恋の障害 1
会議室――もとい本館2階のフレンチレストラン《ひぐらし》内にあるパーティルームには、徐々に人が集まり始めていた。
部屋の入り口に対して横長に置かれたテーブルにセットされた食器の数からすると、出席者は10人。 既に着席している4人のうちの3人は、茅蜩館の人間である。
「会議の後、お戻りになったんだと思ってました」
「そのつもりだったんだけどね。こちらの六条さんから、横浜と鎌倉にも、この際だから防犯カメラを導入したらどうかと誘われてね」
「八重さんも、『そうしたほうがいい』って言ってくれたから、我々も同席することにしたのだ」
八重を真ん中にして座っている鎌倉と横浜の支配人が、要に説明しながら会議の主催者である六条和臣に顔を向けた。
橘乃よりも2歳年上でこの春に社会人になったばかりの和臣は、誂えは上等だが形としてはどこででも見られるスーツを着ていた。だが、普通の身なりをしている和臣のほうが、冬樹の何倍も見栄えがすると要は思った。父親譲りの端麗な容姿のせいだとしても、和臣と冬樹では比べものにならないほどの差を感じる。これほど差が開いていると、流行りものの力を借りることまでして橘乃の気を引こうとした冬樹が、気の毒にさえ思えてくる。とはいえ、今は、あんな男に同情している場合ではないだろう。
「あの…… いいんですか? これ?」
要は、パーティールームに足を踏み入れてから、ずっと気になっていたものに目を向けた。
「何か問題でも?」
体をずらすようにして、和臣が、彼の背後に仮置きされた3台のモニターを振り返る。
それぞれが別の仕組みで動くカメラに繋がっているのだろう。各モニターの上部には、『A』『B』『C』という張り紙がされていた。『A』の画像に写る人物の動きがなめらかであるのに対し、『B』の画像はコマ送りのような動きをしている。『C』も静止画像だ。だが、このモニターは、複数の異なる場所に設置されたカメラからの映像を受け取っているようで、数秒ごとに映る景色が変わる。
「BとCは数秒ごとの撮影なので画像は見づらいかと思うんですが、ホテルという公共性の高い場所柄、トラブルが生じた時、もしくは警察から協力を求められた時に、日付を遡って画像を確認する必要が出てくるかと思います。映像記録を一定期間保存するとなると、それらをコンパクトにする必要があるわけで……」
「いえ。 そういうことを問題にしているのではなくてですね」
要は、和臣の淀みのない説明を止めた。
彼が問題にしているのは、撮影方法ではなく被写体のほうである。3つのモニターの全てに、橘乃が映っている。自分の知らないところで大勢の人間からデートの様子を観察されていることを知ったら、彼女が傷つくかもしれない。
「でも、監視カメラとは、つまり、そういうものです。防犯上やむを得ないとはいえ、犯罪とは無縁の人のプライバシーまでをも侵害する」
要の指摘を、和臣が冷めた口調で退けた。
「ですが……」
「ですから、今回は、一般のお客さまのプライバシーには存分に配慮し、私の妹を被写体に選びました」
これならば他人の迷惑にならないと和臣が主張する。冬樹や橘乃と一緒に映り込んでしまう奥のテーブルには、彼ののもう一人の妹――六条家4女の紅子を座らせる手筈にもなっているという。紅子と一緒に食事をするのは、父親の秘書の葛笠だそうだ。昨夜、橘乃が話してくれたことが事実なら、葛笠は紅子の片思いの相手である。
「紅子は喜んで、この役を引き受けましたよ。橘乃にも、後で私から話しておきます。なに、あの子は、自分の写り具合を気にすることはあっても、怒ったりはしないでしょう」と、身内の和臣から言われれば、要も強く反対することはできない。
「そういうことだから、要。ここは、お身内のプライバシーを犠牲にしてくださった六条さんの御好意に甘えさせてもらおうじゃないか? な?」
「そんなに硬いこと言わないで、ね」
要の態度が軟化したところを見計らって、横浜と鎌倉の総支配人が和臣に加勢する。彼らの表情から、彼らが防犯カメラの性能を見極めることよりも冬樹という人物を見極めることに興味をもっていることは明らかだ。八重は、もっと正直だった。「こんな覗き見めいたこと、悪いことだって、わかっているよ。だけど、今回だけは特別だと思って見逃しておくれ」と、拝み倒すようにして要に訴える。
「……。 しかたがありませんね」
