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誕生日には歌を  作者: 風花てい(koharu)
21/86

3人の偽物 5

 

 その後の八重は、自分が宣言したとおりに、3人の子供たちを自分の孫として平等に扱った。


 『養子にしてしまうと、八重さんに万が一のことがあった時に、余計にややこしくなりそうだから』という理由から、戸籍の上では、例えば要は貴子の子供であったり、隆文は横浜の大叔父の子供であったりということになっている。 だけども、3人は、本館4階の隅にある住居で、八重《お祖母ちゃん》に叱られたり誉められたりしながら一緒に大きくなった。 

 そして、3人が3人とも、大学を卒業すると、当たり前のように家業である茅蜩館ホテルのスタッフの一員に加わることを望んだ。


 子供たちが成人すると、周りの大人たちは、『そろそろ八重さんが次期オーナーを指名するかもしれない』と色めきたった。もっとも、要は、誰が何を騒ごうと、自分には関係のない話だと思っていた。


 ホテルの相続争いは、この20年あまりの間に、茅蜩館を手に入れたい武里グループと、それを阻止しようとする創業者一族の争いに変化していた。

 つまり、浩平派と隆文派、または、改革派と守旧派の争いである。要と要を支持する人々は、早い段階から相続争いの蚊帳の外へと追いやられた。というよりも、相続問題を自分にも関わりのある問題だと考えている者の多くは、始めから要を次期オーナー候補のひとりとして認識していなかった。


 要は自分が久志の実の子供ではないことを知っているし、他の者も知っている。彼らにとって、要は、『茅蜩館で養われている孤児』でしかない。つまり、『所詮は他人』だ。


「でも、他のふたりの子供も久志の子供であるはずがない。要が他人なら、彼らだって他人だ」

 ……と、要の養母の貴子が主張したところで、『だが、他人だという確固たる証拠がない』と白を切られれば、彼女には、それ以上どうすることもできない。しかも、どちらの派閥も 『誰が何と言おうと、自分たちの推す子供こそが、久志の子供である』という主張を曲げなかった。そして、自分たちの主張を少しでも確かなものにするために、彼らは、自分にとって邪魔な子供たちに対する差別的な発言を繰り返した。 

 

『お前は孤児だ』

『久志さんの子供でもなんでもないくせに』

『お情けでここに置いてもらっているんだから、大きな顔をするな』


 そういった心無い言葉を、要は常に聞かされて育った。隆文は浩平派の者たちから、浩平は隆文派の者たちから言われるだけだが、要だけは、両派閥から言われたい放題だった。


 最初の頃こそ傷ついていた要だが、そのうちに、誰に何を言われても気にならなくなった。孤児院にいた頃に、くせ毛のことで仲間からからかわれた時と同じ。自ら選んでくせのある髪に生まれたわけではないように、彼が孤児であることも、自分ではどうすることもできない事実である。どうすることもできないことでいじめられても、自分を卑下することはない。 

 人として恥ずかしく報いを受けるべきなのは、いじめる人のほうだと要に教えてくれたのは、他ならぬ久志だった。その久志が大切にしていたホテルで働かせてもらえる。そのことのほうが、要にとっては、よほど大事なことだった。


 久志が目を付けただけあって、ホテルマンという職業は要にとっての天職であったようだ。茅蜩館に世話になり始めてすぐに、幼い要は、ホテルという空間が訪問者に提供する上質なサービスと、そういったサービスを提供するために客の目に触れない所でホテルのスタッフが行っている様々な努力との両方に魅せられた。


 ホテルの裏方の仕事には体力的にきついものもあるし人のやりたがらない作業もある。だけども、要は、どんな仕事でも進んで手伝いたがった。実際、彼は、大人たちに混じって仕事をさせてもらえることが楽しくてしかたがなかったのだ。 

 東京の茅蜩館で働く人々の多くは、自分の仕事に誇りや哲学を持っていた。個性的で面白い人も沢山いた。それに、彼らは、久志やボタンのことを知っていた。

 

