期待はずれ? 2
「六条橘乃、21歳。今、橘乃を嫁にした人には、もれなく茅蜩館ホテルがついてきま~す。ただいまキャンペーン実施中!」
「……。なにやってんだか」
「橘乃姉さま。そんなことして、虚しくないの?」
夕食後、何かのテレビコマーシャルを真似て、カーテンコールに応える主演女優のように両手を大きく広げながら満面の笑みを左右に振りまいてみせる橘乃に、妹たちが呆れる。
「だってぇ。こんなことでもしないと、やってられないのだもの」
珍しく不平を言いながら、橘乃は冷たい視線を注いでいる妹たちに、膨れっ面を向けた。
橘乃の父・六条源一郎が『橘乃を手に入れた者にホテルを差し上げる』と発表したのは、昨日のことである。だから、今日からしばらくの間は、朝から欲に目が眩んだ求婚者たちが橘乃のもとに押し掛けてくるに違いない。そして、自分は彼らの対応に忙殺されることになるに違いない。
……と、彼女は覚悟を決めていた。
しかしながら、どれほど甘い言葉で男たちが彼女を誘惑しようと、自分は簡単に彼らの愛を受け入れまい。姉や妹から、『くだらない男を選んだものだ』と後々馬鹿にされないためにも、今後の茅蜩館ホテルの繁栄のためにも、自分は慎重に真実の彼らと彼らの本心を見抜いてやるのだ。そのためには、いつものように人の良いところばかり見ようとしていてはいけない。今回ばかりは、いつもの『誰に対しても贔屓目すぎる橘乃ちゃん』を一時的に封印し、末の妹の月子ばりにシビアで辛口の鑑定眼をもって求婚者たちに接しなければ!
……と、彼女は気負ってもいた。
姉たちから『男の人たちに、こちらから隙をみせるようなことをしてはダメよ』と忠告されていたこともあり、彼女は、朝早くから化粧や服装を完璧に整えて男たちを迎え撃つ準備を万端にし、『さあ。 いつでも、どこからでも、かかってきなさい!』
……とばかりに、待ち受けてもいた。
にもかかわらず、誰も何もしてこないまま、今は、もう夜である。
誤解されては困るが、橘乃は、自分を好きでもない男たちから寄ってたかってチヤホヤされたい訳ではない。だが、これでは1日中身構えて過ごした自分が馬鹿みたいである。気負っていた分だけ無理にはしゃいでみせぬことには、身の置き所がない。
「ともあれ、まだ1日目だから」と、その日は自分を納得させたものの、翌日も、そのまた翌日も、誰からも何の音沙汰もないまま、橘乃の1日は平和に過ぎていった。
3日目の夜にもなると、楽天的な橘乃も、さすがに笑ってばかりはいられなくなってきた。
「私って、そんなに魅力がないのかしら?」
疲れたようにテーブルに突っ伏して、彼女は愚痴った。立派なホテルを持参金につけても誰にも関心を持ってもらえないほど、または、ホテルをつけられても欲しくないと敬遠されるほど、自分はつまらない人間だったのだろうか?
「だから反対したのよ。源一郎ってば、本当に考えなしなんだから……」
励ますように橘乃の肩に手を置きながら、次女明子の母親が悪態をついた。ちなみに、父は、先日母親たちから吊るし上げられたことで女性の恐ろしさを再認識したらしく、あれ日以来、仕事を理由に家から極力遠ざかっている。
「こうなること、わかってたの?」
「まあね」
驚いて顔を上げた橘乃に、明子の母が面白くもなさそうにうなずく。
「やっぱり、私に……」
「違うわよ。橘乃ちゃんは、とっても魅力的。あなたをお嫁さんにできた人は、と~っても幸せになる。ただねぇ」
父の4人目の愛人。4女紅子の母親が、助けを求めるように長女紫乃の母親に苦笑を向ける。
「ええ。こんな状況で勇んで橘乃ちゃんに求婚しにくる男の方がいたとしたら、その人は、とんでもなく恥知らずってことですよ」
紫乃の母は、橘乃の脇に腰を下ろすと憂い顔で彼女に説明し始めた。「源一郎さんが『ホテルを持参金にする』と言ったことで、ホテルに関係のある若者が橘乃ちゃんに会いにきたとしますね。そうしたら、たとえ彼にそんな気はなくても、誰もが『ああ、彼は財産目当てなんだ』って思うことでしょう。ただでさえ、茅蜩館は相続で揉めているのですから」
「そうなんですってね」
『あまり詳しい話をすると、先入観に囚われて選びづらくなるから』と、父は、ざっとした説明しかしてくれなかったのだが、茅蜩館ホテルは、もう何年も八重亡き後のオーナーの座を巡って親戚同士が3つに分かれて争っているのだそうだ。そして、いがみ合う3つの派閥のそれぞれが次期オーナーに推しているのが、梅宮を筆頭とした八重の3人の孫ということらしいのだが……
