六条さまの持参金 1
六条家の2番目の娘の結婚式が行われたのは、7月の初旬。
花嫁にとって2度目の結婚式だということもあり、花婿の故郷の長野で、特に親しい人だけを招いて、比較的にひっそりと行われた。
その日は、屋外での披露パーティのために誂えたような快晴だったものの、少し強い風が吹いていた。香料用に栽培されているバラの花びらが舞う中でウェディングドレスの腰のあたりを飾っている蝶の羽のように大きなリボンをヒラヒラさせている花嫁は可憐で、周囲から手放しで誉めそやされて恥ずかしがっている様子もまた愛らしかった。
一方、花嫁の隣を独り占めしている花婿は、ようやく彼女を手に入れることができた喜びと、彼女を一生大切にしていこうという決意とを、その態度と表情をもって、誰に対してもわかりやすく示していた。友人たちから『はしゃぎすぎだ』『馬鹿だ』とからかわれようが、照れまくる花嫁から文句を言われようが、彼はいっこうに気にしていないようだった。ひたすら自分の気持ちに正直に、自分の幸せを余すところなく周囲に見せびらかしている。
このまま放っておけば空を飛ぶのではないかというほど嬉しげな顔をした花婿が、花嫁を連れて会場中を挨拶して回っている間にも、宴の参加者は、どんどん増えていった。
後から後からやって来るのは、東京から来た花嫁の身内や花婿の仕事の関係者ではなく、近隣に住む者たちであるようだった。地元の名士でもある花婿の家は、この地で暮らす人々と普段から親密な交流があるという。祝いの酒や自慢料理を引っさげて、気さくな身なりでパーティーにやってくる人々は、まるで自分の身内の祝い事のように、この結婚を喜んでくれているようだった。花嫁の家族にも、誰もが十年来の友人であるかのように優しく気安く接してくれる。
花嫁の父は、花婿が娘を泣かせた前婿の従弟だということもあって、始めのうちこそ表情が硬かったが、次第に彼らと打ち解けていった。その後、すっかり酔いが回っている地元の老人複数から「あんな良い娘さんを育てなすったあんたは、たいしたものだ」と、背中をバンバン叩かれながら誉められるに至って、彼は、とうとう泣いた。
それから1時間。彼はいっこうに泣きやむ気配がない。それどころか、涙の量も泣き声も、時間が立つにつれ大きくなる一方である。いまや、式の始めから泣き通しだった花嫁の元舅(彼は、花婿の伯父でもある)と肩を抱き合って大号泣している。
「やはり、結婚式はこうでなくてはね」
「ええ、本当にね」
泣いている父親を遠くから眺めながら、六条橘乃は、長姉紫乃の言葉に心から同意した。
およそ一年前に行われた姉の明子の最初の結婚式の時、父は一度も涙を見せなかった。なぜなら、誰の目からみても、花婿の様子が不自然すぎたからだ。楽天的な橘乃でさえ『お姉さまは、幸せになれるのだろうか』と不安を覚えずにいられなかったのだ。あの結婚式を見守る父の心の中は、泣くこともできないほど花婿への疑念と不安ではち切れんばかりだったのではないだろうか。
その父が、今日は体裁も愛想笑いも忘れて、子供みたいに泣き喚いている。思い返せば、長女紫乃の結婚式の時も、彼は手がつけられないほど泣いていた。紫乃の夫は、致命的に病弱であるという一点を除けば、父にとって申し分のない婿さまである。彼が紫乃を幸せにしてくれたように今度の花婿も明子をきっと幸せにしてくれると、ようやく父も思うことができたのだろう。
『よりによって、あんな奴と再婚したがるなんて』と、結婚式の直前まで文句を言い続けていた父ではある。だが、兄や義兄が話してくれたところによると、父は、今日の花婿である森沢俊鷹という人物をかなり高く買っているのだそうだ。
だからこその父の涙。そう思えば、結婚式で号泣する父の涙ほど、新生活に向かう娘たちにとってめでたいものはないだろう。
「浮気してくれた達也さんに、お礼を言わなくちゃね」
橘乃が明子の元夫を話題に上げた途端に、「いらないわよ。お礼なんて」と、紫乃が心の底から嫌そうな顔をした。
「あんな男、地獄に落ちっぱなしになってしまえばいいんだわ! ……と、言いたいところだけど、ちょっと可哀想ではあるわよね?」
妹想いなところは父に引けをとらないものの、紫乃が、本来の彼女らしい公正さと優しさをみせた。
明子の元夫の達也は、いまや不幸のどん底にある。
自分本位で下心満載の女性に彼が騙されてしまったことは、彼本人の落ち度であろう。しかしながら、女の正体を知って彼女と別れようとした達也を強引に再婚させた挙句、様々な無理難題を押し付けて絶望の淵まで追いやったのは、橘乃たちの父六条源一郎であった。
今の達也に残されたものは、どうしようもない悪妻と、彼が継承する予定だった喜多嶋紡績グループの全事業の3分の1のみでしかない。