 身内との縁が薄かった要にとって、久志とボタンは、失った家族と同じか、それ以上に大切な存在であった。仕事の合間に彼らが聞かせてくれるふたりの思い出話は、仕事を手伝ったことで貰えるお駄賃よりも、要には貴重なものに思えた。

 要は、小さいうちから熱心に彼らのもとに通った。彼らが教えてくれる仕事が久志やボタンもやっていたことだと思うと、『頑張って、ちゃんとできるようになろう』という気になれた。 

 小さい頃の要にとって、『仕事ができるようになること』とは、久志やボタンに近づくことでもあった。二度と会えなくても、どこかで彼らと繋がっていると要は感じていたかったのだ。


 そんな日々を過ごすうちに、いつの間にか、要は、かつてのボタンがしていた以上のことができるようになっていた。だが、久志には、まだまだ追いつけそうにない。久志は、いまだに要の憧れの人でありつづけている。いつの日か久志に追いつく。それが、今の要の目標だ。

 

 いつか、久志や貴子のようになりたい。いつか、総支配人として、ひとつのホテルの舵取りを任されるようになりたい。若輩が思い上がって……と呆れる者もいるかもしれないし、まだまだ努力は必要だと思う。だけど、このまま頑張っていけば、いつか手が届く夢だろうとも、要は思っている。夢で終わらせない自信も、ある。


 なんのことはない。要は、ホテルのオーナーよりも総支配人になりたいのである。総支配人ならば、オーナーでなくてもなることはできる。むしろ、オーナーではない総支配人のほうが多いだろう。 

 また、将来的に隆文と浩平のどちらがオーナーになろうと、総支配人としてならば、要が茅蜩館に残ることも、彼らを手助けすることも可能だろう。もしも、彼らが要を必要としなければ、その時は、茅蜩館で培った経験を元手に新天地を探せばよい。


 数年前に、要は、『総支配人になりたい』という夢を、貴子や八重には打ち明けている。彼女たちは、とても喜んでくれた。八重は、ハンカチを顔に押し当てながら仏壇の久志の遺影に報告していたし、貴子は、それ以降、要を無理に次期オーナー争いに加えようとすることをやめ、自分の部下として本格的に彼を鍛え始めた。

 要を爪弾きにしていた浩平派や隆文派の面々も、どこかから彼の夢を漏れ聞いたのだろう。最近は、要に対して無暗に辛く当たることをやめてくれていた。よって、相続問題に関していえば、現在の要は、完全な部外者……


(だったはずなんだけどなあ……)


 ここ数年、彼の身辺は、比較的に穏やかだった。浩平派と隆文派のいがみ合いがホテルのサービスに悪影響を与えることがないように気を配りながら、彼は自分の仕事に精を出していればよかった。 


 それなのに……だ。これまで茅蜩館の相続問題には絶対に口出ししようとしなかった六条氏が…… 武里グル―プと互角かそれ以上どころか彼の娘たちの嫁ぎ先を含めれば武里グループなど遥かに凌ぐ力を持っているあの六条源一郎が……  娘が絡んだ途端どんな無茶でもやってのける親馬鹿として有名な源一郎が、茅蜩館を二分する争いに疲れ果てた八重から次期オーナーの決定権を引き継いだあたりから、なにやら風向きがおかしくなった。


 要を次期オーナーにすることを諦めたはずの貴子や、要が無駄にいじめられることのないようにと、これまでならば彼を蚊帳の外に放っておいてくれた隆文や浩平が、ここ数日、彼を次期オーナー決定レースに引っ張り出そうと、しきりに声をかけてくる。中立を旨としている八重までもが、「要は、橘乃さんにアタックしないのか?」と妙な探りを入れてくる。


 そればかりか、要のことなど忘れかけていた者たちが、思い出したように彼に対して辛くあたるようになった。しかも、今回は、これまで要を孤児だといって見下していた人たちが、彼を同等のライバルとみなし、本気で彼を追い落とそうとしている……ような気がする。

