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誕生日には歌を  作者: 風花てい(koharu)
10/86

期待はずれ? 1

 

 橘乃が、兄や姉妹たちから、彼らがいうところの『軽率な決断』を咎められていた晩。梅宮要は、客室から下げられたルームサービスのワゴンを押して、新館の廊下を歩いていた。


「要」

 後ろから呼び止められて、足を止める。このホテルの職員の半分は、オーナーの親戚と職員の縁者で構成されているといっても過言ではない。だから、プライベートな場所では名前で呼ばれる者も多いし、名前で呼ばないと紛らわしい場面も多々ある。

 しかしながら、普段から要の名前を呼び慣れている人々は、客に聞かれる恐れがある場所で、そんなふうに彼を呼ばない。「梅宮」、もしくは「梅宮さん」と呼ぶ。ホテルはオフィシャルな空間だから、公私の区別はきっちりとつけるべき。客の耳目がある場所で職員が下の名前で親しげに呼び合うのは馴れ合っているようで見苦しい……というのが、このホテルのオーナー、すなわち彼の祖母でもある恵庭八重の考えだからだ。だから、梅宮も、客室の並ぶ廊下で、八重に対して『おばあさま』とか、総支配人に対して『貴子さん』と呼びかけることはない。よって、こんな場所で無頓着に彼を名前で呼び捨てにするような人物は、要と親しいどころか、彼が苦手とする人物である確率が非常に高い。

(しかも、この声は……)

 要は、このまま振り返らずに、ワゴンを押して全力疾走したい気持ちに駆られた。だが、彼が実行に移す前に、彼に呼びかけた女が行く手を阻むようにワゴンの前にすばやく回りこんでくる。やっぱりというかがっがりというか、要の前に立ちふさがったのは、彼がこの世で一番苦手としている人物 ――午後の集まりで六条源一郎に食って掛かっていた竹里輝美であった。


「知ってたんでしょう?」

 ワゴンを間に挟んで、前置きもせずに輝美が要に詰め寄った。

「八重さんが六条さんにホテルを譲ることも、橘乃さんが次期オーナーになることも、あんただけは、ずっと前から知らされていたんじゃないの?」

「知りませんよ」

 ワゴンを押し戻されまいと足を踏ん張りながら、要は首を振った。八重がオーナーの座を六条氏に譲るつもりでいることを知らされたのは、ほんの3日前である。要は八重の決断に驚いていたし、六条氏の今日の話には、もっと驚いていた。 

「だったら、どうして、あんただけが、あんなに橘乃さんと親しげなのよ?」

「親しくありません。お客さまとして存じ上げているだけです」

「でも、あんたは、オフの時に橘乃さんと仲良く散歩していたそうじゃない?」

 どこから聞きつけたのか、輝美は、要が数日前に橘乃とホテルの周りを散歩していたことを知っているらしかった。

「みんなを出し抜いて、こっそり橘乃さんに近づいた挙句、今日は橘乃さんの意思を尊重するフリまでして彼女への点数を稼ぐなんて、あんたは、やることが、いちいちイヤらしいのよ」

「いやらしいって……」


「竹里さま」

 さすがに黙ってはいられなくなった要が言い返そうとした時、毅然とした声が輝美を呼んだ。


「貴子……」

「こんなところで騒がれては、他のお客へのご迷惑になります。せめて、もう少し声を抑えていただけませんでしょうか?」

 振り返った輝美に話しかけながら、黒いテーラードスーツにホテルの職員であることを示す名前入りのバッチをつけた女性が近づいてくる。輝美にとっては腹違いの姉、要にとっては戸籍の上の母親ということになっているこの女性は、梅宮貴子。茅蜩館ホテル東京総支配人であり、要の上司でもある