「順当にいけば、梅宮さんが継ぎそうなものなのにね」
なにげない口調で末妹の月子が言う。確かに、宴会場での話し合いで見た3人の孫の中では、彼が一番年上に見えた。
「それなのに、よりによって、うちのお父さまを巻き込むことまでしないと解決の見込みがないっていうのは、どういうことなのかしらね」
「今あれこれ憶測していても仕方がないんじゃないかしら。紫乃姉さまたちが探ってきてくれるのを待ちましょうよ」
いろいろとわからないことの多い茅蜩館の内情については、橘乃のふたりの姉が調べてくれることになっている。紫乃と明子の婚家には、金持ち階級のスキャンダルに通じた親戚が少なからず存在しているから、茅蜩館ホテルを巡る争いに詳しい者もいるだろう。『当事者たちの偏った主張を聞く前に、無責任な第三者の噂話を集めてきたほうが、状況を客観的に把握できるかもしれないわ』と、紫乃は話していた。
「詳しいことはわからないにせよ、醜い争いをしている大人たちを間近で見て育った子供たちというのは、下手な大人よりも、ずっと冷静だったりするものですよ。そんな人たちは……特に若い男の方は、財産目当てで女性に近づいたなどと思われるのは、嫌なのではないかしら?」
「そうか……。……と、いうことは」
橘乃の顔が輝く。「よかった。私の旦那さまになる可能性が高い人は、まともな人ばっかりってことね?」
「そうね。考えようによっては、未だに誰もプロポーズしに現れないことは喜ばしいことだと思いますよ」
立ち直りの早い橘乃に苦笑いしながら、紫乃の母がうなずいた。
「焦ることなんてありませんからね。あと5年ぐらいの時間をかけて結婚相手を決めるつもりで、あちらの方とは、ゆっくり知り合いになればいいんですよ。だけどねぇ」
紫乃の母が、片手を頬に当てると、ため息をついた。
「源一郎さんは、独身男性ならば誰でもあなたにプロポーズする権利があると言ったのでしょう。しかも、噂というのは、時間が経てば経つほど、大勢の人に広がっていくものなのよね」
実母の美和子が、可愛い衣装には不似合いな絶望的な表情を浮かべながら天を仰いだ。
「うん。だから?」
「だからね。これからドンドン来るわよ。とびっきりの恥知らずが」
キョトンとした顔をしている娘たちに、明子の母が、怪談を語る時さながらの恐ろしげな表情を浮かべてみせた。
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母たちが危惧したことは、それから数日後から起こり始めた。
「浅川光宏33歳。橘乃さん、僕と結婚してください!」
その日の午後、六条家の門前で待ち受けていた男が、体を直角に曲げるようにして握手を求めてきた。ただし、手を差し出されたのは、橘乃ではない。妹の紅子だった。見ず知らずの男からいきなり結婚を申し込まれた紅子は、相手が明らかに人違いをしていることもあって、どう対応したらよいか、とっさに判断できなかったそうだ。
戸惑っている紅子を見て、男は、ようやく人違いに気が付いてくれた。だか、そこからが、もっと、いけなかった。彼は、出した手をいったん引っ込めると、紅子の背中に逃げ込んでいた夕紀に改めて結婚を申し込んだ。
夕紀は、同い年の姉の紅子なしでは生きられないほど引っ込み思案な娘である。幼い頃から夕紀を守ってきた紅子は、なにかの発作の前兆のように体を硬直させたまま息をするのも忘れたように男を見つめている妹を見て、とにかく一刻も早く彼女を連れて逃げなければいけないと思ったという。だが、そう思ったときには遅かった。ふたりは、既に、彼と同じように六条家の屋敷の周りを広く囲んでいる鉄柵の外側をウロウロしていた数名の男たちに、すっかり囲まれていた。彼らもまた、橘乃との婚姻を望んでいるようだったという。
紅子は夕紀の手を掴むと、ふたりに自己紹介をしながら必死に追いすがろうとする男たちを蹴散らすようにして逃げてきた。この時の恐ろしさを、紅子は、「ゾンビに襲われたほうが、まだマシだと思った」と、身震いしながら述懐した。
この騒動を知らされた父親は、すぐに彼の秘書の葛笠を家に戻した。
「大学が終わったら、家に連絡して迎えを寄こしてもらってくださいと何度も言っているでしょう。隙を見せるから、おかしな男に襲われかけたりするんです!」
不意打ちの求婚者たちを、あっという間に追い払うと、葛笠は鬼のような形相で紅子を叱りつけた。大好きな葛笠に怒られた紅子は、しょげかえっていた。だが、周りの者の目には、葛笠が自分の職分を越えて紅子の心配をしているようにしか見えなかった。