『気がする』といっても、それが、ただの気のせいではない証拠に、今も ――つまり、橘乃が自分の客室で姉たちと話し込んでいた頃であるが―― 要は、橘乃が泊まりにくるというニュースを聞きつけて様子を見にきた横浜の茅蜩館ホテルの副事務長に、新館4階の事務所の隅にある打ち合わせコーナーに連れ込まれて叱られていた。「橘乃さんと部屋でふたりっきりになるとは、どういうことか?」というのである。


 ちなみに、この人は、創業者の苗字である『恵庭』を名乗っているにもかかわらず、『浩平派』に属している。事務方として有能な彼に目を付けた武里グループが、茅蜩館を手に入れた後の報酬を餌にして彼を『浩平派』に取り込んだとの、もっぱらの噂だ。

 もっとも、いわゆる寝返りは、この男に限ったことではない。武里グループはありとあらゆる手を使って、自分たちの味方を着々と増やしてきた。だからこそ、ホテルの中が半分に割れているのだ。


「どういうことかと言われましても……」

 要を橘乃の傍に残して部屋から出て行ってしまったのは、祖母の八重である。要には、説明を必要とするような下心はない。『文句があるなら八重に言ってくれ』と言いたいところだが、口答えをすれば、その分だけ叱られる時間が長くなることを、彼は経験的に知っている。曖昧な返事を重ねつつ、要は、何とかその場をやり過ごそうとした。しかしながら、そうした要の態度は、副事務長を余計に苛立ってしまったようだった。


「まさか、おまえまで橘乃さんのハートを射止めようと思っているのか? 本気でオーナーの座を狙っているのか?」

 副事務長が、太い眉毛を激しく上下させながら要を追及する。この分だと、苦情はまだまだ続きそうである。


(参ったなあ)

 要は。心の中でため息をついた。要が橘乃のハートを射止めたい(なんと古臭い表現だろう!)と思っているかどうかは、さておき。源一郎が『独身男性ならば誰でもよい』と言っているのだから、誰が橘乃に求婚しようと、副事務長がとやかく言うことではないではないか。 

 それより、このままだと自分の仕事に差し支える。ただでさえ日曜日で、しかも花嫁が逃げかけたせいでホテル全体のスケジュールが押し気味なのだ。今の要には、彼に絡まれている暇はない。


(なんでもいいから言い訳をこさえて、逃げよう)

 そう決意した要は、椅子からそっと腰を浮かしかけた。その矢先である。またしても、彼は風向きが変わるのを感じた。


「孤児のくせに、拾ってもらった恩も忘れて生意気な……と、少し前の私であれば言うところだ。 だが、本気であれば、それもいいかもしれんな。いや、いい! 頑張れ」

 少なくとも小一時間は終わらないだろうと思われた副事務長の小言が、急に方向転換した。


「え? いいんですか?」

「良いも悪いも」

 要の真向かいに座る副事務長が肩をすくめる。「六条さまは、『独身男性ならば、誰でも橘乃さんに求婚してもいい』って言ったんだろう?」

「その後、橘乃さんが『茅蜩館、あるいはホテル業にかかわりのある独身男性』に変更したそうですが」

 彼女を宝くじか当たり馬券と勘違いしている金欠の男性が世界中から家に押しかけてきそうなので、募集範囲を狭めることにしたのだそうだ。


「いずれにせよ、君が橘乃さんに求婚しようと、誰にも文句は言えないということだ。私にも言えない。そうだろう?」

「はあ、まあ。そうなるような、ならないような、ですね」

 ついさっきまで文句を言っていた本人を前に、要は慎重に相槌を打った。

「だから、例えば、うちの息子が橘乃さまに求婚したとしても、誰も文句は言えない、よな?」

「…………   え?」

「いや、もちろん、例えばの話だよ、例えばの」

 呆気にとられる要に向かって、副事務長は、しつこいぐらいに『例えば』を繰り返した。


「息子さんって…… 芳雄くんですか?」

 彼の息子は、たしか中学2年生である。

「やっぱり、年下は、いかんかなあ」

 いかんだろう。……と、要は思った。男子中学生の結婚は、国が認めていない。


「芳雄くんは? 承知しているんですか?」

 恐る恐る訊いてみる。要の問いに答える代わりに、副事務長は額を抑えた。承知していないらしい。


「でも、だからといって、私が……ってわけには、さすがにいかんだろうし」

 顔を上げた副事務長が、たずねるように要を見つめた。見つめられても、要には返す言葉が見つからない。笑いを堪えるので精いっぱいだ。だが、緩みそうになる頬の筋肉を必死で抑え込もうとしている要の努力もむなしく、誰かが、打ち合わせコーナーを仕切るパーテーションの向こう側で爆笑した。 