「だって、要が……」

「この子を苛めるのは、やめてくれないかしら?」

 一応声を潜めた輝美と貴子が睨み合う。 

「要は、なんにも知らないわよ。海外研修やら他の支店での研修という名の下働きやら、このクソ忙しいのに八重さんが要を半年間も東京から追いやったのは、なんの為だと思っているのよ。 あんたみたいのに邪推されないためじゃない。この子は、3日前に東京に帰ってきて、初めてオーナーから今回のことを打ち明けられたの。知った上で橘乃さんに言い寄る暇なんかなかったわ。橘乃さんとホテル周りを散歩することになったのは、単なる偶然。オフだろうがオンだろうが、六条さまは茅蜩館の大切なお客だから、要は丁寧に接しただけ。そうよね?」

 貴子の問いかけに、要はコクコクとうなずいた。橘乃と散歩した時の要に下心はなかった。それだけは確かだ。


「わかるもんですか! あんたたちは、いつだって、ずるいことばっかりしてるじゃないっ!」

 これ以上貴子と口論しても勝てないと思ったのだろう。輝美は、憎まれ口を叩きながらも、逃げるようにしてエレベーターの昇降口に駆け寄った。 

「でも、これだけは覚えておきなさいね。みなし子のあんたには、このホテルを手に入れる権利もなければ、橘乃さんに求婚する資格もないんですからねっ。でも、誰も橘乃さんの夫に選ばれなくて、このままでは、ホテルが見ず知らずの他人のものになりそうって時だけ、求婚してもいいわ。それまでは、橘乃さんに手を出すんじゃないわよ」

「……。どこまでも勝手なことを」

 エレベーターの扉が閉まりきる直前まで憎まれ口を叩いている輝美を追い立てるように手を振りながら、貴子がげんなりとした表情を浮かべた。


「輝美の言うことなんて、気にすることないわよ」

 輝美がいなくなってしまうと、貴子は打って変わったようにサバサバした顔で要に笑いかけた。

「気にしていませんよ。いつものことですから」

 梅宮は微笑んだ。

「それに、ああいうことを言わずにはいられない輝美さんも、気の毒だなあと思うんですよ。浩平から聞いています。輝美さん、お嫁に行った竹里家では、なにかと肩身が狭いんでしょう?」

「若造が、わかったようなこと言わんでもよろしい。それより、あなたも言われっぱなしになってないで、少しは言い返しなさいよ」

 貴子が要の後頭部を軽く平手打ちにする。 

「はあ、でも……」

「そうね。要が言い返したら、輝美は、その5倍は騒ぐわね。ここで」

「でしょう?」

 貴子と要は、反響が良いくせに遮音性が極めて低い新館の廊下を見回して、苦笑いを浮かべた。


「それはさておき。輝美や他の親戚が何を言おうと、あなたが遠慮する必要はないからね」

「はい?」

「だから! 他の男たちに橘乃さんを奪われないように、あんたも頑張んなさいよって言っているのよ」

 要の反応の悪さに焦れたように、貴子が拳でパコパコと彼の腕を殴る。


「いいこと?」

 要の正面に回った貴子が、びっくりするほど真剣な眼差しで彼を見つめた。

「私が考えるホテルのオーナーの条件は、亡くなった久志兄さんみたいに、このホテルを大切にできる人。あなたなら充分……」

「僕はいいですよ」

 要は、笑顔で貴子をはぐらかした。

「それに、橘乃さんの旦那さまには、僕なんかよりも貴子さんの息子さんたちのほうが相応しいのではないでしょうか。総太郎さんや直純さんは優秀だから、六条さんも娘の婿として納得なさると思うんですよ。ふたりのうちのどちらがオーナーになってくれるならば、僕は喜んで仕えますよ」

「それこそ、馬鹿げているわよ」

 貴子が口をへの字に曲げた。

「あの子たちが、ホテルという財産目当てに、親の私の言うなりになって会ったこともない女を引っ掛けにいったりするわけないじゃない。こんな縁談、話したところで鼻で笑われるだけ。あの子たちの嫁は、あの子たちが自分で探すわよ」

「確かに」

 要は、時々夕食を一緒にする、彼より年上の気の好い青年たちを思い浮かべた。父母に似て非常に有能だけれども鼻っ柱の強いところが一方的に母親そっくりの彼らが、当の母親でさえ納得しきれていないことを命令されたところで、素直に従うとも思えない。いや、絶対に従わないだろう。 


