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誕生日には歌を  作者: 風花てい(koharu)
12/86

期待はずれ? 3

 一方、橘乃の代わりに茅蜩館ホテルの内情を調査中の中村紫乃こと旧姓六条紫乃である。

 

 彼女は、少女の頃から、六条家の長女として、妹たちどころか彼女たちが通っていた学校の全生徒の手本となるべく生きてきた。

 

 自分が正しいと思ったことを言い、するべきことをしてきた紫乃の信条は、正々堂々。コソコソするのは大嫌い。陰口は、されるのも嫌いだが、するのはもっと嫌である。他人に対しても要求が高いほうなので手厳しい評価を下してしまうこともあるが、紫乃の人物評は、あくまでも紫乃の中だけのもの。口外するとしても、夫の弘晃や父親に求められた時に、情報として提供するのがせいぜいである。 

 彼女は、人の悪口を肴にして自分から会話を盛り上げようと思ったことはなく、自分とはかかわりのない人々の醜聞や悪意のある噂話に興じる趣味も熱意もない。ましてや自分から他人様の醜聞を掘り返すことなど…… 今までの紫乃なら、してみようと考えたことすらなかった。


 そんな彼女の経験不足が仇になったのだろうか?

「3日もあれば、わかると思うわ」と橘乃に大見得を切ったにもかかわらず、紫乃の調査は難航を極めていた。昔のことに詳しく、かつ噂話にも通じていそうな夫の親戚の女性たちに片端から電話でたずねているというのに、茅蜩館ホテルの相続問題の詳細を知る者が全く現れない。

 一番あてにしていた大叔母の葉月までもが、「茅蜩館の相続問題? あそこは、そんなことで揉めているんですか? 今から30年ほど近く前……というと、戦後かしら? 戦後といえば、戦後初めて連れて行ってもらったパーティーの会場が茅蜩館でしたねえ。久しぶりに誂えてもらったドレスが、嬉しくて嬉しくて……」……と、こんな調子であった。 


 一週間ほぼぶっ続けで、おばさま大おばさまたちから、茅蜩館ホテルを舞台にした若き日の懐かしくも麗しい思い出話を聞かされ続けた紫乃は、とうとう根を上げた。 


「私の聞き方が悪いのかしら?」

 それとも、橘乃が茅蜩館ホテルの後継者に指名されていることを打ち明けた上で、彼女たちから話を聞くべきだっただろうか?

「あるいは、茅蜩館の相続争いは、外にはまったく漏れていないということなのかしら?」

 しかしながら、橘乃の印象では、父の源一郎は茅蜩館の一族が抱えている問題に精通しているようだったという。


「だったら、お父さまが橘乃に詳しく教えてあげればいいのよ。それを秘密めかして……」

「説明しないのではなくて、したくてもできないのかもしれないよ」

 紫乃の愚痴めいた呟きを、夫の弘晃は聞き逃さなかった。病弱であるがゆえに、1年の大半を夫婦の部屋のベッドの上か書斎のベッドの上で過ごしている弘晃は、今日も今日とてベットの上で、会社から送られてくる大量の書類と向き合って過ごしている。


「お義父さんが茅蜩館ホテルの事情に詳しいのは、お義父さん自身が当事者たちに近すぎるからなんじゃないかな」

 読みかけの書類の先頭に手書きのメモを留めつけると、弘晃が紫乃に顔を向けた。 


「近すぎる?」

「そう。茅蜩館は3つの派閥に別れて争っているのだよね? そのうちのひとつに、お義父さん自身が肩入れしすぎているとする。そのために、橘乃ちゃんに偏った話しか聞かせてあげられないとしたら?」

