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誕生日には歌を  作者: 風花てい(koharu)
17/86

3人の偽物 1

「それで、その眉毛の太いオジサンは、結局、なんだったの?」

「横浜の茅蜩館ホテルの副支配人の竹里さんって、言っていたけど」

「あら? あの人、恵庭さんっておっしゃらなかった? それに、副支配人じゃなくて、副支配人の下で働いているとかなんとか言ってたような?」

 

 後からやってきた姉の紫乃を前に、橘乃と明子は、曖昧な情報を交換し合った。紫乃の到着が遅れたのは、橘乃がここに来ていることを知らずに実家を訪ねたからだ。 


「お母さまたち、あなたが黙って出かけてしまったから、カンカンだったわよぉ」

 橘乃の顔を見るなり、紫乃は頭の両脇に指を立てて、角を作ってみせた。紫乃自身は、橘乃の思い切った行動を怒っていないようだった。潔い性格の彼女らしく、「待っていたってロクなのが来ないのであれば、こちらから行くしかしょうがないじゃないの」と笑う。一方、次女の明子は紫乃の逆だった。「もう少し思慮深く行動できなかったのか?」とかなんとか。紫乃が現れるまで、橘乃は彼女から沢山の小言をいただいた。


 幾つかの言葉のやり取りの後、あの眉毛男の苗字は恵庭が正しく、副支配人ではなく副事務長だったということで話が落ち着いた。フロントからこの部屋に落ち着くまでの間、彼が選挙前の街宣車よろしく『竹里』と『浩平』の名前を繰り返したため、橘乃が勘違いしたようだ。いずれにせよ、彼が茅蜩館の親族のひとりであることは間違いない。

「どちらだっていいわ」

 姉は、眉毛男の苗字に興味があったわけではないらしく、きっぱりとした口調でふたりの話を終わらせた。  


「要するに、その人は、八重さんの3番目のお孫さんである竹里浩平さんを相続人に推す一派に組しているということなんでしょう。それより、小っちゃくって可愛らしい部屋ね」

 ベッドの縁に座る橘乃の隣に腰を下ろした紫乃が、ニコニコしながら部屋の中を見回した。

「そうでしょう?」

 まるで自分が誉められたかのように、橘乃は喜んだ。眉毛の太い恵庭氏は、この客室の小ささを盛んに苦にして、何度も部屋替えを勧めてきた。だが、彼の言うことを聞かなかったのは正解だった。客室は、小さいながらも居心地良くしつらえられていた。作りのしっかりとした木製の家具や、古典的な欧風の植物文様が縁に織り込まれたベッドスプレッドや、ベッドサイドに置かれたアンティーク調のランプにいたるまで、部屋の中に置かれているものは、どれも質がよく温かみを感じさせるものばかりである。部屋の手入れも、非常に行き届いている。古いことは古いのだろうが、傷んだ箇所もなければ、すすけた感じもしない。どこもかしこも綺麗に磨きこまれ、長い間大切にされてきた物にしか出せない艶や丸みを帯びている。

 この部屋ひとつ取ってみても、このホテルが、最近乱立しつつある、都会的で洗練されてはいても冷たい感じがするホテルとは一線を画した存在であることや、小さな部屋に泊まる人々を侮ることなく、丁寧なもてなしを心掛けてきたことなどが、充分に察せられる。それがわかったのは、この部屋に泊まることになったからだ。 豪勢なもてなしが当然とされるスイートに直行していたら、きっと知らないままだっただろう。


「本当に、いいお部屋よね」

 紫乃に同意する橘乃の目が、小さなテーブルの上の花かごに向けられた。この花かごは、客室に泊まる誰にでも……というわけではなく、彼女の到着を歓迎する誰かから贈られたものだ。


「嬉しいけど、知らない名前ばかりなのよね」

「花かごに込められているのは、歓迎の気持ちだけではないのかもしれないわね」

 メッセージカードを眺めながら困惑する橘乃に紫乃が言う。

「それでも、花に罪はないわ」

 警戒感を込めた視線を花かごに向けている紫乃に、橘乃は笑いながら首を振った。打算や下心が込められていようと、花は花だ。せっかく美しく咲いているのだから、しっかりと観て楽しまなければ、花が可愛そうだと思う。