「ほらね。要だって『ありえない』って思うでしょう?」

 笑いを堪えている要を見て、貴子がため息をつく。

「それに、あの子たちはホテル勤めじゃないから、ホテルを知らないもの。息子であろうとなかろうと、そんな奴らに茅蜩館を託したくない。だから、あなたが頑張りなさい」

 要は答えなかった。輝美に釘を刺されるまでもなく、要は、誰かと争うことまでしてホテルの所有権を主張するつもりはない。ここにいさせてもらえるだけで、彼としては充分なのだ。これ以上を望むのは、彼の我がままでしかないだろう。


 六条氏は、独身男性であれば、誰でも橘乃嬢に求婚してもよいと言ってくれている。つまり、彼は、これまでのように八重の息子の血を引くものがホテルを継ぐという前提を廃した上で、茅蜩館関係者の男子の総てからオーナーに相応しい人物を選ぼうと、提案してくれているわけである。

 浩平や隆文はもちろん、茅蜩館の血縁者の中にも、前途有望で有能で性格も良い若者が大勢いる。橘乃が気に入る男性も、きっと見つかるに違いない。その男が橘乃の夫として事実上の茅蜩館のオーナーになり、六条氏が娘の義父として彼を支えてくれるなら、多少の不満があったとしても、誰も文句を言えまい。

 長年続いていたホテルの相続争いは、終わりになるだろう。そうしたら、無理やり仕立てられた跡取り候補としての要の役目も終わる。針のむしろに座らされているような立場から、ようやく解放される。それなのに、わざわざ自分から婿選び競争に参戦するなんて、冗談ではない。というよりも、正直面倒くさい。

(……なんてことは、貴子さんには言えないよなあ)

 貴子には、引き取ってもらった恩義がある。


(それに、あの子は大丈夫。あの子なら、必ず幸せになれるって)

 要は、仔犬のように人懐っこい橘乃の朗らかな笑顔を思い浮かべた。

 太陽が明るいほど、落とす影が濃く見えるのと同じ。ホテルへの野心しかない男がどんなに上手に立ち回ったところで、素直で気の好い橘乃の前では、彼らの下心と野心は浅ましく透けて見えるばかりだろう。そんな男を、彼女の父親や姉妹たちが見逃すはずがない。 

 特に六条家の長女……旧中村財閥の本家に嫁いだ紫乃は、そういったことに非常に敏い。『自分は病気がちで外に出られないので代わりに紫乃に取引相手を見定めてもらうことがある』のだと、要は、彼女の夫から聞かされたことがある。日本を代表する商社のひとつである中村物産を実質的に動かしている人物が、紫乃の人物鑑定眼を頼りにしているほどなのだ。彼女ならば、妹の夫として相応しい人物を、正しく見分けてくれるに違いない。

 紫乃を始めとした家族のチェックが入る限り、橘乃が下手な男に引っかかるとも思えない。それに、仮に引っかかったとしても、橘乃ならば、浅ましい男の下心さえ愛情に変えてしまうのではないかと、要は思う。

 

(いつ見ても楽しそうだし、いつも笑顔だし)

 そんな彼女の前で悪人であり続けることは、きっと難しい。どんな悪人であろうと、彼女の笑顔にあてられて、改心させられてしまうに違いない。ともあれ、誰が夫になったとしても、要はオーナーとなった橘乃を、このホテルの一職員として支えていく所存である。

(そう。僕は、ずっと彼女の傍で……って、なにを考えているんだ、自分?)

 どこか甘美な想いに囚われかけた自分を、要は慌てて戒めた。

「要?」    

「いいえ、なんでもありません。好い人がオーナーになってくれるといいですね」

 彼は誤魔化すように笑うと、貴子から逃げるようにして仕事に戻った。



 ところが……である。

 傍観者を決め込んだ要の予想を大きく裏切って、翌日の橘乃は、早くも自分の決断に自信が持てなくなっていた。 



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