序 4の秘密
この国において、『4』という数字は、なにかにつけて忌避されがちである。
『よん』あるいは『よ』と読めば、『良い』『善い』『佳い』『好い』『喜ぶ』……と、実に縁起の好い言葉を連想させる数字でもあるというのに、わざわざ『し』と読み、『死』という言葉と結びつけることまでして嫌う。
ホテルなど、客相手の商売では特にその傾向が強い。
まるで箱入り娘かなにかのように、そこで働く人々は、『4』を客の目に触れさせまいと躍起になる。
その結果、203号室の隣には205号室が、なに食わぬ顔で並ぶことになり、3階の上には、なに食わぬ顔で5階が……というのは、さすがに無理があるので、4階はしばしば客室ではなく倉庫や従業員の為のスペースに利用されることになる。
梅宮要が働いている茅蜩館ホテルも、この例外ではない。
むしろ老舗であるがゆえに、この手の迷信を積極的かつ頑固に守っている。ゆえに、このホテルの4階には、客の目に触れたくないもの……すなわち、従業員の休憩室や季節はずれのクリスマスツリーや桜の造花、あるいはオーナーの友人がホテルに飾ってほしいと言っては持ってくる肖像画とも抽象画ともわからないものなどが、隠すべき『4』という数字と一緒にギュウギュウ詰めに押し込まれている。しかも、このホテルの場合、ホテルのオーナーの住まいまでもが4階に押し込まれているというのであるから徹底している。
ちなみに、茅蜩館の現在のオーナーは、恵庭八重という老女である。
八重は、3人の孫息子と暮らしている。そのうちのひとりが、要だ。
数年前までの八重は、ちょくちょく1階のロビーに降りてきては、常連客に挨拶したり現場のスタッフに指示を飛ばしたりしていたものだが、最近では足腰も弱ってきたこともあって、降りてくるのは3日に一度程度となっている。
しかしながら、活動量が激減したからといって八重の目を盗んで勝手ができるかといえば、そんなこともない。彼女の目は、今でもホテルの至るところにまで行き届いている。そして、彼女の目が行き届いていると思えるからこそ、梅宮を始めとした従業員は安心して働くことができるのである。
だが、なんでもお見通しの八重は、頼りになる反面、時にうっとうしい……というよりも、おっかない存在でもあった。特に、要を始めとした孫息子たちは、彼女に全く頭があがらない。
だから、年の暮れも押し迫ったある日に八重から呼び出された要は、嫌な予感がした。なにせ、朝食の時に顔を合わせたにもかかわらず、わざわざ個別に呼び出されたのだ。これから彼が頂戴することになるのは、お小言であるに違いない。
できることなら行きたくないと思った要は、目の前の忙しさにかこつけて、なんとか行かずにすまそうと足掻いてみた。だが、このホテルのスタッフは、八重からの呼び出しに応じることを、客の相手をすることの次に重要な仕事だと考えているフシがある。
結局、彼は追われるようにして、非常階段から本館4階へ向かうことになった。
***
真ん中に掘りごたつがある八重の小上がりの八畳間は、このホテルを定宿とする作家たちがこぞって賛美する夕日で金色に染まっていた。
「仕事中に呼び出して、すまなかったね。要」
入ってくる物音を聞きつけたのだろう。要用の湯のみに茶を注ぎながら、八重が笑顔で彼を迎えた。隠居を決め込んでいるとはいえ、いつ表に呼び出されるかわからない……というよりも常連客によってはわりと気軽にここまで入ってきてしまうので、八重はいつも身奇麗にしている。
客よりも目立たないことを身上とし、歴史のあるホテルとはいえ偉ぶることはしたくない彼女が好んで着るのは、遠目には無地にも見える江戸小紋。今日の柄は、来たる新年を意識してか、それとも忙しい年末年始を無事に乗り切りたいという思いを込めてなのか、南天模様である。
「いいえ。 ちょうど暇でしたから」
要は靴を脱ぐと、隣の部屋よりも一段高くなっている彼女の居間に上がり、掘りごたつに足を突っ込んだ。
「嘘が下手だねえ」
彼の前にミカンを2つ転がしながら、八重が笑う。
「仕事中の要が暇しているところなんて、私は見たことがないよ。それどころか、誰も彼もが、何かにつけて、あんたをアテにするから困ったもんだ。この間だってそうだろう? 『仏滅でもなんでもいいから』って、六条さまから急にお願いされた結婚披露宴。あれも、あんたが、なにからなにまで仕切らされたんだって?」
「お話だけは先にいただいておりましたけど、急に決まった日程ですし、予約を受けたのも僕ですから」
皮を剥き始めたみかんに話しかけるようにうつむいたまま、要はボソボソと言い訳した。
「そうだね。今は宴会部門の支配人である要が予約を受けることは、あるかもしれないね」
八重が一応認める。「だけど、予約の電話を最初に受けたのは、営業担当の浩平だったんだろう?」
彼女が、もう一人の孫の名を挙げた。「あの子だって、あんたと同じように、事前に話を聞いていたんじゃないのかい?」
「はあ、まあ」
