期待はずれ? 6
「なんで、こんなところにいるんです?」
祖母と探していた花嫁との間で気楽そうに笑っている橘乃を目にした途端、要にしては礼を失した質問が口を突いて出た。
もっとも、聞かされなくても答えは知っている。橘乃が泊りにくることは、隆文から聞かされている。わからないのは、なぜ、橘乃と逃亡中の花嫁とが、こんな所でニコニコと笑いながら八重と茶を飲んでいるのか……ということである。
「橘乃さんは、うちのホテルに泊まりにきてくださったんだよ。いずれ自分のものになるかもしれない以上、うちのホテルのことやらなんやらを、ちゃんと知ろうと思ってくれたんだそうだ。本当に感心なお嬢さんだこと」
橘乃の代わりに答えた八重が、『なんやら』という言葉に力を込めながら、横目で要を睨む。まるで、その『なんやら』の代表が要だといわんばかりである。客の前であることを忘れてムッとしかけた要に、「ええ、そうしたら、早くに着きすぎてしまいましたの。それで……」と、橘乃自ら花嫁と共にここに至った経緯を説明し始めた。しかしながら、今は時間が押しているのだ。 自分で質問しておいてなんだが、今の要に彼女の話をゆっくりと聞かせてもらう暇はない。
「申し訳ありません。そのお話は、また後ほど」
彼は慇懃に橘乃の話を中断すると、何事もなかったかのように逃げ出した花嫁に微笑みかけた。
「大変お待たせいたしました。式場の準備が整いましたので、お越し願えますか?」
「あ、はい。ごめんなさい」
八重に向き合うように正座していた花嫁が、白いドレスの裾をかきあげながらあたふたと立ち上がる。一緒に立ち上がった橘乃が、花嫁のドレスの皺や裾のたわみを手早く直してくれた。一段高くなっている居間から出る時にもベールが建具に引っかからないように気を配ってくれる。それどころか、膝を庇うようにして立ち上がる八重にも手を貸してくれた。
「ありがとうございます」
花嫁と八重と要の声が被さった。特に花嫁は、橘乃に対して、だいぶ思うところがあるらしい。
「本当にありがとう。私も逃げずに頑張ってみるから、あなたも、いい人を見つけて幸せになってね」
彼女は、橘乃の手を取ると、力強い口調で彼女を激励した。それから、八重に向き直ると、改まった口調で、「ありがとうございました」と頭を下げた。
「よくあることですよ。じゃあ、行きましょうかね?」
八重は笑いながら首を振ると、花嫁に手を差し出した。玄関に向かうふたりの後に、要も続く。すると、振り向いた八重が、厳しい声で彼に命じた。
「私が花嫁さんを連れて行くから、要は、ここに残って橘乃さんのお相手をおし」
「え? でも……」
「オーナーさんが付いてきてくれるし、心配しなくても、もう逃げたりしません。みんなに迷惑かけたお詫びも、自分でしますから」
戸惑う要に、花嫁までもが彼がこの場に残ることを強く勧めた。
橘乃だけは、「梅宮さん、私にかまわずにお仕事に戻ってくださいな」と言ってくれたものの、要を庇ってくれたばかりに、彼女もまた、ふたりの女性から、「いいから、かまってもらいなさい!」と怒られてしまった。
「なんでもね。鎌倉の久子さんのところのマザコンの息子以外に、うちの人間はひとりも橘乃さんに会いにいってないんだそうだよ」
八重が同情を込めた眼差しを橘乃に向ける。
「え? ひとりも?」
「そうです。ひとりも、です。女の子にしてみれば、屈辱以外のなにものでもありませんよ。しかも、あなた方が来ない代わりに、どこの誰ともわからないお金目当ての人が家に押しかけてきて、彼女は、とても困っているのだそうです」
赤みの残る花嫁の目が、責めるように要を睨んだ。
「そういう訳だから、ごゆっくり」
花嫁と八重は、要を突き放すように背を向けると、部屋を出ていった。
***
「花婿さんがね。 披露宴の後、お友だちと飲みに行ってしまうそうなんですよ。ねえ、お湯呑はこれでよろしいのよね?」
八重がするのを見ていたのだろう。ふたりきりにされた要が気まずさを感じる間もなく、橘乃が、梅の絵柄が入った大ぶりの湯呑を茶箪笥から取り出してきて、いそいそと茶を入れ始めた。
「そうですけど、私がやりますよ」
客人に茶を出させておくわけにもいかず、要は慌てて居間に上がりこんだ。
「私の気を遣ってくださらなくていいんですよ。お忙しいんでしょう? お休みできる時ぐらいは、ゆっくりしていてくださいな。あ、でも、お仕事に戻りたいなら……」
「それも、気にしないでくれて、いいです。あなたを置いて戻ったら、後で祖母にどやされます」
不安に顔を曇らせた橘乃を安心させるように微笑むと、要は、机の下の、夏でも開きっぱなしになっている堀りごたつの穴に足を突っ込んだ。入れてくれた茶も、ありがたくいただく。喉の渇きと花嫁探しで高ぶっていた神経を、渋めの茶が鎮めていく。満足げな吐息が要の口から洩れた。なんだか無性に和む。だが、みんなが忙しくしている時に、自分だけが呑気に彼女と和んでいていいものなのだろうか?