要は、肩を落とすようにしてため息をつくと、モニターに目を向けた。そこには、テーブルに案内される紅子と葛笠の姿が映っていた。
「この人、足が悪いみたいだね」
「ええ。右足と右目が」
特徴的な歩き方をする葛笠に気が付いた鎌倉の総支配人に、和臣が答えた。橘乃のテーブルのすぐ脇を歩いていた葛笠が何かにつまずいたかように膝をついたのは、その直後である。
「あっ!」
その場にいた全員が、思わず声を上げた。
「おい。後で、あそこを」
「はい。確認しておきます」
横浜の総支配人の指示に、要は気を引き締めた。足の悪い人にとって、大きな段差は辛い。しかしながら、意識しづらい床のわずかな出っ張りやカーペットのたわみなどのほうが、実は転びやすいという。危険のないように確認しておく必要がある。
「あの…… 葛笠のことを心配してくださるのは、大変ありがたいのですが」
和臣が申し訳なさそうに話に割り込んできた。
「今の、わざとなんです」
「は?」
「実は……」という和臣の声と、『大丈夫かしら?』という橘乃の心配そうな声が重なった。
『何が? ああ、今、転んだ人? 別に、問題ないでしょう。ところで、食前酒はシャンパンでいいよね?』
橘乃の声ばかりか冬樹の声も聞こえてきた。音の出所は、3台のモニターが乗せられた台の端に置かれたスピーカーである。
「……。六条さま。最近の防犯カメラは、音声も拾ってくれるんですか?」
「いいえ。でも、画面だけじゃ物足りないかな……と、思いまして」
厳しい顔で問いかける要を懐柔するように、和臣が無邪気ないたずらを咎められた子供のような笑みを浮かべた。どうやら、彼は、葛笠に命じて、橘乃のテーブルに盗聴器を仕込ませたようだ。しかも、足の悪い彼に転ぶフリまでさせて!
要は、和臣に呆れると同時に咎める気を失くした。なぜなら、和臣のやっていることが、あまりにも彼の父親がやりそうなことだったからだ。似ているのは顔だけかと思いきや、この若者は、親馬鹿の遺伝子まで、父親の源一郎から受け継いでしまったようだ。
「橘乃は、浮ついたところがありますから。それなのに他の姉妹同様思い込みだけは激しいので、変な男に引っかかりやしないかと心配なんです」
「そのお気持ちは、大変よくわかりますよ。橘乃さんは、惚れっぽい人みたいですから」
親身な表情で和臣にそう話しかけたのは、もちろん要ではなく、ちょうど部屋に入ってきた彼の弟の浩平だった。
「また、お前は、余計なことを……」
口の達者な浩平の存在を、要は邪魔に思った。だが、今日の浩平は、もう一人の弟の隆文と共に食事会も兼ねた会議の給仕を仰せつかっているのだそうで、追い出すことはできなかった。それはさておき、要を驚かせたのは、浩平が連れてきた会議の7人目の参加者だった。
「竹里さん?!」
「久しぶりだね。要くん。雅彦さん。お母さまのお加減は、いかがだろうか?」
驚く要に挨拶し、慇懃な口調で鎌倉の総支配人に話しかけた長身の男性は、浩平の戸籍上の父親である竹里秋彦であった。つまり、セレスティアルホテルグループのトップであり、冬樹の会社の親会社の社長でもある。冬樹とは異母兄弟でもある彼は、彼の妻――すなわち浩平の戸籍上の母親であり貴子の異母妹にして口げんかの相手でもある輝美を連れてきていた。
「武里グループは、現在、ホテル及びデパート部門への最新型の防犯カメラの導入を検討している。また、ホテル部門を総括する立場にある身としては、冬樹の独断的な行動が原因となり、良好とはいえないまでも長年続いていた茅蜩館との協力関係が壊れることだけは避けたい。ましてや、彼の火遊びが原因で、六条グループから敵として認定されるようなことがあってはならないと思っている。ゆえに、私は、彼の真意はもちろん、彼の器を見極める必要がある。橘乃さんに対して本気なのか。 茅蜩館のオーナーとして……というよりも、そもそも、セレスティアル・ホテルリゾートの舵取りを任せておくに足りる人物なのかということだ」
「冬樹に探りを入れようにも、武里の中では何かと邪魔が入るのよ。冬樹のお母さんとか冬樹のお母さんとか冬樹のお母さんとか!!」
堅苦しい夫の横で、輝美が腹立たしげに連呼した。
要は噂でしか知らないものの、冬樹の母親は『武里のゴットマザー』の異名と持つ女丈夫である。自分の血を分けた息子だけを猫かわいがりしているという噂も聞いている。