しかしながら、この時の橘乃たちは、紅子の恋の進展を微笑ましく眺めているわけにはいかなかった。というのも、昼間の騒ぎは、ほんの序の口に過ぎなかったからである。
いったんは葛笠たちに追い払われたものの、無作法な求婚者たちのほとんどは、夜陰に乗じて六条家の周りに戻ってきたらしい。真夜中には、用心のためにと執事がリードをはずした状態で庭に放っていた番犬たちが、六条家に不法侵入した男ふたりを追いかけまわすという騒動があった。
また、翌朝には、鉄柵を乗り越えようとしたものの柵に服が引っかかってはずれなくなり、宙ぶらりんにされたまま一晩を明かした男が発見された。「見せしめのために、3、4日放っておこう」と、兄は主張したが、いくらなんでも、それは気の毒である。結局、男は、もう二度と六条家に近づかないことを条件に助けられることになったわけだが、彼の救出作業が行われている間にも、柵の向こう側では、長髪を後ろで束ねた男が、白いフォークギターをかき鳴らしながら橘乃に捧げる愛の歌を熱唱していたり、動物園の猿のように柵にしがみついた男が橘乃への愛を叫んでいたり、『橘乃LOVE』と書かれたボードを掲げた男が、こちらにアピールするようにピョコピョコ跳ねたりしていた。パントマイムで、橘乃への愛情を表現しているらしい男もいた。
いったい彼らは何者なのか?
どこからやってきたのか?
その答えは、その日のうちに葛笠がもたらしてくれた。
「紅子さまが間違われて結婚を申し込まれた浅川という男は、現在の茅蜩館のオーナーであります恵庭八重さんから見ると、旦那さんだった人の弟さんの奥さまの友人の息子さんの交際相手の友達の知り合いのようです」
「つまり、赤の他人ってことね?」
「おっしゃるとおりです」
葛笠が月子にうなずく。
葛笠の報告によると、他の者も、浅川と似たり寄ったりだった。茅蜩館ホテルとは、ほとんど関わりがない。たまたま橘乃の持参金の話を聞きかじっただけの全くの部外者であるようだ。
「なんでそんな人が?」
それは、もちろん、橘乃の父が『独身男性だったら、誰でも橘乃に求婚できる』と宣言したからだろう。
「でも、どうして?」
「ズバリ、お金目当て。そうでしょう?」
「おおかたは、そうですね」
葛笠が、手にした小さなメモを繰りつつ、明子の母の問いを肯定する。
「例えば、浅川ですが、彼は小さな会社を経営しています。経営状態は、2年前までは比較的良好でした。ですが、今は無理な投資が祟って、資金繰りに四苦八苦しています。白いフォークギターの男は、デビュー詐欺みたいなものに引っかかって借金まみれになったそうです。番犬とサルもどきはギャンブルで、柵に引っかかっていた男は女で、それぞれ身を持ち崩してますね。パントマイム男は、映画監督志望で自主制作の映画のための資金を欲しているようです。それ以外は、ただの冷やかしというか、運試しにきただけのようです」
それ以外の人々は、『ここに来れば大金が手に入る』と聞いて来たと言っていたそうだ。橘乃の持参金のことも知らないらしい。街では無責任な噂が無制限に広がりつつあるようだ。『せっかく静かに暮らしているのに、しばらくは変なのが屋敷の周りを跋扈するに違いない』と、母親たちが煩わしそうに首を振る。
「それはさておき。要するに、全員が橘乃姉さまの夫としては問題外ってことね」
自分本位な理由で困った顔をしている母親たちに蔑むような視線を向けながら、月子が結論づけた。
「そのようね」
橘乃も末妹のコメントに、心から同意した。
金策に四苦八苦している人は気の毒だとは思う。けれども、葛笠の説明を聞く限り、現在の彼らの窮状は自分で招いたことであるようだ。いくら橘乃がお人好しでも、そんな人にまで同情する気にはなれないし、ましてや愛情を抱くことなどありえない。なにより、橘乃には、彼らがホテルのオーナーに相応しい人物だと思えなかった。彼らは、茅蜩館ホテルに対して、なんの愛着も抱いていないのではないだろうか。行ったことがない可能性だってある。そんな人と共に一生ホテルを背負っていく将来の自分の姿を想像しただけで、橘乃は、ひどく憂鬱になってきた。
「いやだな」という呟きが、橘乃の口から零れ落ちた。口にしてしまうと、その想いは……というよりも彼らと共にある自分の未来像への嫌悪感は、彼女の中で明確な事実となった。
「うん、いやだわ。どうしてもイヤ」