 花かごの他にも、シャンパンや焼き菓子、紅茶などが届けられていた。焼き菓子は、このホテルの一階の店で販売しているもの。紅茶も、ティーパッグではあるが、ホテルで提供されているものと一緒である。


「外でお茶でも飲みながら話そうかと思っていたけれども、ここのほうがいいかもしれないわね」

「そうね。外で軽々しくできる話でもないしね」

 テーブルの上の花かごを慎重な手つきで移動させる明子にうなずきながら、紫乃がティーパッグの封を切る。3人で使うにはお湯が足りなくなりそうだったので、橘乃は、ルームサービスに電話を入れた。 


 新しいポットを持ってきてくれた若い女性は、部屋の中でお茶会が開かれようとしていることを知ると、ベッドに腰掛けていたふたりのために椅子を追加で2つ運び入れてくれただけでなく、娘たちの意向を確認したうえで焼き菓子の箱をいったん預かると、パウンドケーキを切り分けて皿に乗せ、フォークを添えて持ってきてくれた。 

「他にも御用がありましたら、なんなりとお申し付けください。使った食器は、ワゴンごと外に出しておいていただければ、こちらで勝手に片付けますので」

 すべきことをし、伝えるべきことを笑顔で伝え終えると、彼女は速やかに退出していった。 


「いまの人、橘乃が次期オーナーに指名されていることを知っていると思う?」

 女性が出ていくのを待って、明子が声を潜める。 

「知っていたって、こちらに悟らせるようなことはしないわよ。ここは、茅蜩館ですもの。誰に対しても、同じサービスをしてくれるでしょう。橘乃に媚を売るために、横浜からわざわざやって来た眉毛のオジサンのほうが変なのよ」

 紫乃が小さく肩をすくめ、腹立ちを紛らわすかのようにパウンドケーキの切れ端を口に放り込むと、紅茶をひと口に含んだ。茅蜩館特製のケーキとブレンド紅茶は、高ぶった神経を鎮めるのに最適だったようだ。紫乃は満足げなため息をひとつ吐くと、「それでね。そもそも、『どうして、このホテルが、ここまで相続のことで揉めてしまったか?』という話なのだけど……」と、話の口火を切った。


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「バカ旦那、だったそうなの」


「は?」

 姉が使用するとは思えない品のない言葉に、橘乃はしばし呆気にとられ、明子は、「お姉さま、バカ旦那だなんて……」と眉をひそめた。当の紫乃はといえば、「あら。私は分家のおじいさまたちが言ったままを忠実に再現しただけよ」と、しれっとしている。


「ほら、時代劇や落語に、全然働こうとしないくせに、お店を傾ける勢いで遊び呆けて、ついには勘当されてしまう若旦那というのが出てくるでしょう?」

 紫乃の夫の大叔父たちの証言によれば、梅宮たちの祖父、すなわち八重の夫であった恵庭久助という人は、まさに、そういった放蕩息子であったという。


「喜多島のおじさまたちの間でも、八重さんの旦那さまの評判は、ものすごく悪かったわ」

 明子も、姉に同意するように橘乃の顔を見てうなずいた。明子の夫の森沢俊鷹と前夫の喜多嶋達也の亡き祖父が興した喜多嶋紡績グループでは、洋服の材料となる糸や服地だけでなく化粧品も商品として扱っている。そのため、彼女が結婚後に付き合うことになった夫の親戚の男たちは、お洒落で粋なフェミニストがそろっている。昔は芸者が流行の先端を走っていたこともあって、色恋抜きで彼女たちと懇意にしていた者も多い。そんな彼らにとって、八重の夫であった恵庭久助という男は、まさに女の敵。否、人類の敵。彼らが最も軽蔑するタイプの男であったそうだ。


「お金さえ出せば、女性に何をしてもかまわないって思っていた人だったらしいの。でも、いくらお座敷遊びでも節度を守らないといけないでしょう? 本人が粋を気取っているなら、尚更よね。それなのに、お店に迷惑がかかるような大騒ぎをしたり、札束で引っ叩いて関係を強要するような人だったとか」