「花嫁さんにしてみれば、『結婚したその日に旦那さまが自分を置いていっちゃうなんて!』って、裏切りみたいに思えたんでしょうね。でも、旦那様になる方って、青森のご出身なんですって。ご自分の結婚式をお祝いするためにお見えになってくれたお友だちですもの。帰ってしまう前にゆっくり話したいと花婿さんは思ったんでしょうね。そういう義理堅い人だから、遠くからでも、沢山のお友達が結婚式に駆けつけてくれるのでしょうね。それで、花嫁さんが……」
熱めの茶をチビチビとすすりながら要が罪悪感と戦っている間にも、橘乃は切れ目なく話し続けている。要が聞いていようが聞いていまいが、あまり気にしていないようだ。子供の頃から周囲の大人の反応に気を遣いまくり、長じてホテルマンなどという接客にかかわる仕事についてしまった要にとって、相槌を打つことも集中して聞くことも要求されない状況というのは、めったにないことだった。居心地がいい。やっぱり和む。だが、和んでいる場合なのだろうか? やはり仕事に戻るべきなのではないだろうか? 要の心は、揺れる。
(小鳥が、さえずっているみたいだな)
楽しげに話し続ける橘乃に、要は目を細めた。
おしゃべりな女といってしまえば、その通りなのだろう。彼女を不快に思う者や面倒くさいと思う者がいるだろうことも容易に想像がつく。だが、要は、橘乃が話すのをやめさせたいとは思わなかった。彼女のおしゃべりは、ちっとも不快ではない。どちらかといえば、面白い。いや、むしろ興味深い。
逃げた花嫁から聞かされた時には愚痴と恨み言だけで構成されていたに違いない話は、橘乃の手……もとい口にかかると、なぜか良いことづくめの話に変わってしまうようである。しかしながら、彼女が余分な脚色が入れているとか、悪いことから目を背けて無理矢理話を良い方向に持っていこうとしているかといえば、そういうわけでもないようだ。
ちゃんと聞いていれば、彼女は、あの逃げた花嫁の欠点……というよりも花婿と今後やっていく上で問題になりそうな彼女の自分本位気味な性格にも言及しているし、花嫁に『無神経』と評されてしまった花婿の行動を庇うこともしていない。
彼女は、思いの外客観的に、ありのままをあるがままに話していた。良いことづくめの話に聞こえていても、彼女は決定的に誰の味方にもつかない。そういう意味において、橘乃は、むしろ冷淡であるとさえいえるかもしれない。
(案外、人が悪いとか?)
だが、橘乃の話しぶりは、あくまでも暖かだ。良い子ぶって、人受けのすることを話そうと意識しているふうには、とても見えない。彼女は、ただただ話すことが楽しくてしかたがないように見えた。話すという手段を通じて、良いことの中からもっと良いことを見つけ出し、悪いことの中からも良いことを見つけ出すことを楽しんでいるようにも見える。そう。まるで、泥の中から宝物を掘り出すかのように。
(普通は、悪いことはもっと悪く、良いこともわざわざ悪くいうものだけど)
橘乃は、彼の知っている『普通』とはかなり違っているらしい。
(変な子だな)
ついでに言うと、八重も一緒にいたとはいえ、よくもまあ20分程度の間に花嫁からこれだけ多くの情報を聞き出せたものだとも思う。
八重といえば、橘乃は、八重のことを盛んに誉めそやしていた。
「私なんて、話を混ぜっ返して花嫁さんを怒らせてしまうばっかりだったんですけど、八重さんが、そこを上手にフォローしてくださったんです。八重さんって、すごいですね。花嫁さんの気持ちが全部わかってらっしゃるみたい。優しくて……」
……と、逃げた花嫁が結婚式に戻るにあたって特に感謝していたのが橘乃であったにもかかわらず、すべて八重のお手柄であるかのような誉めっぷりである。
(しかし、この子は、こんなに人の良い面ばかり見ていて大丈夫なのかね)
こんな調子では、彼女は、いつか誰かに足元をすくわれるような目に合わされることだろう。六条家のお嬢さまとして大事に守られていたからこそ、今までの彼女は辛い目にも合わずに無事に過ごしてきたのかもしれない。だが、世の中は、善意に善意で返してくれる人ばかりとは限らないのだ。
心配半分、からかい半分。要は、橘乃に意地悪をしたくなってきた。
「祖母は、まったく優しくないですよ」
