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誕生日には歌を  作者: 風花てい(koharu)
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六条さまの持参金 2

 長野から戻った橘乃が父の源一郎から誘いを受けたのは、それから10日ほど後の朝だった。今日の午後に少し時間が空くので、茅蜩館ホテルのラウンジでお茶でもしないかという。


 馬鹿がつくほどの子煩悩とはいえ、忙しい父が娘を誘ってくれることなど、めったにない。「あのホテルの建て直しのことで、君をひどくがっかりさせてしまったみたいだからね。せめてものお詫びだよ」と、源一郎は言っていた。

「お父さまは、建て替えのお仕事を請け負っただけなのにね」

 建て直すのが自分の不始末の結果であるかのように萎れた顔をしていた父を思い出しただけで、橘乃は笑い出してしまった。化粧の最中であるというのに、唇に当てた紅筆の先が小刻みに震える。橘乃が笑いをこらえながら口紅を塗ることに集中していると、母の美和子が部屋に入ってくるのが鏡越しに見えた。


 美和子は、金に飽かせてやりたい放題……と世間から非難されがちな橘乃の父が、本妻が亡くなった後に自宅に住まわせるようになった(というよりも居座られたらしい)6人の内縁の妻のうちのひとりだ。面食いの父が選んだ女性だけあって、美和子もまた、姉や妹たちの母でもある他の妻たちと対等に張り合えるだけの美しさを有している。とはいえ、彼女は、娘の橘乃の目から見ても、かなり変っていた。 

 

 美和子を一言で言い表すならば、『派手な衣装の女』である。 

 彼女は、いつもいつも、生きるフランス人形のように自分を飾り立てている。身にまとうのは、レースやフリルやリボンが多すぎる服ばかり。髪型にせよ、ロングヘアのすそのあたりを縦巻きに大きくカールさせるという年甲斐を無視した愛くるしいものだったりする。その髪をまとめるリボンも、当然ように幅広のレースだ。


 美和子が身につけたがるもののほとんどが成人した娘のいるオバサンにとっては恥ずかしすぎるものであり、装う者によっては妖怪呼ばわりされそうな恐ろしい見た目を作り出しかねないものばかりであるにもかかわらず、実の娘ですら真剣に諌めることができないほど、彼女には、そうした格好がよく似合っていた。美和子が人形が着ているような可愛らしい服を着ようと、人形でなければしないような髪型をしようと、それを仮装だと嗤う者は、まずいない。もちろん、彼女の派手な装いをに呆れたり気味悪がったり距離を置こうとしたりする人はいるのだが、その人たちでさえ、自らを美しく見せるために美和子がそのように装っているのだろうと好意的に見過ごしてくれるだけである。

 だからこそ彼女こそが六条家一番の化け物かもしれない……とは、兄の和臣による親しみのこもった美和子評である。美和子は、小さい頃に実母、すなわち源一郎の本妻を亡くした和臣の母親代わりでもあった。


「ねえ? 髪の毛、いじらせてもらっても、いい?」

 とろけるような微笑を浮かべながら近寄って来た美和子が、鏡の中の橘乃にねだった。


 源一郎の愛人たちの中には自分の娘以外には関心がない女や取っ付きづらい女もいるが、美和子は、恋敵の娘たちとも積極的に仲良くしたがるほうである。娘たちと友好を深める方法はいろいろあるが、美和子の場合は、彼女たちに『おめかし』させることだった。自分のことは節度を忘れて飾り立てる美和子ではあるが、他人の装いに手を貸すときには、常識の範囲内に収めつつ、可愛くお洒落に仕上げてくれる。そのことを知っている六条家の娘たちは、いつでも彼女に『悪戯』されたがった。


「ね、いいでしょ?」と頼まれた橘乃も、喜んで許可を出した。

「私、橘乃ちゃんの髪が大好きなのよね~」

 ブラシを取り上げた美和子が、穏やかな波のようにうねる彼女の髪を嬉しそうに梳き始める。


「ところで、お父さまと茅蜩館ホテルでお茶するんですってね? いいわね」

 両サイドの髪を編みこみながら、美和子が羨ましそうな顔をする。

 だけども、彼女は本気で橘乃を羨んでいるわけではない。「お母さまも、一緒に行かない?」と、橘乃が無駄を承知で誘ってみれば、予想通り、「私は遠慮しておくわ。楽しんでらっしゃいね」という愛想のよい断わりが美和子から返ってきた。美しく精巧な作りの人形が家の中で大事に飾られているのと同じように、この生きる偽フランス人形も家から外に出たがらないのだ。 


「この間は長野まで行ったじゃない。それなのに、どうして、普段のお母様はお出かけしようとなさらないの?」

 橘乃は、不満を露に頬を膨らませた。

 長野で行われた明子の結婚式には、美和子も出席した。紫乃の結婚式の時には、茅蜩館ホテルに赴いてもいる。しかも、いつも通りの派手な格好で、である。美和子は外に出たがらない言い訳に『私は人見知りだから』という言葉を使うが、他人が目を剥くような格好で大勢の人の前に出られる彼女のどこが人見知りなのだか、橘乃にはわからない。


「あれは、特別の特別」

 編んだ髪を後ろでひとつにまとめながら、美和子が微笑んだ。 

「だって、私は紫乃ちゃんや明子ちゃんとは血が繋がっていないし、源一郎さんの愛人のひとりでしかないのよ。普通ならば、存在すら否定されて当然なのに、あちらのお家のお父さまは、『紫乃ちゃんたちの成長をお母さんのように見守ってきたことには変りないのだから』といってわざわざこちらに出向くことまでして招待してくださったの。それほどのご招待を断るわけにはいかないじゃないの」

