期待はずれ? 7
合わせた両手の指先を額に軽くつけるようにして仏壇に向かっていた橘乃が顔を上げた。
「生前、父が、六条さまと大変仲良くしていただいたそうで」
一応父だということになっている恵庭久志前茅蜩館ホテルオーナーの遺影を、橘乃と一緒に見つめながら、要は礼のつもりで、そう言った。だが、橘乃は、そのことを知らなかったようだ。
「まあ。そうだったんですか」
座布団からにじり下りると、彼女は、真ん丸にした目を彼に向けた。
「ええ。六条さまは、今でも、こちらにお参りしてくださいます。今上げてくださったお線香も、六条さまからいただいたものです」
彼は香立てから、仏壇横に3つばかり積み重ねられた桐の箱に目をやった。普段は客としてホテルを利用する六条氏がこの部屋を訪れるのは、久志の命日の頃と、春の彼岸の頃と決まっている。要たちが小さかった頃には、線香の他にも玩具なども持ってきてくれた。それも必ず3人分。彼らが学生になると土産の玩具は学用品や本になり、成人してからは、もっぱら酒の肴になった。酒のほうは、八重がふんだんに用意しているからだ。
そんなことを思い出しながら、要が何の気なしに仏壇脇に置かれた包装されたままの一升瓶に視線を移すのを、橘乃は見逃さなかったようだ。
「もしかして、そのお酒もですか?」
同じものを六条氏が家で飲んでいるのを、彼女は見たことがあるという。
「いえ、お酒のほうは、お参りくださったお礼に、こちらからお渡ししているものです」
「それじゃあ、私、『ごちそうさまです』って言わなくちゃいけませんね」
小さく舌を出しながら橘乃が笑う。彼女の母親がいける口らしく、六条氏は、彼女の部屋で晩酌をすることが、たびたびあるのだという。
「それで、私も、ちょっとだけ御相伴させてもらったことがあるんです。日本酒は、あまり好きじゃないんですけど、このお酒は、とても美味しく感じられました。ほら、普通の日本酒って、なんだかベタベタしていて、いかにも男の人が飲むものって感じじゃないですか? でも、これは、飲みやすいというか、後味がスッキリしているように感じました。あまりお店に出ていない出回らない珍しいものだと聞いたので、余計にそう感じたのかもしれませんけどね」
「いえ、橘乃さんの舌は確かですよ」
酒瓶を引き寄せながら要は笑った。「この吟醸酒は、特別です。というよりも、本来は、このお酒のほうを『普通です』と言ったほうがいいのかもしれませんね。市場に多く出回っているお酒には、アルコールや糖分が添加されたものが多いですから」
いわゆる三増酒という、戦中戦後の酒造用米の不足を補うための救済策として作られるようになった合成酒が、まだまだ幅を利かせている時代である。
「あれは甘ったるくてベタベタしているうえに悪酔いしやすいんです。それで日本酒嫌いになる方も多いんです」
とはいえ、昔から旨い物を知っていた茅蜩館の常連客は、戦後の物不足であろうとなんであろうと、そんな紛い物めいた安酒で我慢する気にはなれなかったらしい。そのため、当時のオーナーだった久志が、昔ながらやり方で酒造りをしている、あるいは再開してくれる気がある蔵元を苦労して探したのだ。それどころか、一時期などは、配給される酒米では質量共に物足りないとかで、ホテルは『ヤミ酒米』の栽培にも手を貸していたという。
「ホテルが貸した……というよりも、ホテルのお客様がホテルを通じて貸した、ですね」
この話を要に聞かせてくれた時、六条氏は、『旨い酒を飲むためなら、男は何だってするんだよ』と、笑っていた。彼は、ここに来るたびに、久志にまつわることを話してくれる。思い出話だけで出来ている要の父親像の大半を形作ったのは六条氏であるといっても過言ではない。
初対面の時から、六条源一郎は要が久志の息子ではないことを見切っていた。要だけではない。他のふたり――浩平も隆文のことも久志の息子だと認めなかった。それにもかかわらず、源一郎は、3人を3人とも八重の孫として可愛がってくれた。『だってよ。 息子ばかりか孫までいなくなっちまったら、八重さんが寂しくてしょうがねえだろ? だから、お前たちは、しっかり八重さんの孫してろ。手ぇ抜くんじゃねえぞ!』と、この家に来た頃、要は彼から命じられたものだ。源一郎のあの一言で、要は楽になった。彼のおかげで、自分もこの家族の一員であるという夢が見られた。
それほど世話になったのだから、今度は要が源一郎に返す番である。八重に頼まれてやむなくという側面はあるが、せっかく、源一郎が、自分たちだけでは解決できなくなった茅蜩館の相続問題に介入してくれようというのだ。巻き添えを食うことになった彼の娘が幸せになれるように、要にできることならなんでもするつもりだ。
他の男と一緒になって、橘乃を巡って争うなんてとんでもない。彼を嫌う人々に釘を刺されるまでもなく、要は、『立場が違う』ことを、わきまえているのだ。
(……って、思っているのに、どうして、僕は、戦後の日本酒事情について、橘乃さんに得意げに語っているんだよ!?)