「『私が……』って、副事務長自ら橘乃さんに求婚するっていうんですか? いったい、どこのエロ爺ですよ?」

 笑いながら、パーテーションの後ろから現れたのは貴子だった。

「そういえば、副事務長は4年前に奥さまを亡されて、今は独身でしたね。 だからといって、若い子に混じって、ふ、ふ、ふふふふふ副事務長と橘乃さんとじゃ……」

 要の隣に腰を落ち着かせた貴子が、テーブルを拳で叩きながら、また笑う。 


「貴子さん。笑いすぎですよ」と、要は養母をいさめたが、本人もどうすることもできないようだ。副理事長と目が合っただけで、彼女は、再び笑いの発作に襲われた。

「笑うなよ! だから、今のは『例えば』の話だ! 私は、橘乃さまに求婚するつもりなんて、全くない!」

 いつまでも笑っている貴子に向かって副理事長が顔を真っ赤にして吠えた。 

「本当に?」

「あたりまえだ。私だって、自分の年齢ぐらい自覚している。女性受けする容姿ではないことも、よ~く、わかっている。ただなあ」

 副事務長が背を丸めると同時に彼の太い眉毛の先が大きく下がった。 


「浩平に全然やる気がなくて、正直、かなり困っているのだよ」

「いつものことじゃないですか?」

 貴子の言葉に合わせて、要もうなずく。浩平は、自分を言い訳に使って茅蜩館を乗っ取ろうとしている武里グループやそれを支持する人々を疎んじている。ゆえに、彼にやる気があったことはなく、それどころか、少しでも自分の支持者を減らそうと、なにかにつけて軽薄な言動を繰り返している。 

 もっとも、やる気に欠けるのは、隆文も同じである。彼は、彼を支持する親戚中から『次期オーナーを目指せ』とやいのやいのと言われているのだろうし、本人もその覚悟をしているだろうが、要や浩平に遠慮しているのか、積極的にオーナーを目指す素振りをしたことがない。 

 ちなみに、要は、前述のとおり。彼のやる気のエネルギーは、次期オーナー争奪戦とは違うところに向いている。


「これまでは、それでもよかったんだよ。というより、むしろ、そのほうが、決定的に仲たがいをする心配もないから、誰にとっても都合がよかった。だけど、六条さんが介入したことで事情が変わった。誰かが本気になって次期オーナーの座を狙いにいかないと、ヤバいぞ」

「ヤバいって? なにが?」

「だあっ! もう! おまいらには、危機感ってものがないのか?!」

 キョトンとしている貴子と要に、副事務長が、姿勢を正して椅子に座り直すように命じた。


「あのなあ。うかうかしていると、乗っ取られるぞ」

「武里グループが茅蜩館を欲しがっているのは、いつものことでしょう?」

「だが、今までは、あくまでも浩平を介してだ。『跡継ぎは3人の中から選ぶ』と八重さんが明言していたから、武里は、それ以上の介入がしづらかった」

 むっつりと副理事長が言う。


「だから、俺は武里……浩平派についた。守旧派なんていえば聞こえがいいが、隆文派っていうのは、過去の栄光にしがみついているだけの臆病者の集まりだ。変えるべきところも変えられない。なんの努力もしなくても、『茅蜩館』の名前さえあれば、客が寄って来ると思っている。ホテルは、これから、どんどん増えるっていうのに、何の危機感もありゃしない。あいつらに実権を握らせたら、10年後に茅蜩館は確実に潰れる」