しかも、彼には、悪妻と離婚するどころか彼女と離れて暮らすことさえ許されていない。万が一彼がそういう行動に出た場合、喜多嶋グループの全事業は、達也以外の者が引き受けている分も含めて、全て源一郎によって没収されることになっているからだ。ゆえに、達也が逃げたいと思っても、彼の親戚たちが絶対にそれを許さない。源一郎には自分の言ったことを脅しで終わらせないだけの力と財力があることを、彼らは熟知している。そして、こと愛娘のこととなると源一郎が理性を失って暴走しがちなことも、彼らは、よく知っている。
『たかが浮気』といっては明子が浮かばれないかもしれないが、そんなことを口実にされて、喜多嶋グループの全てを源一郎に奪われてはたまらない。
ゆえに、喜多嶋一族は、優等生だった御曹司の人生と事業の3分の1を犠牲にしつつ、残りの3分の2を、達也の従弟であり明子の新しい夫ともなった森沢を中心に活かしていく道を択んだのである。
やんちゃなところはあるものの、達也よりも森沢のほうがリーダーとしての資質を充分に備えているようだった。それがわかったのは、体裁を気にする達也から明子を奪うために森沢が奮闘した結果でしかないのだが、世の中には何でも邪推したがる者がいて、『達也の将来性に見切りをつけた源一郎が、達也を罠にはめることまでして、娘を森沢に乗り換えさせたのではないか?』という噂が実しやかに流布しつつあるという。
ちなみに、達也へのお仕置きを兼ねた喜多嶋紡績グループの組織改変等々は、半年前に六条源一郎によって強行された達也と性悪女との結婚披露宴で、多くの来賓を証人にして取り決められた。
茅蜩館ホテルで行われたその式に橘乃は出ることができなかったが、それはそれは悲壮な披露宴だったという。
「せっかくの茅蜩館ホテルでの結婚式なのに、もったいないなあ」
橘乃は、ため息をついた。茅蜩館ホテルで結婚式を挙げることは、小さい頃からの橘乃の夢だ。紫乃の結婚式が同ホテルで行われた時には、橘乃は自分のことのように舞いあがったものだ。
「茅蜩館といえば、いつから休館するのかしらね? もうすぐ取り壊すのでしょう?」
「え、そうなの?」
紫乃のなにげないひと言に、橘乃は目をみはった。初耳である。
「どうして壊しちゃうの?」
「古いからじゃないかしら。六条建設が工事のほとんどを請け負うと聞いているわ。……っていうことは、もう言ってもいいことなのよね?」
紫乃が不安そうに弟の和臣を振り返った。
橘乃にとっては兄にあたる彼は、今年大学を卒業した。現在の彼は、いずれ源一郎の跡を継ぐ時に備えて、修行中である。
「大丈夫ですよ。大っぴらにはしていませんけど、茅蜩館ホテルは、来年の休業にむけて宿泊の予約を断り始めているはずですから」
「もしかして、お兄さまが工事の責任者なの?」
六条建設は六条グループの稼ぎ頭である。こんな大プロジェクトに六条グループの御曹司が関わっていないわけがない。
「違うよ。担当チームの端っこに入れてもらっているだけ。まだ下っ端だからね」
「でも、お兄さまは、ホテルがどんなふうに建て替えられるのか、ご存知なのでしょう?」
橘乃は、しつこいのを承知で和臣に質問を重ねた。
茅蜩館ホテルが改装されてしまったら、彼女がいつか夫となる人と愛を誓い合うことを夢見ていたあのチャペルは――天井から光が幾つもの筋になって降り注ぐあの素敵なチャペルは、いったいどうなってしまうのだろうか。紫乃が結婚式の日に泊めてもらった、美しい夕日が見えるスイートルームや、ピカピカに磨きこまれた重厚な柱や、寄木細工のような床の模様が美しいメインロビーは、なくなってしまうのだだろうか。床面に赤い絨毯が敷かれ、手すりまで大理石でできている大階段は?
そういったものは、彼女の結婚式が行われる頃には、全て失われているということだろうか?
だが、妹には優しくても仕事には厳しい和臣は、橘乃が拝むようにしてたずねても、「そこまでは、まだ内緒だ」と首を振るばかりで、何も教えてくれなかった。
「一応、企業秘密だからね。それよりも、君の場合は、ホテルの中身以上に心配すべきことがあるんじゃないかな?」
「え?」
「順番では、君が次の花嫁だろう?」
和臣が、ニヤニヤしながら橘乃の鼻先を突っついた。
なるほど、母親は全員違うものの、六条源一郎には娘が6人いる。明子は次女で、橘乃は3女。順番通りにいけば、次に嫁ぐのは橘乃ということになる。
「しかも、明子と君は、ひとつしか年齢が違わない。茅蜩館が建て直しをしている間に、君の結婚式が終わっていたりしてね」
「そんなの嫌よ!」
「まだ相手も決まっていないのに、嫌も何もないでしょう?」
紫乃が、悲鳴のような声を上げる橘乃に呆れ、「あなたも、橘乃をからかうのはおよしなさい」と厳しい口調で和臣をたしなめた。
「でも、あそこで結婚式がしたいのだもの」
橘乃は食い下がった。
今の橘乃には、結婚相手よりも式場のほうが大事な問題なのだ。
そう言い切れるほど、今の橘乃は、自分の結婚について深刻に考えていなかったのである。