要は、頭を抱えたくなった。女たちの前で生半可な知識を得意げに大声で語る男たちに食事の給仕をしながら、要たちホテルのスタッフは、何度嗤いをかみ殺してきたことだろう。それなのに、今の自分は、彼ら……つまり、《好きな女性の気を引くために通ぶってウンチクを披露するアホ男》、そのものではないか?
こんなことをしていてはいけない。こんなことをしている場合ではない。わかっているのに、橘乃から向けられる好奇心いっぱいの眼差しを前に、梅宮の舌は滑らかになる一方である。しかも、この橘乃という子は、若いくせに八重並みに人に話をさせるのが上手いようだ。
「蔵元によってお酒の味に違いがあるって、面白いですね。ワインみたい。このホテルでも、いただけるんですよね? 置いてあるのは、このお酒だけなんですか? それとも」
相槌を打つついでのように、橘乃が、要が話しやすいこと、もっと話したくなるような質問を挟んでくる。
「和食系の店でなら、どこでも召し上がっていただけますし、この酒以外にも、いろいろとご用意しております。また、吟醸酒以外にも、生もとですとか、女性に好まれそうなシャンパンに似た風味を持つ日本酒などもございますよ」
「わあ、面白そう。いろいろ試してみたいけど、酔っ払っちゃいそうですね」
「少量からでも、ご注文いただけますよ」
4合瓶からならば、たいていの酒は彼女の部屋に届けることもできる。だが、親の知らないところで大事な娘を飲んだくれにしたら源一郎に合わせる顔がないので、要は言わないでおいた。
「それぞれの料理長のお勧めの銘柄もあるので、お気軽に試してみてください。お気に召したものがあれば、お母さまへのお土産になさってもよろしいかもしれませんね。それで、あの……」
まだまた話していたかったが、要は強引に話を打ち切った。
「ええと、その…… あなたさまの、旦那さま、ひいてはこのホテルの次期オーナーを決定する件についてですが」
*****
「自分の気持ちを一番大事にしてくださいね」と、梅宮は言ってくれた。
「ホテルのオーナーとして誰がふさわしいかとか、誰を選べば相続問題が丸く収まるかとか、そういったことにまで、あなたが頭を悩ます必要はありません。自分が好きになった人を、選べばいいんですよ」とも言ってくれた。
「橘乃さんの旦那さまになる方が、ホテルのことに詳しくなくても、あるいは全く興味がなくても、そこは私たちスタッフがしっかりとフォローします。誰が選ばれたとしても、異を唱える者が出てくるでしょうが、何があっても私が黙らせてみせます。だから、橘乃さんは、自分の好きな人と結婚なさってください」
「ありがとうございます」
橘乃は、とりあえず頭を下げた。梅宮の申し出は、橘乃にとって、ありがたいものだった。普段の彼女なら、こんなに優しい申し出を受けたら、嬉しさのあまり相手に飛びついて感謝しただろう。
だが、なぜだろう。彼女は素直に喜べなかった。どうしてなのかはわからないが、梅宮が橘乃から距離を置こうとしているように感じるのだ。それも、なるべく遠くに。
(もしかして、怒っているのかしら?)