「じゃあ、副事務長が茅蜩館を潰した後のポストを見返りに、武里に寝返ったって話は?」

「おいおい、俺と輝美と一緒にするなよ」

 副事務長が、武里に寝返った貴子の腹違いの妹を引き合いに出しつつ、苦りきった顔をする。


 ちなみに、輝美が武里グループ側についた理由は、恋だった。彼女は、当時の武里の長だった武里剛毅の3男坊と恋に落ち、周囲の――特に貴子の反対を押し切って嫁に行ってしまった。現在の輝美は、浩平の後見人を任されるほど武里グループの一員になりきっており、貴子とは犬猿の仲である。


「俺は、むしろ、茅蜩館を守るために浩平側についたつもりだ。武里には資金がある。武里のブランドホテルであるホテル・セレスティアルも悪いホテルじゃないし、全国展開しているだけあって機動力がある。それに、武里観光のバックアップがあれば、茅蜩館にも、これまで以上の集客が見込める。茅蜩館育ちの浩平がオーナーになるなら、茅蜩館の良さを失うことなく武里グループを利用できると思った。それに、浩平がオーナーでも、要や隆文は、グレて茅蜩館をやめたりしないだろう? 浩平だって、おまえたちを頼りにすることはあっても、クビにしたりはしないよな?」

「なるほど」

 貴子が、話された内容を咀嚼するように小さく何度もうなずきながら要を見た。副事務長も要を見ている。

「確かに」

 要も認めた。 浩平が頼りにしてくれるなら、隆文も要も、自分から茅蜩館を離れたりはしないだろう。


「他の奴らも同じだ。おまえたちが浩平に従うのなら、不平不満は言い続けるだろうが、自分から辞めたりはしないだろうよ。辞めさせられることもないだろう」

「だけど、そうならない可能性が出てきたのね?」

「そういうことだ」

 副事務長が厳しい顔で貴子にうなずく。


「さっきも言いかけたが、私でさえ橘乃さんの婿に立候補できるってことは、つまり、誰でも立候補できるってことだろうが? 武里には、浩平以外にも独身男性が腐るほどいる。それも、浩平よりも武里の本家にずっと近いところにな。仮に、そいつらの誰かが橘乃さんと茅蜩館をものにしたとする。浩平は、お払い箱。武里グループが直接乗り込んでくる。そうなったら、彼らは、このホテルの人員を総入れ替えするだろう。私たち全員が、ここから追い出される」


「まさか」と言いたいところだが、要は言えなかった。武里グループのこれまでの強引な手口を考えれば、副事務長の言葉が現実になる可能性のほうが高い。彼の隣では、貴子が「おのれ武里。輝美の時みたいに、橘乃さんをたらしこもうっていうのね」と、親指の爪を噛みながら敵意を露わにしている。


「でも、……ということはよ」

 貴子が爪を噛むのをやめて、副事務長を見た。 

「敵は、武里グループだけとは限らないわよね? 国内のホテルチェーン、あるいは外資系ホテル。このホテルの立地等々を考えると、密かに狙っているところが、他にもあるかも」

「あるだろうよ。だから、頑張れ」

 副理事長の視線が、要に向いた。 


「ぼ、僕ですか?」

「浩平があてにできないのなら、要が一番適任だって気がしてきたんだよ」

 うろたえる要を、副理事長が真剣な表情で見据える。「客観的に見て、3人の中では、要が最もホテルの業務に精通している。責任感とリーダーシップも、要が上だろう。最大の弱点は後ろ盾がないことだが、橘乃さんを嫁にできれば、おっかない六条さんが君の背後についてくれるから、隆文派も余裕で抑え込める。なにより! 橘乃さんは、君に好意を持っている!」

 おもむろに立ち上がった副理事長が、要に指を突きつけた。


「い、いや? まさか……」

 要は困惑気味に首を傾げた。橘乃が要に感じているものがあるとすれば、せいぜい親しみ程度のものだろう。彼女の姉の結婚式を担当させてもらった時に何度か顔を合わせているから、単に話しかけ易いだけかもしれない。

「だが、部屋にふたりっきりだったじゃないか」

「あれは、成り行きで、たまたま……」

「一緒に散歩していたそうじゃないか」

「なんで、そんなことまで……」

 要は憮然とした。防犯カメラさえロクについていないホテルだというのに、どうして、彼の行動が多くの者に筒抜けなのか?