要は、言った。「時間通りに式を進めてもらいたいばっかりに、とにかく花嫁に合わせていただけです。 優しげにみえて、あの人は、かなり打算的です。花嫁を慰めながら祖母が心配していたことといえば、『あと何分でケリをつけるか?』、それだけだと思いますよ」
だが、この程度の悪口では、橘乃の口は封じられないらしい。
「打算的でもなんでも、それで花嫁さんの気持ちが良い方に変わるなら、結構じゃないですか」
橘乃は笑った。「それに打算的でなければ、こんな大きなホテルのオーナーは勤まらないと思いますわ。 お商売ですもの。善意だけで動いていては、いずれ立ち行かなくなります。損得勘定が働いて当然です。『肝心なのは、どれだけ気持ちよく相手に金を出させるかってことだ』って、父も常々申しておりますもの」
「なるほど」
さすが六条源一郎。娘を溺愛しながらも、シビアな現実を教え込むことも忘れていないようだ。
「でも、橘乃さんの言い方だと、結婚式さえ無事に終わってしまえば、その後の花嫁が、その結婚のせいで不幸になってもかまわないと言っているようにもとれますけど?」
「そんなこと言ってませんわ。でも、結婚式の些細な行き違い程度のことで、ご縁が壊れちゃったら残念じゃないですか? せっかく好きあって、自分たちの意思で結婚を決めたカップルなんですから」
橘乃が、それまでに見せたことがないような大人びた笑みを浮かべた。
彼女は口にはしなかったが、要には、『親の言いなりになって結婚するのではなくね』という彼女の言葉が聞こえたような気がした。おしゃべり好きの能天気な少女にしか見えないが、彼女は彼女なりに覚悟を決めて、この縁談に臨もうとしているようだ。そうだとわかった途端、要は、わざわざ意地悪なことを言って橘乃を傷つけようとしている自分が、ひどく子供っぽく思えてきた。
「……。すみません。失礼なことを言いました」
「まあ? 梅宮さんがおっしゃっていることなんて、失礼のうちに入りませんよ。うちの兄や妹なんて、もっと手厳しいことを平気で言いますよ」
橘乃が、コロコロと笑いながら、「おかわり入れますね」と、要の空になった湯呑を自分のほうに引き寄せた。
高級茶葉しか味わったことがないらしい六条家のお嬢さまは、旨いが二級品と見られがちな茎茶が珍しいようだった。急須の中の茶葉を取り換えながら、「このお茶っ葉だと、茶柱が沢山立ちそうでいいですね」などど言いながら笑っている。
「ホテルで出している煎茶を仕入れているお茶の農園から分けてもらっているんですよ。昔からのお得意さまで、手間暇かけてお茶を茶葉から作っている方がいらっしゃいまして」
「まあ、そうなんですか。ホテルでいただくお茶も、このお茶もおいしいけれども、このお茶のほうが、色もお味もすっきりしている気がしますね」
橘乃が湯呑の底を覗き込みながら、そんな感想を述べた。
「確かに、すっきりした味わいですね」
要も、大真面目な顔で、若葉色の液体を見つめながらうなずく。我ながら、呆れるほど平和でのどかな会話である。
(こんなにのどかでいいのか? ……って、まあ、いいか)
要は、いい加減に悩むのが面倒臭くなってきた。オーナーたる祖母が『ここにいろ』と彼に厳命したのだ。無理してまで忙しがることもない。彼は、胸の奥でうずいている罪悪感を一時的にうっちゃっておくことにすると、橘乃の相手に専念することにした。
「ところで、うちの者が誰も伺わない代わりに、どこの誰ともわからない者が大勢、六条さまのお宅に押しかけたそうですが……」
「そのことは、別に、いいじゃないですか」
あまり触れられたくない話題だったらしい。橘乃は、要の問いをはぐらかすように笑うと、部屋の隅にある仏壇に目をやった。
「お参りさせていただいてもいいですか? それから、買ってきたお菓子なんですけど。さっきの花嫁さんに差し上げるのに開けちゃったんですけど、このお皿のは全然手を付けていないので、お供えしてもかまいませんか?」
仏壇に供えるために、自分に取り分けられた分を食べずに取っておいたらしい。橘乃が、机の隅に寄せられていた葛饅頭のようなものを盛られた小皿ごと両手で持ち上げた。
「あ、はい。ありがとうございます」
要は、慌てて立ち上がると、彼女の先に立ってロウソクに火を灯した。