 気に入りの芸者が別の座敷に呼ばれているために彼の呼び出しに応じないのを不服として、取り巻きを連れてその座敷に乱入しようとしたこともあったらしい。


「迷惑な人ね」

「ええ、そうなの。遊び人の風上にも置けない人だって。でもね、元芸者のお婆さんから、うちの俊鷹さんが聞かせてもらった話によると、その騒ぎがあった時に、その料亭には彼のお祖父さまと、桐生のお祖父さまがいらっしゃたそうでね」

「喜多島紡績の初代会長と、うちの和臣のお祖父さまってこと?」

 花街の女たちの間で『一番楽しい客だった』と語り継がれている粋人と、ノーブルだけども変人で知られていた男の取り合わせである。


 久助たちが他の座敷を襲撃しようとしていることに気がついたふたりは、彼らの前に立ちふさがると、あっという間にのしてしまったという。

「そのうえ、久助さんたちを縄でぐるぐる巻きにして、ミノムシみたいに柳橋の上から吊り下げちゃったんですって」

 翌朝、彼らは道行く人々のいい笑いものになったそうだ。

「いやだ、桐生のお祖父さま、やりすぎ」

 紫乃がおかしげに笑う。とはいえ、正義感の強い彼女がその場にいたら、同じようなことをしていたに違いない。


 さて、痛い目に合わされた久助が少しでも反省したかどうかは怪しいものの、彼を育てた両親には、この騒ぎは良い薬となったようだった。彼らは、今度こそ息子を真人間にしようと試みた。彼に自由になる金を渡すのをやめ、しばらくは見張りをつけて仕事をさせた。妻を持てば落ち着くかとも思い、結婚もさせることにした。面食いの息子が気に入るよう、両親は、八方に手を尽くして美人で働き者で愛嬌がある娘を探してきた。


 それが八重であった。

 

 久助も、嫁を貰ってしばらくの間は、おとなしくしていた。家の仕事らしきことも、それなりに頑張った……ようだ。久志という子供も授かった。だが、彼の怠け癖や人に頭を下げられない性格は、体の芯まで染みついていたらしい。些細なことから宿泊客と揉めた翌日、久助は、もう仕事への意欲を失ってしまった。


 彼は、ふたたび遊興に耽り始めた。遊ぶ金などなくても『あの茅蜩館ホテルの跡取り息子だ』と打ち明けるだけで、娼館の主は、機嫌よく彼を受け入れてくれた。「支払いは、いずれ親がするから」と大きな顔をしていれば、誰も彼を咎めない。だが、両親だけは別であった。先祖代々大切に守ってきた茅蜩館の名を息子が悪用するにいたって、彼らは、とうとう彼を見限った。 


 彼らは、久助を勘当した。江戸時代の慣習を色濃く残していた当時の勘当は、昨今の勘当とは言葉の重みからして違う。勘当した以上、その者は他人である。彼が今後誰にどんな迷惑をかけようと、親だった者は一切責任を取らなくてもよいとされる。その代わりに、息子がどれほど辛い境遇に陥っても、親だった者は絶対に情をかけてはならないことになっている。当然、久助は、相続人としての資格も失うことになった。金の切れ目が縁の切れ目とはよく言ったもので、多くの取り巻きは、潮が引くように彼から離れていったそうだ。


「久助さんは、その後、どうなったの?」

「それは、後でね」

 橘乃の質問を、ひとまず横に除けて、紫乃が話を続ける。

  

 久助が相続から外されたので、ホテルは、息子の久志に受け継がれた。若いうちに大役を引き受けることになった久志は、母や親戚の力を借りて、茅蜩館ホテルを守ってきた。戦中戦後の混乱期も、久志が中心となって、なんとか乗り切った。当時、茅蜩館ホテルといえば総支配人の恵庭久志の顔が頭に浮かぶほど、彼は、客にとっても従業員にとっても、このホテルに欠かせない存在であったという。


「だから、久志さんが生き続けていれば、相続問題なんてものは発生しなかったはずなのよ」

 だけども、彼は39歳の若さで死んでしまった。昭和30年のことだった。彼は、一度は妻帯したものの、その女性とは離婚していた。子供もいない。 


「ついでにいえば、八重さんの子供は、久志さんひとりだけ」

「え? じゃあ……」

 紫乃の言葉に、橘乃は困惑した。ひとり息子の久志に子供がなかったいうことは、八重には孫がいないということではないか。では、梅宮要とは、何者なのだろう? 梅宮と同じように八重の孫だということになっている、松雪隆文と竹里浩平は? 彼らはいったい、久志と八重のなんなのだろう?