そうかもしれない。梅宮は、八重の3人孫の中で一番年上に見える。相続で揉めているとはいえ、順当にいけば、梅宮がホテルを手に入れていたに違いないのだ。それを、トンビが油揚げをさらうように、橘乃と彼女の父親が彼の鼻先から相続の権利をかっさらってしまった。梅宮にしてみれば、面白いわけがない。
「ごめんなさい。 梅宮さんを差し置いて、私なんかがホテルを継ぐことになっちゃって……」
傷ついている人がいるのも気が付かずに、憧れていたホテルが手に入ると浮かれていた自分が恥ずかしい。
「橘乃さん、そういうことではなくてですね」
謝る橘乃を前に、梅宮が慌てたようすをみせた。橘乃がホテルを継ぐことを、彼は、不満に思っていないという。
「本当に? 気を悪くなさってるわけではないんですね?」
「もちろんです。私は、六条さまが、この件に介入してくださって、正直ホッとしているんです」
自身なさげにたずねる橘乃に、梅宮が力強く言い放った。
「それならいいのだけど。でも、怒っているわけでなない……ということは…… あ、わかった!梅宮さんには、既に結婚を決めた女性がいらっしゃるのね?」
そういうことならば、婿選びの候補にされること自体、梅宮にしてみれば迷惑千万なことだろう。下手をすれば、恋人(もしかしたら、まだ両想いにはなっていないのかもしれないけれども)に誤解されたり嫉妬されたり剣突をくらわされたりするかもしれない。
「そんなことなったら、仲直りするのも骨でしょうし……」
「勝手に話を作らないでください。そんな人はいません」
仕事場での人あしらいのよさはどこへやら、顔を真っ赤にして梅宮が否定する。
「まあ、いないんですか? 恋人さん?」
「いませんよ」
「そうなんですか。みなさん見る目がないんですね」
橘乃は素直に自分の感想を口にした。梅宮だったら容貌も愛想も性格も人並み以上に良いと思うのに、世の中の女性は、どこを見ているのであろう? 思わぬ形で誉められてしまった梅宮は、毒気を抜かれたような顔で、「ありがとうございます」と言った。
「あれ? 何の話から、こんな話になったんでしたっけ?」
「梅宮さんが、どうして私と関わり合いになりたくないのか?……という話からですわ」
「そんな話は、していなかったと思いますけれども」
眉間にしわを寄せた梅宮が、冷静に指摘する。橘乃は拗ねたように視線を逸らした。彼の言うとおりだ。そんな話はしていなかった。でも、橘乃は、そう感じるのだ。梅宮が自分を避けようとしている。ホテルなんていらないから、自分と関わり合いになりたくないと思っている。梅宮がそう思っているのならば、他の男の人だって、きっとそう。 彼を同じように、橘乃を疎ましく思っているに違いないのだ。だから、いまだに、誰も橘乃に言い寄ってこないのだろう。やってくるのは、橘乃の顔も知らない変な男ばかり。少しでも橘乃のことを知っている男たちは、遠巻きに彼女を眺めているだけだ。
「私って、そんなに嫌な女でしょうか?」
橘乃は、思い切って訊いてみた。
「はあ? いきなりなにを……」
思いつめた表情を浮かべている橘乃を見て、梅宮はうろたえているようだった。
「すみません。こんなこと、梅宮さんに言うことじゃないことぐらい、私だってわかっているんですけど。なんだかもう、自分が情けなくなってきちゃって……」
頭を下げたまま、橘乃は、うつむいてしまった。
「そりゃあ、私はすごいおしゃべりですよ。軽薄なところも、いい加減に直さなくっちゃって思います。それに、姉たちに比べたら、成績だって運動神経だって容姿だってスタイルだって普通すぎるぐらいに普通だし、髪の毛だってクルクルだし…… でも、お金目当ての人さえ寄ってこないほどひどいとは、自分では思ってなかったんですけど」
「ちょっ、ちょっと待ってください。クルクル? クルクルのどこがいけないんですか?」
ようやく顔を上げた橘乃を見て、梅宮がホッとしたような顔をしながら、自分の髪のひと房に指を絡める。 「それに、私だって、『クルクル』ですけど?」
「……あ」
橘乃は、自分の失言を悔やむように口元に手を当てた。
「ちなみに、私の弟たち――浩平と隆文もくせっ毛ですよ。ついでに、その写真ではわかりづらいですが、私の父も『クルクル』だったそうです」
父親の遺影に顔を向けながら、『うちの親戚は、くせ毛の人が多いんですよ』と、梅宮が笑う。
「私にも、くせっ毛をからかわれた経験がありますから、橘乃さんが卑下したくなる気持ちはわかります。 けれど、橘乃さんのくるくるした髪は、可愛いですよ」
「変じゃない?」
「ちっとも変じゃありませんよ。橘乃さんの雰囲気にとても似合っていると思います。それに、私は、橘乃さんのおしゃべりは嫌いじゃないですよ」
「煩くなかったですか?」
「ええ。お世辞でもなんでもなく、お話していて楽しいですよ」