「父の話を聞いた橘乃も、父の気持ちに染まってしまう?」

 自信なさげに答える紫乃に、弘晃がうなずく。

「だけど、それをしてしまうと、橘乃ちゃんにお婿さんを選ばせる意味がなくなってしまうだろう? 初めから、『この男と結婚しろ』と、お義父さんが命令するだけでいい」

「それも、そうですね。でも、どうしてそうしないのかしら?」

 弘晃が布団の上に散らかした処理積みの書類を、いつもそうしているように窓辺に置かれた箱の中に戻しながら、紫乃が首を捻る。


「理由は、いろいろ考えられるね。例えば、お義父さんが男性を見る目に自信が持てないでいる……とか?」

「そういえば、お父さまは明子の時に大失敗してしまったものね。まだ、立ち直れていないのかもしれないわね」

 源一郎が次女のために念入りに選んだものの結局離婚することになってしまった明子の前夫を思い出して、紫乃は苦笑いを浮かべた。


「でも……」と、悪戯心をおこした紫乃は、ベッドの縁に腰を下ろすと、弘晃に擦り寄った。

「わたくしの旦那さまと選んだ時のお父さまの目は、確かだったと思いますわ」

「それこそ疑わしいと思うけどね」

 謙虚な夫は、耳まで赤くなった。


「それはさておき。お義父さんが橘乃ちゃんに選択を委ねたのは、お義父さんの偏見で婿を選んでしまうには惜しいだけの男性が茅蜩館には複数いるから……ということも考えられるよね?」

「または、自分が口出ししなくても、橘乃が確実にその人を選ぶだろうという確信が、父にあるから……かしら」

 弘晃と顔を見合わせた紫乃の口元に、笑みが戻る。


 言われてみれば、あれだけ親バカな源一郎が、可愛い娘に餌をつけて狼の群れのなかに放り込むような真似をするわけがない。逆に考えると、源一郎には、橘乃が幸せな未来を手に入れる確信があるからこそ、これほど突拍子もないことを始める気になったのではなかろうか?


「もちろん。僕らは勝手に想像をめぐらせているだけであって、お義父さんが本当は何を考えているのかなんて、わからないけどね」

 すっかり安心しそうになった紫乃に、弘晃が釘を刺した。「わかっています」と言いながら、紫乃が意識して顔を引き締める。 


「でも、父は誰にそんなに肩入れしているのでしょう? やっぱり現オーナーの八重さんかしら?」

「その可能性が高いけど、お義父さんに直接聞いても教えてくれそうにないよね。葉月おばさんまで知らないとなると……いや、待てよ」

 弘晃は、言葉を切ると、ベッドサイドに置かれている電話に手を伸ばした。


 弘晃が連絡をとろうとしたのは、ふたり。いずれも、引退した中村の分家の元当主である。

 ひとり目の中村造船前会長は自宅にいた。弘晃が電話をした時には、かなり暇を持て余していたらしく、若者に昔話をさせてもらえる機会を最大限に生かそうと思ったようだった。彼は、弘晃に質問する暇を与えぬまま、『1時間後にそちらに行くよ』と約束して、一方的に電話を切った。


 ふたり目の中村エンジニアリング初代会長ついては、電話では居所がわからなかったものの、その後すぐに、孫娘と春に生まれたばかりの曾孫娘とを伴って、中村家の近所を散歩していることが明らかになった。ちなみに、その曾孫というのは、紫乃と弘晃にとっては姪にあたり、弟嫁の華江は毎日のように娘を連れて中村家に遊びにきている。「呼びにいかなくても、そのうちおみえになるわよ」という姑の言葉通り、散歩を終えた3人は中村家に戻ってきた。


「六条さんが茅蜩館を? 八重さんも随分と思い切った手に出たものだねえ」

「だが、それぐらいやらんことには、あそこは、もう収まらんだろう。新オーナーに必要なのは、誰にも口を出せないほどの強力な後ろ盾。その点、六条くんなら申し分ない。紫乃さんの妹御には、いい迷惑でしかないだろうがね」

「いやいや、あの八重さんが育てたんだ。3人のうち、どの子と一緒になっても間違いないだろうよ」

 