「そうかもしれないけど」

「それに、なんといっても、紫乃ちゃんと明子ちゃんの結婚式よ!」

 いきなり、美和子の声が半オクターブほど跳ね上がった。

「あの二人のウェディングドレスを見られるチャンスを逃すことなんてできないわ! そんなことをしたら、一生後悔しそうだもの! 本当に素敵だったわねえ! 今思い出してもゾクゾクするわぁ」

(なんだ。やっぱり、ドレス目当てだったのか)

 櫛を握ったまま両手を組み合わせてウットリしている鏡の中の美和子に、橘乃は苦笑を向けた。


「でも、ドレスもいいけれども、茅蜩館のアップルパイも魅力的だと思わない?」

 諦め切れない橘乃は、美和子の好物を餌に誘いをかけてみた。「ホットケーキとか?」

「確かに、あそこのカラメルシロップのソースは捨てがたいけどね。さあ、できた。ああ、口紅の色も直したほうがいいわね。ちょっと口を閉じていてくれる?」

 美和子は、問答無用で橘乃を黙らせると、彼女の唇をティッシュで拭い、それまでのよりも淡い色の紅を乗せ直した。

「うん。可愛い」

 美和子が、橘乃から一歩下がって満足げにうなずく。

「じゃあ、楽しんでらっしゃいね。遅くなるようならば電話して。お土産はホテルのクッキーがいいわ。みんなの分も買ってきてね。それから……」

 おしゃべりの橘乃を凌ぐ早口でまくし立てながら、美和子が玄関先まで見送ってくれた。


 押し出されるまま屋敷の外に出た橘乃は、待たせていた車に乗り込むと、茅蜩館ホテルに向かった。道路は空いており、車は予定よりも30分以上も早くにホテルの前にたどり着いた。

(まあ、いいか)

 橘乃は思い直した。せっかく早く着くことができたのだ。数ヶ月後に壊してしまうというホテルを眺めながら散歩してみるのもいいかもしれない。

「ここで降ろしてもらえる?」

 車寄せに入る手前の道路で、橘乃は運転手に声をかけた。



*************************************************


 銀座で買い物をしてから戻るからと言って運転手を帰してしまうと、橘乃は日傘を差した。まずは、ホテルの周囲をぐるりと回ってみることに決め、正面玄関から遠ざかるように有楽町に向かって歩き始める。


 茅蜩館ホテルは、丸の内のビジネス街の端っこに位置している。そのせいか、観光地化している皇居のお堀端や銀座や大きな劇場が近くにあるにもかかわらず、昼休みが終わった今頃の街路は、人通りも少なく閑散としていた。 


 どこかから聞こえてくるアブラゼミの声を追うようにして、ホテルを見上げる。高層ビルを造る技術も必要もなかった時代に建てられた風格を感じさせてくれる本館と、その隣にある新館。新館のほうは、色合いこそ本館に似せてあるものの、四角いガラス窓が等間隔に並んだ現代風の建物となっている。 

「どうして、建て直しなんかするのかしら?」

 ホテルを見上げながら、橘乃は口を尖らせた。どちらの建物も、どこも壊れていない。古いことは古いのだろうが、廃れた感じもしない。このホテルには、今時の背が高いばかりのビルにはない味わいと、丁寧に積み上げてきた歴史の重みのようなものがある。それを、わざわざ建て直すことまでして、豪華だけれどもどこか薄っぺらい感じがする今風の建築物に取り替える必要が本当にあるのだろうか?

「もったいないなあ」

 未練がましくつぶやきながら、橘乃は、歩道に転がっていた小石を蹴飛ばした。小石は、思いの外遠くへ跳ねて、前方にしゃがみこんでいた男性の背中にぶつかった。


(うわっ! ごめんなさいっ!)

 橘乃は青くなったが、男は石が当たったことに気がついていないようだった。どこかの菓子店のものだと思われる浅緑の紙袋を脇に置いたまま、うつむくようにして歩道にしゃがみこんだままになっている。

(もしかして、具合が悪いのかしら?) 

 そうだとしたら、気遣うなり、手を貸してあげるべきだろう。

「あの! 大丈夫ですか?」

 橘乃は、ためらいもなく男に声をかけると、小走りで近づいた。

「はい?」

 橘乃の声に反応して男が彼女を振り仰ぐ。学生ではなさそうだが比較的若い男であった。幸いなことに具合が悪そうな顔はしていないし、怒ってもいないようだ。だが、次の瞬間。その若者が、知った顔を見つけたような顔で、彼女に向かってふわりと微笑んだ。 

(え?)

 思いがけない笑顔を向けられて驚いた橘乃は、若者の少し手前で走るのをやめた。親しげな笑顔を浮かべたまま、若者は立ち上がると、戸惑っている彼女に丁寧に一礼した。『涼やか』という表現がぴったりとくるような、とても綺麗な所作だった。


「こんにちは。 六条さま。今日はお独りでお出かけですか?」


(誰だっけ?)

 柔らかい声で問いかけられ、橘乃は更に戸惑った。

(お友達のお兄さん? カレ? それとも弟さん?)

 それとも兄の友人? もしかしたら、父の会社の誰かだろうか? 瞬きをひとつする間に、橘乃は、記憶の中を引っ掻き回して、この男の情報を探した。しかしながら、なかなか『これ』と思う人物を思い出せない。

「ああ、すみません。いつもの格好ではないので、おわかりになりませんよね?」

 困惑している橘乃を見て、男は、照れたように笑いながら腕まくりされた浅木色の麻のシャツにスラックスというラフな格好をした自分自身を見下ろした。

「いつもの格好? あ? ああ! 梅宮さん?!」


 ようやく思い出したその人は、いつもは黒い服でビシッと決めている茅蜩館ホテルのホテルマンだった。


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