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誕生日には歌を  作者: 風花てい(koharu)
33/86

恋の障害 2

 前菜をあらかた食べ終えると、竹里冬樹はソムリエを呼んだ。そして、自分が飲み干したワインの銘柄を聞き出すなり、不鮮明なモニターを通しても判別できるほど機嫌の悪そうな顔になった。 

『こんなものを飲ませるなんて……』

 スピーカー越しに冬樹の苦情が聞こえてくる。


 要は、首を傾げながら自分のワイングラスを取り上げると、念入りに味と香りを確かめた。 

 このホテルでは、注文時に特に指定がなければ、ソムリエがその日の料理に合わせて選んだワインが供されることになっているので、冬樹や橘乃と同じコース料理を食べている要が飲んでいるワインも同じもののはずである。要の感覚では、このワインは『こんなもの』と評されるようなものではないように思われた。軽い口当たりと前菜との相性も悪くない。

 

 もっとも、小さい頃から『味見だけだぞ。絶対に呑み込むなよ』と念押ししつつ彼と彼の弟たちにワインの味を教えてくれたのはモニターの向こうで冬樹に詰られているソムリエだから、自分たちの価値観を最上として冬樹のほうこそワインの味がわからないのだと決めつけるのは、早計であるどころか要を始めとした茅蜩館のスタッフの驕りでしかないだろう。しかしながら、ソムリエとのやり取りを聞く限り、冬樹が本当に気に入らないのは、このワインそのものの味ではなさそうである。


「気に入らないのは、味ではなくてラベルのようだな」

 要よりもずっとワインに詳しい横浜の総支配人は、ため息をつくと、給仕の隆文を呼んだ。 

「ところで、これは、どこのワインだ?」

「国産です。山梨の勝沼」

 隆文が皆に見せるように緑色のビンを持ち上げた。この後の肉料理に合わせる赤ワインはオーストラリア産を予定しているという。


「なるほど。フランスワインには精通しているらしい彼にとって、全くの守備範囲外の酒だというわけですか。というよりも、あの調子だと、国産なんて飲めるものじゃないと思っているかもしれませんね」

 ソムリエを追い払った冬樹が橘乃に向かって得意げに語り出した《ワインの見分け方》を聞きながら、森沢が苦笑を浮かべた。ちなみに、冬樹が話すところの《ワインの見分け方》というのは、フランスが自国のワインラベルに表記すべきことを定めたものでしかなく、品質を見分けるためのガイドラインにはなるが、他の国のワインを貶めるための基準にはならない。また、かの国にも、格付けは低めながら味や品質の良いワインはいくらでもある。


「自分にも覚えがありますよ。ああいうことって、覚えたてほど語りたくなるものですよね。特に女性に対して」

「あら、誰に語ったの?」

「残念ながら、語る前に祖父に釘を刺されたよ。『若造が酒を語ると恥をかくだけだから、やめておけ』だってさ」

 すかさず質問してきた妻に、森沢が嬉しそうな笑みを向けた。


「特に茅蜩館では、『勉強させてもらう気で飲め』って教えられた」

「勉強?」

「茅蜩館には、国内外から良い酒が入ってくるんだよ」

 キョトンとしている明子に父親の六条源一郎が教える。「バーを仕切っている時夫さんやソムリエたちが研究熱心で、オーナーが彼らに協力的だからってこともある。 だが、それ以上に、ここの『客』のおかげだがな」

 源一郎の言葉に、茅蜩館のスタッフの面々は感謝を込めてうなずいた。 


 彼の言うとおり、茅蜩館にはワインに限らず良い酒が自然に集まってくる傾向がある。

 以前橘乃にも話したことだが、茅蜩館は、この界隈で働く男たちの社交場としての役割を果たしてきたホテルでもある。観光や結婚式で利用する宿泊客も多いが、それ以上に仕事で滞在する客や、会議や飲食で利用するビジネスマン――しかも、比較的に金銭的な余裕がある男性が多い。


「旨い酒のためなら金惜しみもしない客も多くてな。そんな奴らが、仕事で海外や地方へ行っては、旨い酒の情報を仕入れてくる。 一方、他所から泊まりに来た奴も、自分の所の酒の自慢をする。すると、当然のように『是非、飲んでみたい』っていう話になるわけだ。国内の酒なら、紹介した奴が自分でもってくるだろう。また、幸いにして、ホテルの常連には、海外での買付や輸入業務に精通した者がいる。商売にもなるし、評判どおりの旨い酒であれば、次の商売にも繋がるから喜んで引き受けてくれる」