 現役を引退した元経済界の重鎮たちは、茅蜩館の揉め事について、よく知っていた。

 弘晃が少し水を向けただけで、紫乃が期待していた以上のことを話してくれた。


「葉月おばあさまは、何もご存知なかったのに……」

「そりゃあ、おばさんたちに聞いても知らないさね」

 大叔父たちが楽しそうに笑う。その後の彼らの話から、紫乃は、相続問題が発生した頃の茅蜩館ホテルというのは、彼らにとって、男の子における《女の子には内緒の僕たちの秘密基地》みたいなものであるらしいと察した。


 茅蜩館ホテルは、昔から裕福な商売人……今風の言葉でいえばビジネスマンの贔屓客が多かったという。戦時中は軍部、戦後は役人や進駐軍、ついでに女たちの目が届ききらないあの場所で、彼らは彼らなりに国の将来を憂いたり、いろいろと楽しい思いをしてきたらしい。


「特に戦後は、あのあたりのホテルはみんな接収されてしまって、あそこの新館だけが日本人相手に上級のサービスを提供しておったからな」

「あそこに行くと、ラウンジとか風呂とかで、誰かしらに会うわけだよ。 その誰かと意気投合しては、アメリカさんの悪口を肴に朝まで飲んだりしてね」

「『我々は戦に負けた。だが、このままでは終わらせない。これからは経済だ! 必ずや国を建て直し、銃剣ではなく算盤をもって欧州列強に勝利するのだ!』……とか、酔った勢いでおだを上げたりするわけだ」

「当時は、なかなか手に入らなかった酒とかウィスキーとかを誰かが持ち込んでは、ホテルの従業員を買収して、進駐軍の備蓄から缶詰をくすねさせたりしてなぁ」

「楽しかったなあ」

「ああ、あの頃は大変だったけど、楽しかった」

 だが、男たちだけで楽しんでいるのも申し訳ないので、たまには女たちに罪滅ぼししたくなる。大叔母が話してくれたパーティーは、そういう主旨で開かれたものであったようだ。「このことは、くれぐれも葉月には内緒だぞ」と、紫乃は硬く口止めされた。

「ご心配なく。秘密は守りますよ。 僕たちだって、葉月おばさんをガッカリさせたくないですからね。それで、その茅蜩館ホテルの相続争いで六条さんが最も肩入れしそうな人物ですが、おじさんたちに心当たりはおありですか? やはり現オーナーの八重さんでしょうか?」

 放っておくとキリがなさそうな老人たちの話に、弘晃が軌道修正を加える。


「八重さん……かも、しれんがなあ……」

「しかし、八重さんだ……とも言い切れんというか……」

 今まで饒舌だった大叔父たちの口が、急に重くなった。 

「あやつの場合は、八重さんというより、やはり総支配人だろうなぁ」

 顔を見合わせた後、ふたりはそう結論付けた。


「総支配人って……」

 紫乃の脳裏に、自分たちの結婚式の当日にホテルの正面玄関で出迎えてくれた女性の姿が浮かんだ。おそらく紫乃の母親と同年代の黒い細身のスーツが似合う美人……


「お父さまったら、また、女……」 

「いやいやいやいやいやっ! 今の総支配人のことではないよ! 貴子さんじゃない。違う違う!」

 顔色を変えた紫乃に驚いた大叔父たちが、女癖の悪い彼女の父親を庇って慌てたように手を振った。


「当時の総支配人兼オーナーだよ。八重さんの息子の久志さん」

「友達だったんだよ。六条さんの」

 

 片や、天涯孤独の無類の女好き。片や、母親を手伝って若い頃から老舗ホテルを背負ってきた、石部金吉と揶揄されるほどの堅物。全く正反対の性格をしたこのふたりは、なぜだか妙に馬が合っていたという。


「六条さんは、ホテルの従業員の女の子を誘惑しようとしては、久志くんに怒られていたな。かといって、久志くんの目を盗んで六条さんが彼女に手を出すかといえば、しないんだ」