「秋彦さんは彼女の前の奥さんの子供だから、彼女は、秋彦さんや秋彦さんのお義兄さまたちが息子を追い落とそうとしているじゃないかって常に警戒しているし、彼女は彼女で、なんとかして秋彦さんたちを追い落とそうと画策しているのよ。汚いんだから、あの人!」
ゆえに、今日こそはゴットマザーの妨害なしに冬樹を観察する絶好の機会なのだと、輝美が言った。 秋彦が、「そういうことなので、盗撮でも盗聴でも利用できるものならばなんでも、私は歓迎だ。万が一にでも冬樹に知られて問題になった時には、私が責任をもって対処する」と、折り目正しい口調で妻の言葉を補いながら、席についた。これで8人。
最後のふたりは森沢夫妻――六条家の次女の明子とその夫だった。
森沢氏は、要よりも幾分年上である。和臣ほどの美貌の持ち主ではないが、洒落者で知られていた故喜多嶋紡績会長が可愛がっていた孫だけのことはあって、実に様子のいい青年だ。スーツも、この人が着ているのと自分たちがきているのでは作りが違うのではないかと思うほど、きれいに着こなしている。
「ますます、冬樹の立場がないね」
森沢に視線を向けつつ、浩平が要の耳元で嬉しげに囁いていく。「要も、橘乃さんの婿になるなら、顔はともかくセンスを磨いたほうがいいよ。特に私服」
「余計なお世話だ」
要は弟を睨んだ。だが、彼は怒れる兄の視線などものともせず、涼やかな表情で、「始めてもよろしいですか?」と、主催者の和臣に確認を取る。
言われてみれば用意された10席は、森沢夫妻の登場で全て埋まっていた。だが、全員揃っているはずなのに、要は、なにか肝心なものが足りないような気がした。そして、そのように感じたのは、要だけではなかったようだ。
「あれ? お義父さんは? 今日は来ないの?」
森沢が、着席している面々を見回しながら年下の義兄にたずねた。
「誘ったんですけどね」
和臣が肩をすくめる。「『意味がない』って言うんです。父は最近おかしいんですよ。娘のこととなると人格が変わるほど馬鹿になるはずなのに、今回に限って妙に冷静だというか、変に達観しているというか…… 『俺が出しゃばらなくても、なるようになってんだよ』なんて言っているんですよ。信じられます?」
「信じられない。ありえない」
明子を手に入れるために出しゃばりの六条源一郎から散々苦しめられた経験をもつ森沢が、断言した。
要も、娘の心配をしない六条源一郎など想像できなかった。
「まさか、具合でも悪いんじゃ……」
要がつぶやく。すると、その場にいたほぼ全員が、いかにも心配そうに顔をしかめた。
「食事が終わったら、お義父さんの様子を見に行ってみるか?」
森沢夫妻が、顔を見合わせてうなずき合う。
しかしながら、要たちの心配は、杞憂だったらしい。まもなく、浩平と共に今日の給仕を務める弟の隆文が、前菜を運ぶついでのように六条源一郎を連れてきた。先ほどまで要が行ったり来たりしていた廊下をウロウロしている彼を見かけて連れてきたのだという。
「やっぱり気になってるんじゃないですか」
「竹里冬樹に興味なんかねえよ」
嬉しげに父を迎えた和臣にそっけなく言い返すと、源一郎は、急遽用意された席についた。
「あの程度の男に、私の娘が引っかかるわけがない。だいたいなんだよ。あの仮装。季節外れの忘年会の余興か?」
せせら笑いながら源一郎がモニターを指さすのと同時に、目深に被っていた冬樹のパナマ帽が、美しく盛り付けられた前菜の上に落下した。
「前菜でよかった。スープだったら、おろしたての真っ白なおべべが台無しだ」
「確かに」
源一郎の揶揄に、大真面目な顔で秋彦が応じた。そして、「ですが、六条さんは、意味がないとわかっていながら、なぜ、わざわざいらっしゃったのですか?」と、これまた大真面目な顔で質問した。
「それはね。この場には、竹里冬樹以上に、私が見極めたいことがあると気が付いたからですよ。あなたがただって、実は、そうでしょう?」
「それも目的のひとつです」
源一郎の曖昧な問いかけを、秋彦が肯定する。横浜と鎌倉の総支配人も彼と同じ意見であるかのように微笑んだ。
「ああ、なるほど、そういうことですか」
和臣と森沢が得心がいったようにうなずきながら要に目を向けた。そして、要は、どう反応したものかと途方に暮れた。ここは、自分も、わかったような顔で彼らにうなずき返してみせるべきなのだろうか?
(でも、竹里冬樹さん以外に、この場に見極めるものなんかあるのだろうか?)