 そうして、今では多くの常連客が、出張のついでに茅蜩館向けの美酒を探してくれるようになった。 しかも、誰でも探せるような酒ではつまらないと思っているようだ。例えばワインなら、他のホテルやレストランではまだ扱われてないような国のものや、国内外で作られている地酒的なワイン。そういうものを探してきてくれる。  

 その結果、現在の茅蜩館は、他では出会えないワインを良心的な値段で楽しめる場所であるという評価を得るに至った。ワインだけでなく、他の洋酒や日本酒なども同じような状況である。冬樹が求めるような名実ともに超高級なワインの用意もあることはあるのだが、茅蜩館で、それらを注文する客は少ない。レストランの常連ともなれば、皆無だと言ってもいい。

 

「つまり、茅蜩館は、この界隈で働くオジサンたちが自分の好きな酒を持ち寄って作り上げた自慢の酒蔵でもあるわけだ。ゆえに、ここのワインにケチをつけるってことは、ソムリエだけじゃないくて、このホテルにワインを紹介した客や、その味を認めた客、買付や仕入れに協力した客の気持ちをも逆撫ですることに他ならない。ちなみにこのワインは、誰が探してきたんだ? 国外の酒入れる時は、どこがやってる?」

「白のほうは明昭精機の加賀社長、赤は神鋼製鉄の有沢という常務さんが紹介してくださったんだと思います。買い付けや輸入の手続きについては、ヨーロッパであれば主に笹倉商会さんに、それ以外の地域ですと、中村物産や菱屋商事さん、住永通商さんなどにお願いすることが多いです」 

 源一郎の問いに、総支配人の貴子が答える。

 

「笹倉……って、あの頑固オヤジの所か。そういえば、先代は大のワイン好きだったな」

 源一郎が笑う。「敵に回したら、おっかない所ばかりですね」という和臣の感想どおり、名前が挙がった企業は全て、この近くに本社をもつ大企業である。


「そんな事情も知らずに、付け焼刃的な知識を振りかざしてソムリエにイチャモンつけるなんざ、竹里冬樹という男はいい度胸というか……」

「ただの馬鹿なんだと思うわ」

 源一郎の言葉を、輝美がにべもなく締めくくった。 

「ロクに味もわからないくせに、女の子の前で恰好つけたいばかりに罪もない食材やワインに難癖つけるなんて、くだらない。でもねえ、世間を知らない若い女の子は、ああいう食通ぶった男に弱かったりするから困りものよね」

「ああ、それは、昨日、私が……」

 顔を曇らせた輝美の注意を引くべく、要は遠慮がちに手を上げた。 

 今しがた源一郎がしたのと同じ話ならば、昨晩のうちに要が橘乃に話していた。食材についても、シェフたちが本場の高級食材を空輸で揃えることよりも茅蜩館の地元である関東近辺の食材にこだわっていることや、実際に生産者を訪ねるなどしてメニューに工夫を凝らしていることなども――話したのは主に新館3階のレストラン《Day Life》シェフだったが――今の橘乃ならばわかってくれているはずである。

「よくやったわ、要」

 いつもは嫌味ばかり言われている輝美から、要は生まれて初めて誉められた。


 要たちがそんな話をしている間も、モニターの中に映る橘乃と冬樹の食事は続いていた。昨日と比べると橘乃の口数が少なく皿が空になる速度が速いような気がするものの、テーブルの雰囲気は和やかである。 彼らの話題は、ワインの話から冬樹が勤めるホテル・セレスティアルというの名前の由来に移っていた。


『セレスティアルというのは、《天上の》とか《神々の》というような意味でね。天上の宮殿での暮らすような最高の贅沢を客に味わってもらおうと、僕の父がつけたんだ』

「ブブーッ! 不正解」

 誇らしげに語る戸籍上の叔父の声を、弟の浩平が遮った。 

「違うのか?」

 要は意外に思った。武里グループが作ったパンフレットやホテルを紹介したガイドブックなどにも、そう書いてあったと彼は記憶している。

「外部の人や武里の社員なら、今ので正解だけどね。でも、本当は違うんだ。ね?」

 浩平が、戸籍上の養父母である竹里秋彦にからかうような笑顔を向ける。秋彦は全く動じていないようであったが、彼の隣にいた輝美は、なぜか耳まで赤くなっていた。



 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇




 竹里秋彦がホテル・セレスティアルという名称の本当の由来を大真面目に語り始めた頃、橘乃は、一生懸命になって冬樹の話を聞いていた。わざわざ一生懸命にならないと気持ちが他所に向いてしまうほど、彼の話には橘乃が同調できないところが多かったからだ。