「でも、それもたまたまで……」

「そこまで偶然が重なるなら尚更素晴らしいではないか! つまり、それは、運命の女神がおまえさんに味方してくれているってことだ」

「運命の女神って……」

 なんでもかんでも都合よく解釈しようとする副事務長に引き気味の要の横では、貴子がうっとりとした表情で、「そうね~ 『出会うべくして会ってしまう』っていうの? こういう偶然が重なって必然となり、やがて運命になるのよね~ 私と旦那の時もそうだった」と、遠い日の思い出に浸っている。


「いや、でも」

「でも、なんだ? 橘乃さんみたいな女は好みじゃないのか?」

「いえ、そういうわけでは……」

 小一時間ほど前に橘乃としていたのと同じようなやり取りを繰り返していると、パーテーションの向こうから遠慮がちに要に声をかけてくる者がいた。彼あてに電話だという。


「はいはいはい! 出ます!」

 渡りに船と言わんばかりの勢いで立ち上がると、要は、張り切って電話に出た。電話はフロントにいる隆文からで、『少し手伝ってくれないか?』とのことだった。ロビーに詰めている者がふたり、現在応対中の客に長く時間を取られそうである。宿泊の団体客を乗せたバスがあと10分ほどで到着すると連絡が入ったので、フロントのほうも手一杯である。だから、わずかな時間だけでも応援がほしいという。


「そろそろ結婚式がお開きになる時間でもあるから、人手は多いほうがいいな。わかった。すぐ行く!」

 パーテーションの上から首だけを覗かせている副事務長と貴子にも聞こえるように大声で返事をし、「そういうことですから、話の続きは、またの機会に」と、ふたりに向かって早口で断りを入れると、要は事務室から逃げ出した。


 ひと気のない階段を駆け下りてロビーに出る。お開きになったばかりの披露宴から帰る客で賑わっているその場所で、彼は、渡されたカメラで着飾っている若い娘たちの集合写真を撮り、二次会に予定されている会場への道筋を教え、留袖から洋服へと着替えをしているうちに夫とはぐれてしまってうろたえている老婦人の代わりに人探しをし、それから、朝食券のことで悩んでいる女性ふたりに券の使い方の説明とレストランへの案内をした。 

 

「そろそろ大丈夫かな」

 20分ほどすると、一時的にたまっていた人々は三々五々散っていき、ロビーは、いつもの落ち着きを取り戻していた。そろそろ、要も本来の仕事に戻ってもいい頃合いだろう。だけども、新館4階の事務所で横浜の副事務長と貴子さんが待ち受けているかもしれない。そう思った途端に、戻るのが嫌になった。


「困ったなあ……」

 なにか事務所に戻らなくてもすむような口実はないものかと期待しながら、要は、ロビー全体を見回した。その視線が、大階段から降りてきた人物に焦点を合わせて止まる。向こうも、要に気が付いたようだった。橘乃は、遠くから要に微笑みかけると、一緒にいた姉ふたりに先んじて階段を駆け下りてきた。


「梅宮さん。先ほどは、どうも、ありがとうございました」

 彼の真ん前に立った橘乃が、彼に笑いかける。

「こちらこそ、ありがとうございました」

 要も、彼女に対して、愛想よく笑みを返す。自分が普段よりも余分に彼女に愛想を振りまいているような気がしてならないのは、きっと彼の気のせいであろう。副事務長がおかしなことをいったから、変に意識してしまうだけだ。


(そうだ。気のせいだ。別に他意はない。相手はお客さまなのだから、愛想よくするのは当たり前だ。彼女に落ち度があるわけでもないし、嫌いなわけでもないんだから冷たくする理由もない。いや、むしろ、彼女は、とても好い子なのだから、こちらも笑顔で接するべきだ)

 

 橘乃と話しながら、しなくてもいい言い訳を一生懸命考えている要の頭の中で、『偶然が重なって必然になり、やがて、運命になるのよね』という貴子の声が聞こえたような気がした。



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