(例えば、レストランで働くスタッフの動線をチェックしつつ、リニューアル後のレストランの仕様を考えてみる……とか?)
いささかトンチンカンなことを考えつつ、要は、男たちの会話に全く参加していなかった女性たちに同調するようにモニターに注意を向けた。女たちは、意味ありげに目配せしあっている男たちのことなど全く意に介さず、冬樹を肴に盛り上がっているところだった。
「あの衣装は、ないと思わない? 前々から馬鹿じゃないかと思ってたけど、本当に馬鹿だったのねえ」
「モテるらしいけれども、あんな男と付き合いたいなんて思う女の気がしれないわね」
「夫によれば、ああいう恰好は、女性が男性をおもてなしするお店の女の子にはウケるようですよ。だから、冬樹さんは勘違いなさってしまっているのかもしれませんね。あとは、話題性でしょうか? 冬樹さんと付き合うことで、付き合った女性にも世間の目が集まるでしょう? 打算的な気持ちで彼に近づいたとも考えられます。橘乃も、そのあたりのことに気が付いてくれるといいのだけど」
「大丈夫ですよ。橘乃さんは、お姉さまが思っていらっしゃるよりずっとしっかりした考えをもっていらっしゃいますよ。見てくれの良さに惹かれて一瞬は時めいても、あんなのに夢中になるほど愚かじゃありませんって」
いい年をした八重や、いつもは仲が悪い貴子と輝美、品のいい森沢明子夫人が言いたい放題である。
「女って、怖ええな」と、源一郎が苦笑しながらつぶやいた。
〇 ● 〇 ● 〇
その頃。
モニターの向こうの八重に『愚かではない』と評価された橘乃は、冬樹からの食事の誘いを受けてしまった自分の愚かさを現在進行形で悔いていた。
冬樹の言動は、どういうわけだが、ふだんは温厚な橘乃の神経にいちいち障った。
これから改装する予定でもあるから、レストランの古さを貶すことぐらいなら、まだ許そう。帽子をかぶったまま食事をすることにも、目を瞑ってもいい。その帽子が運ばれてきた前菜に落っこちて、せっかくの盛り付けがグチャクチャになっても、予想できたことだから『そらみたことか』と思っただけだ。
しかしながら、たとえ帽子を落としてしまった照れ隠しであったとしても、新しく運ばれてきた前菜や、これから供されていることになっている料理に使われている食材にケチをつけるのは、少しばかり大人げないのではないかと思う。
(本場だかなんだか知らないけど、わざわざ外国から食材を空輸するものよりも、近くで取れる新鮮な食材のほうが美味しいと思うのだけど。高級食材じゃなくても、美味しいものは美味しいと思うのだけど)
いちいちいちいち、冬樹の言葉が橘乃の気持ちに引っかかる。
もちろん、冬樹の言いたいことは理解できる。彼の言うような高級感を有難がる人がいることも知っている。
だが、茅蜩館が充分すぎるほど食材を吟味していることを、橘乃は知っている。昨日の夕食時に梅宮やレストランのスタッフが話してくれたからだ。冬樹の話を聞いているうちに、橘乃は、冬樹が考えている素晴らしい食材と茅蜩館が考える素晴らしい食材は、定義からして違うのだろうと思い至った。茅蜩館の料理人たちは、冬樹のように食材を選ぶ時に誰かが決めた『高級』という基準に頼っていないだけなのだろう。なぜなら、彼らは自分たちの目と耳と舌で本当に価値のある美味しい食材を見つけ出すことができるから、そんな基準に頼る必要がないだけなのではないだろうか?
それに、どんなに冬樹が貶そうが、橘乃が今食べている料理は、とても美味しい。
(冬樹さんのホテルと茅蜩館はライバル関係にあるのでしょうから、対抗意識が言わせているのかもしれないわね)
橘乃は、冬樹の毒舌を善意的に解釈すると、「そんなに文句ばっかりおっしゃってないで、ひとくちぐらい、召し上がってみれはいかが?」と、笑顔で冬樹に勧めた。こんなに美味しいものを、食べずにいるなんてもったいないし、文句ばかり言っている人とご飯を食べても面白くもなんともなかったからだ。
「こんな安っぽいものが、僕の口に合うとは思えないけどね」
肘とため息をつきながら、冬樹がフォークを口に運んだ。
「まあ、悪くはないな」
不本意そうに、冬樹が呟く。
「でしょう?」
橘乃は満足げに微笑んだ。 これでやっと心から食事を楽しめると思った。
だが、橘乃が安心できたのも束の間のことだった。前菜を食べ終えると、冬樹は、ワインにもケチをつけ始めた。