「ボタンって女の子だろう? パンパンあがりの?」

「そうそう。長くて真っ直ぐな黒髪が印象的な、お姫さまめいた子だった。綺麗な娘だったよなあ。ロクに化粧もしていないのに、ぞっとするような美貌の持ち主でね」

「葉月が白い牡丹なら、あの子は紅の牡丹だった。華やかで艶っぽくて、そして誇り高い」

 老人たちの話が、また逸れた。「なるほど。 茅蜩館には、おばさんたちには言えないことが、いっぱいあったんですねぇ」と、弘晃が大叔父たちを見て笑っている。

 

 だが、この話はこの話で、紫乃には興味深かった。異性の《お友達》ならばともかく、父の友人のことなど、彼女は今まで聞いたことがなかったからだ。

(なんでも話せるほど近しい存在といえば、佐々木さんなのだろうけど……)

 だが、佐々木は、源一郎の第一の秘書であり片腕。彼のことは、父の《友人》というよりも、《仲間》とか《同志》と称したほうがしっくりくるような気がする。


「でも、あの……パンパンっていうのは、いわゆる……?」

「いわゆるもなにも、娼婦のことだな。街娼。ストリート・ガール。当時のあの辺りには、進駐軍の男相手のそういう女性が沢山いたんだよ。金目当てや興味本位の女も大勢いたかもしれんが、生きるための手段が、それしかなかった女もいた。大切に育てられた紫乃ちゃんには、想像もつかんだろうがね」

「ふしだらな女たちだと軽蔑されながらも、彼女たちがいるからこそ、普通の女性たちが性的な犯罪から守られているという皮肉な側面もあった」

 当時のやるせなさを思い出したかのように、大叔父たちの表情が悲しげに歪む。


 久志は、苦界から身を洗いたいと思っている女たちをホテルの従業員として雇い入れ、自立をする手助けをしていたそうだ。

「おかげで、あの頃の茅蜩館の女性従業員は美人揃いでなぁ」

「中でもボタンは逸品で…… 失敬。堅気になろうとしていた女性を、そういう目で見てはいかんな。うん。いかん、いかん」

 紫乃に睨まれて、大叔父たちが小さくなる。そんな彼らを見て、弘晃が、ますます楽しそうに笑った。


「そうですよ。更生しようと頑張っていらしたのでしょう? 父も父です。いくら美人でも、そんな女性にまで手を出そうとするなんて最低です」

 紫乃は、だんだん悲しくなってきた。やはり、自分の父親は、女性が絡むと畜生にも劣るのだろうか?


「いやいや、六条さんのあれはね。たぶん、違うよ」 

「ああ、そうだな。あれは……ボタンさんを手に入れたいというよりも、あれだな」

 気色ばむ紫乃を見て、大叔父たちが、またしても源一郎を庇おうとする。だが、先ほどとは様子が違い、なにやら楽しそうである。


「どういうことでしょう?」

「……。 まあ、もう、とっくの昔の話だしな」

「確かに、今さら言ったところで詮無いな」

 ニヤニヤ笑いを収めると、大叔父たちは、キョトンとしている紫乃にゆるゆると首を振り、「とにかく、久志くんと六条さんは、とても仲が良かった。だから、彼が亡くなった時には、とても悲しんだ。……と思う」と言った。


「だから、六条さんが肩入れするなら、久志くんだろう。だけど彼はいない。というよりも、彼が亡くなったことで相続がややこしくなった。しかしながら、彼がいないなら八重さんに六条さんが肩入れするかといえば、それも違うのではないかと思う」

「違うんですか? でも、八重さんは、久志さんの息子さんの誰かにホテルを継がせたいと思っているのですよね?」

「だから、そこが違う」

 弘晃の問いに、大叔父たちが首を振った。


「あの3人は、久志くんの子じゃない。ホテルを我が物にしたいと願う者たちが、久志くんの隠し子だと主張して、どこぞから調達してきた孤児ばかりだよ。八重さんは久志くんの忘れ形見だと信じたいのかもしれんが、久志さんの真面目っぷりを誰よりも知っている六条さんには、到底認められまい?」



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