですから、当然の成り行きといえば成り行きかもしれんがね。だが、最大の功労者は、竹里冬樹くん。彼に違いない」

 源一郎が盗聴器と繋がっているスピーカーからコードを引っこ抜く。途切れることなく続いていた冬樹の声が部屋から消えた。


「とはいえ、橘乃に約束した以上、彼女の夫は彼女に選ばせます。オーナーの権利も依然として彼女と彼女の夫にあることは変わりません」

 しかしながら、彼らが得られるのはオーナーとしての報酬だけとする。要がこのまま頑張って茅蜩館を率いていくに足る人物になったと源一郎が認めれば、茅蜩館の運営に必要なほぼ全権を要に与えると、源一郎が約束する。


「え~ 夫選びを続行するの? せっかくだから橘乃ちゃんも要にあげようよ」

「甘えるな。俺はそこまで親切じゃねえよ」

 残念がる浩平に、素に戻った源一郎が歯をむき出した。「とはいえ、俺は、小さい頃から要を知っている。橘乃が彼を伴侶に選ぶのなら、俺に反対する理由はない。あとは、橘乃と要の気持ち次第。橘乃が欲しければ、要が自分で頑張ればいいだけのこった。ほれ、悪夢の会食が終わったようだぞ」

 源一郎がモニター画面に要の視線を促す。  


 橘乃たちは、食事を終えて、テーブルを離れるところだった。



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