 彼の話だけを聞く限り、彼は大変な食通で、多彩な趣味を持ち、スポーツも万能で仕事もバリバリとこなしている有能な実業家だということになる。一昨日前の橘乃であれば、彼の話に熱心に耳を傾け、その結果、彼に夢中になっていたかもしれない。


 しかしながら、昨日冬樹と同業の梅宮と夕食を共にし、彼や彼と一緒に仕事をしているホテルのスタッフの話を聞いた後では、そうもいかない。毎日毎日ホテルでしっかりと働いている梅宮の日常と比べると、冬樹の言っていることは、とても薄っぺらい感じがした。もっと悪く言えば、嘘っぽい。 


(威勢の良いことばかりいっているけれども、本当のところは、どうなのかしらねえ?)


 梅宮や兄が知っているぐらいなのだから、冬樹が最高責任者を務めるリゾート会社が次々に新しいホテルをオープンさせることで莫大な利益を武里グループにもたらしているということは事実なのだろう。 

 だけども、要の話から察するに、ここ東京の茅蜩館ホテルを半年後に休館にするだけでも大仕事なのだ。数年のうちに10近くのリゾートホテルをオープンさせようと思ったら、大会に出るためにテニスやスキーの練習をしたり、誘われて映画に出演している暇があるとは、とても思えない。 

 

 もしかしたら、冬樹は、いわゆる会社の看板でしかなく、仕事らしい仕事をしていない人なのかもしれない。そんな疑いを他人に対して抱く自分自身に橘乃は嫌気を感じたが、彼が今秋オープン予定のリゾートホテルが建つ地域にある有名や山や美しい湖の名前もうろ覚えなら、多くの人が訪れる観光スポットにも詳しくないことがわかると、その疑いは、いよいよ濃くなった。しかも、彼はホテルそのものの仕事にも詳しくないようだ……というよりも、そもそも興味がないらしい。


「そんなこと、どうでもいいじゃないか」

 冬樹は、言い訳すらしなかった。「多くのプロジェクトを一度に抱えているものだから、些細なことにかかわっている暇がなくてね。わずらわしいことは、全て部下に任せている」

「なるほど」

 橘乃は、彼の言葉を頭から否定することはしなかった。 

 彼の言うこともわかる。実際、病弱ゆえに家に引きこもっている姉の紫乃の夫は、ほとんどのことを社員に頼らなければやっていけない。また、怠け者を自認する次女明子の夫も、寝る暇もないほど忙しくしていた最中でさえ、できるだけ多くの仕事を他人に押し付けてやろうと躍起になっていたと聞いている。

 梅宮にしても、八重が『要は人を使うのが下手で困る』と今日の午後にお茶に呼ばれたときに嘆いていたから、もう少し人に頼ることを覚えたほうがいいのかもしれないとはいえ、それでも、彼独りでホテルの全てを切り盛りすることはできないだろう。 

 だけど、同じ《他人任せ》でも、彼らの《他人任せ》と冬樹の《他人任せ》では、根本的なところから大きく異なっている。橘乃には、そんな気がしてならない。


(どこが違うのかしらね。やる気?)

 冬樹の話に気のない相槌を打ちながら橘乃がそんなことを考えていると、本日の肉料理が運ばれてきた。

「栃木産の肉? 聞いたことないな。こんなの食えるのか?」

 栃木県に対して大変失礼なことをサラッと言ってのけながら、冬樹が肉にかぶりついた。怒る気力をなくした橘乃も、フォークとナイフを手に取った。この食事会が終わったら金輪際冬樹には関わるまいと、非常に味わいのある肉を噛みしめながら橘乃は決めた。当然、彼と結婚もしない。彼は、橘乃とは全く関わりのない場所で、一生勝手なことを言っていればいい。冬樹の仮装ではないが、こんな男は、『勝手にしやがれ』だ。

(それにしても、あっちは、楽しそうでいいわね)

 橘乃は、隣のテーブルで食事をしている妹と葛笠に、羨ましげな視線を向けた。 

 会話が弾んでいるのだろう。 向こうのふたりの食事はゆっくりと進んでいた。紅子はとても幸せそうだった。時々鈴を転がすような笑い声が聞こえてくる。


「理解できないな」

 出し抜けに冬樹が言った。

「え?」

「後ろのテーブルの、足の悪い顔に傷のある男だよ」

 右斜め後ろのテーブルにいる紅子と葛笠をチラリと目をやると、冬樹が、声を潜めた。

「あんなみっともない男に、あんな美人の彼女がいるなんて……」


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