 しかしながら、思わせぶりな姉たちは、「それも、後で」と、またしても返事を保留する。ややこしい話なので、順番に話す必要があるのだそうだ。


「わかりました。それで、どうなったの?」

 ふくれっ面で、橘乃は続きをうながした。


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 子供も兄弟もいなかったため、久志の死後、ホテルの権利は、久志の母である八重に移った。


「それが、今の状態なのね?」

「そう。でも、八重さんって、お嫁さんじゃない?」


 夫が勘当された後も、八重は婚家に残って息子を育てながら、ホテルのために頑張ってきた。それは、彼女の義父母もその一族も認めるところではあった。しかしながら、彼らの目から見たら、八重は親から縁を切られた久助の嫁である。茅蜩館の創業者と血の繋がりのない彼女は、嫁いでから何年も経とうと『よそ者』でしかない。八重亡き後には、遺産の一部が彼女の実家に流れるだろうことも、彼らは気に入らなかった。彼らは、八重がオーナーの権利を引き継ぐことに異を唱えた。 

「他に跡取りとしてふさわしい人がいると、彼らは主張したのね。例えば、分家筋の家に婿養子に入った久助さんの弟とか」

 八重は、彼らからの提案に、一度はうなずいたという。ホテルを継いだところで、彼女が死んだ後に渡す相手がいないのだ。どのみち久助の弟か姉の血縁が継ぐことになるだろうから、争うのは無意味だと思ったらしい。


「でもね。他にも相続にケチをつける人が現れちゃったのよ」

 その人物とは、久志の父親の久助だった。


「え? まだ…… いらしたの?」

 『まだ生きていたの?』と言いたい気持ちを、橘乃は、かろうじて抑えた。だが、この話の行先を既に知っている紫乃は、彼に対する思いやりなど微塵も持ち合わせていないらしい。それは、明子も同じであったようだ。

「そう。この男ってば、まだ生きているのよ」

 『死んでしまえばよかったのに』と言わんばかりの口調で、姉ふたりが声を揃えた。


 勘当され、多くの者から見捨てられた久助は、馴染みの女のところに転がり込んだ。女は、誰に対しても『否』と言えないお人よしだったそうで、何の見返りも期待することなく、よくよく久助の面倒をみた。早い話が、久助は、その女のヒモになっていたのである。そして、彼女が彼の子を妊娠して稼ぎが減った途端、彼はもっと若くて実入りのよい別の女に乗り換えた。『人でなしよ』と、めったなことでは他人を責めない優しい明子が、語気を強めた。


「でも、人でなしが自主的に去ってくれたのだと考えれば、彼女にとっては、よかったのかもしれなくてよ」 

 紫乃が、むくれている明子をなだめる。紫乃の言う通り、女と久助との縁が切れたのは幸いであった。一方、勘当されたにも関わらず、久助と八重、または久助と茅蜩館の縁は、完全に切れていなかった。勘当された直後から、久助は、こっそりと茅蜩館に出かけていっては母親に泣きつき、金の無心をしていた。母親が亡くなってからは、八重や久志にたかるようになっていた。それどころか、ヒモとして世話になっていた女たちが亡くなったり、別の男を作って消えてしまったりすると、彼女らが遺した子供たちの世話を八重に押し付けもした。


 その久助が、久志が死んだ直後に、自分こそが正当な相続人であると乗り込んできた。 

 

「勘当? そんなの昔の話だろう? 今度の民法ではな、勘当したって親子の縁は完全に切れないってことになってるんだよ。 だから俺と俺の子供たちには、このホテルを継ぐ権利がある。 民主主義万万歳だ」というのが、久助の言い分だった。



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