彼女は、自分に確認をとるようにうなずくと、「橘乃? どこに行くの?」と問いかける女たちを無視して屋敷を飛び出した。向かう先は、六条家の門前だ。使用人らが朝から何度も追い返しているにもかかわらず、そこには、また、朝の顔ぶれとは違う10人ばかりの男性が溜まっていた。
「始めまして、私が六条橘乃です」
顔を知られてないらしいので、とりあえず名乗る。
「おかしな噂を聞きつけて、私に興味を持ってくださったそうですね。どうも、ありがとうございます」
興味本意とはいえ、わざわざ自分に会いに来てくれたのだから……と、彼女は、一応頭も下げてみた。彼女には、彼らに対する恨みはない。だた、金策や運試しは他所でやってもらいたいと思っているだけだ。だから、怒る必要はない。そう自分に言い聞かせてから、橘乃は求婚者たちに大声で話しかけた。
「うちの父の説明が悪かったせいで、多くの方に勘違いさせてしまったようですが、私は茅蜩館ホテルの血縁者、または、そのホテルに深く関わりのある方としか結婚する意志はありません!」
『ですから、どうぞお帰りください。お願いします』と、橘乃は、男たちに向かって、きっぱりと頭を下げた。
男たちは、案外あっさりと帰っていった。橘乃の言葉が効いたというよりも、それだけ橘乃や茅蜩館ホテルに対する執着がないということだろう。あるいは、心配して追いかけてきた葛笠に睨まれて怖気づいただけかもしれない。気性はいたって穏やかで礼儀正しい人物であるにもかかわらず、葛笠は、見えない右の目を切り裂くように走る傷跡のせいで、ちょっと怖い顔をしただけでも、かなり怖い顔に見えるからだ。
「怖い顔をしてくれて、ありがとう」と礼を言うのも本人に悪いような気がするので、橘乃は、晴れ晴れとした顔で葛笠を振り返ると、「こんなことしたって、明日になったら別の男の人たちが来るだろうけれども、言わないよりはマシよね?」と、謙遜めいたことを言って笑った。
「いえいえ。この場合、まずは橘乃さまの意思を明確にすることが大事だと思いますよ」
葛笠が目を細めて微笑んだ。
「これからは、今の橘乃さまと同じことを言って追い返すようにさせましょう。根気よく繰り返せば、そのうち来なくなりますよ。でも、よろしいんですか?」
「なにが?」
首を傾げる橘乃に、葛笠が、わざとらしいほど残念そうな顔を作ってみせてくれる。
「社長が、せっかく世界中に花婿募集をかけたというのに、ご自分から条件を狭めるようなことを宣言してしまって」
「そうよね。このまま、根気よく待ち続けていれば、いつか、私の理想にピッタリの人が、世界の果てからプロポーズしにきてくれたかもしれないわよね。そう思うと、残念なことをしたわ」
橘乃は、芝居がかった仕草で葛笠に応えると、「でも、こんな騒ぎは、もう沢山」と首を振った。
「私はともかく、妹たちに怖い思いなんかさせたくないもの。それに、今回の騒ぎのおかげで、はっきりわかったことがあるの」
どうせ一緒に生きていくなら同じものを好きだと思える人がいいと、橘乃は言った。
「なんて言ったらいいのかしら、多少の意見の違いはあってもいいんだけど、でも、自分と同じ方向を向いているような人?」
ホテルを盛り上げるために自分と一緒になって頑張れる人。一緒になって笑ったり怒ったりできる人。そういう人と共に生きていきたいと橘乃は思う。
「もちろん、その条件を満たした上で、私の理想の男性像に近い人を選ぶつもりよ」
「ただでさえ高い橘乃さまの理想が、更にグレードアップしたわけですか」
橘乃がどこまで本気で言っているのか判断しかねているのだろう。葛笠は、笑っているとも悩んでいるともつかぬ表情を浮かべた。だが、橘乃は、もちろん、どこまでも本気である。意気揚々と、「だから、これから行ってくるわ」と、葛笠に宣言した。
「え、どこへですか?」
「もちろん。茅蜩館ホテルへ」
警戒感を露にする葛笠に、橘乃はニッコリと微笑んだ。
「自分から、お出かけになるっておっしゃるんですか?!」
「だって、ここで、じっと待っているだけでは、見つけられないでしょう?」
自分と同じように笑ったり怒ったりできる人。一緒になって一生懸命になれる人。そんな人を夫に望むのであれば、ここで待っているよりも、自分のほうから相手のテリトリーである茅蜩館ホテルに見に行ったほうが早い。
「そうだ。せっかくだから、お部屋の予約を取るところから自分でやってみようかしら。数日間泊り込むなら、着替えも用意しなくちゃね。それから……」
葛笠が呆然としている間に、橘乃は、着々と茅蜩館逗留計画を練り上げていった。