目を潤ませる橘乃に、梅宮が微笑んだ。
「じゃあ……どうして?」
「なぜ、あなたに誰もアタックしてこないのかってことですか? 他の者の事情までは、わかりませんが、私の場合は…… 失礼します」
梅宮が立ち上がった。横長の茶箪笥の上に置かれた電話が鳴っていた。
「フロントに、お姉さまがいらしているそうです。2番目の、森沢さまの奥さまの方の」
振り返った梅宮が橘乃に告げる。
「明子姉さまが?」
「それは、お待たせしてはいけないね」「うんうん。すぐに行かなきゃ」
どこからか出てきた八重と、可愛らしい顔をした若い男性が現れて、橘乃に勧めた。若い男性のほうが、握手を求めるように彼女に手を差し伸べながら、『自分は、竹里浩平である』と名乗った。先日、父が3人まとめて『松竹梅』呼ばわりしていた八重の孫のひとりである。梅宮が話していた通り、なるほど、彼もくせ毛だった。
「ところで、花嫁さんだけど、無事に式に戻れたよ」
橘乃の手を握りながら、浩平が教えてくれた。こういう事例の場合、茅蜩館では花婿側――つまり逃げられる側にはギリギリまで事情を話さないでおくことになっているそうで、何も知らない花婿は、幸せそうに花嫁の手を取ったという。
「でもさ、式の当日に自分が花嫁から捨てられるところだったって知ったら、花婿さんは、どうしただろうね?」
『ああ、よかった』と胸を撫で下ろす橘乃に、浩平が意地悪なことを言う。「僕たちは、花婿が自分のことしか考えられない女と縁を切ることができる、せっかくのチャンスを潰してしまったかもしれないね」
「浩平。おまえは、また、そういうことを……」
浩平のこうした物言いは珍しいことではないようだった。梅宮は、八重と一緒になって彼を睨むと、その冷たいまなざしを祖母にも向けた。
「それで、お祖母さまたちは、いつから、僕たちの話を盗み聞きしていたんですか?」
「ごめん。要が、めったにないほど面白かったから」「ねえ」
浩平と八重が、顔を見合わせて笑う。
「面白いって……」
「それは後でいいから、橘乃さんを、早くフロントに連れて行っておあげ。お姉さんがお待ちかねだよ」
文句を言いかけた梅宮を、八重が急き立てた。浩平が、「橘乃ちゃん、またね」と、手を振りながらウインクをする。そのまま見送ってくれるのかと思いきや、彼は、フロントに向かう橘乃たちの後についてきた。
「気が向いたら、いつでもここに遊びにおいで。それと、橘乃ちゃんは、とっても可愛いし魅力的だよ。僕たちが手を出さなかったのは、君があんまり素敵だからビビッていただけさ。ほら、高嶺の花って手を出すのに勇気がいるじゃない? 特に要は、仕事熱心過ぎて恋愛経験が少ないうえに、小心者だからね。手を出したくても手が出せないんだ。だから、こいつが今後、どんな言い訳をしようとも聞く耳もたなくてもいいからね」
「浩平。持ち場に戻れよ。自分の担当の結婚式はどうした?」
際限なく話し続ける浩平を追い払うように、梅宮が手を振る。
「大丈夫だよ。僕の今日の担当のカップルは精神的に大人だから、僕が見張っていなくても、式は、つつがなく進行しているよ。でも、嫌な奴がいるから、戻ろ~っと」
「これはこれは、六条橘乃さま。ようこそいらっしゃいました」
浩平がUターンをして去っていくと同時に、フロントの方から眉の太い男性が橘乃に近づいてきた。 どういう人かまでは知らないが、先日茅蜩館の親族会議に出席していた誰かではある。
「お姉さまがお待ちかねですよ。その前に、どうぞ、あちらでチェックインのお手続きを。梅宮くんも、ご苦労だったね。ここは、もういいから」
ねぎらいの言葉をかけて、眉太男が梅宮を追い払った……ように、橘乃は感じた。梅宮と同じような黒いスーツを着ているので、彼もまた、茅蜩館のホテルマンなのだろう。声の出し方といい誘導の仕方といい、実に洗練されている。ロビーにいる一般客の目には、熟練のホテルマンが面識のある若い女性客を迎えているようにしか見えることだろう。だけども、橘乃は、彼の強引さに戸惑いを覚えずにはいられなかったし、少々腹を立ててもいた。
(梅宮さんが隣にいるのに、どうしてこの人が出しゃばってくるのかしら? まるで、彼の仕事の邪魔をするみたいに)
しかしながら、なによりも橘乃が気になったのは、男の梅宮に対する態度である。彼は、梅宮に対して、ひどく冷たかった。まるで、彼を敵だと思っているみたいに……
「あの」
男の強引な誘導で前方に歩かされながら、橘乃は梅宮を振り返った。こちらを見ている彼の唇が『すみません』と小さく言葉を刻むように動く。全ての責任は自分にあると言わんばかりに梅宮が申し訳なさそうな顔をしているのを見て、橘乃は彼を励ましたくなった。『気にしないで』というように橘乃は、笑顔で首を横に振った。梅宮は、弱々しいながらも橘乃に笑みを返してくれた。それから、静かに頭を下げ、いずこかへ去っていった。