ミカンについた白い筋を取りながら、要は曖昧に返事をした。八重の言うとおり、「どうしても明日にしてほしい」と言い張る六条氏からの要請を突っぱねきれずに要に受話器を押しつけたのは浩平だった。次に受話器を押し付ける相手がいなかった要は、彼の代わりに交渉し、日程を1日ずらしてもらうことを六条氏に承知してもらった。
「ついでに、その式の前々日から泊まり込むことになった花嫁さんの世話をするのは、要じゃなくて客室係、もしくは、あのエリアの客室責任者の隆文、もしくは客室部門の支配人じゃないかと思うんだけどねぇ」
八重が3人目の孫の名を挙げる。
「あれは…… 年末で、人繰りがつかなかったというか……」
取るべき筋がほどんど残っていないミカンを意味もなくいじりながら、要の声が、ますます小さくなった。
「嘘つくんじゃありませんよ」
要の考えなど全てお見通しだと言わんばかりに、八重が笑う。
「花嫁さんが、とんでもなくワガママな方だったんだってね? お姫さま気取りで、逆らえない相手に難癖つけることで自分が偉くなったつもりでいるような子だったって、きいたよ。それで、客室係のみんなに持て余された彼女に困り果てた隆文が、支配人の杉村さんに相談に行く前に、要に泣きついたんだろ?」
客室係の女性ふたりから聞き出したのだと、八重が打ち明けた。
ちなみにその客室係2名は、花嫁の担当について30分も立たないうちに、彼女によってクビにされた。その後の2時間で隆文もクビになった。片っ端からクビにされてしまったので、『人繰りがつかなくなった』という要の言い訳は、あながち嘘でもない。幸いなことに、わがまま花嫁は、要のことを気に入ってくれたようだった。だから、仕方なく、彼が最後の最後まで彼女のわがままに付き合うハメになっただけだ。
「そりゃあ、あんたの場合、大抵のことは自分でやっちまったほうが早いし、うちは小さいホテルだから、忙しい人には手を貸してやるっていうのが当たり前だけどね。だからって、うちのホテルで一番忙しいあんたが、他の人に手を貸しまくって、どうすんだい? それじゃあ、仕事が回らなくなるだろう? なんでも自分で引き受けた挙句、結婚式から逃げ出した花嫁がメインロビーを全力疾走することを阻止できないようじゃあ、あんたの仕事としては片手落ちもいいところだ」
「……。すみません」
『やっぱり、そのことを怒っていたのか』と内心で肩を落としながら、要は謝った。
その失態については、彼は心から悔やんでいる。たまたまロビーに居合わせた茅蜩館の元スタッフが早々に花嫁を取り押さえてくれたから事なきを得たが、まかり間違えば、とんでもない大騒ぎに発展して、ホテルの評判を著しく落としかねなかった。
「本当に、すみませんでした。今回のことは、私の責任です。どのような処分でも受けます」
こたつの縁に頭をくっつけるようにして、要は潔く頭を下げた。なにも言い訳しようとしない孫に呆れたのか、八重が「本当に、あんたって子は」と焦れたようにため息をついた。
「生真面目っていうか、融通が利かないっていうか、面白みがないっていうか…… いいじゃないか。あの花嫁さんには良い薬だったよ」
「お祖母さま?」
「昨日。六条さんが、お詫びに来てくださいましたよ。事情も話してくれました」
驚いて顔を上げた要に、口調を改めた八重が優しく微笑んだ。
「六条さんの娘さんの元旦那さんと彼の浮気相手だった花嫁を懲らしめるために、六条さんが企画した披露宴だったんだってね? 大衆の面前で赤っ恥かかせることには賛成しかねるけど、でも、元夫の喜多嶋さんと喜多嶋グループの今後とか? 次から次へと男を泣かしてきた浮気女への報復とか? もろもろ考えると、それも仕方がないことだと思う。それ以前に、うちが『良いの』『悪いの』と口出しすべき問題じゃない。うちは、受けた仕事を責任をもって心を込めてやればいいんだ。それに、どういう式になるかまでは、あんたは聞かされてなかったわけだから、普通は花嫁が逃げるなんて思いつかないよ」
『それぐらいの言い訳ぐらいしなさいな』と笑いながら、八重が、収まりの悪い要のくせっ髪をかき回す。
「でも、僕だって、おかしいとは思ったから」
要は、正直に打ち明けた。いくら六条氏が酔狂でも、愛娘を裏切った男の再婚のための式を進んで挙げてやるわけがないと、彼だって不思議に思ったのだ。
それに、彼は、あのわがまま花嫁が結婚詐欺師まがいの女であることも、事前に六条氏の息子や秘書から聞かされていた(つまり、あの結婚式は、花嫁の正体を暴いて、花婿に浮気したことを心の底から後悔させてやろう……という企画でもあったのだ)。
それでも、要は、事前に何も手を打たなかった。余分な仕事を引き受けたせいで目が回るほど忙しかったし、たいしたことは起こるまいと、どこかで高を括っていた。心配性の隆文が『あの六条さんが何か企んでいる以上、絶対にとんでもないことが起こるに違いない』と結婚式の前日から心配していたというのに、楽天的な浩平が『血の雨が降るかな? それとも……』と、楽しげにロクでもない想像をめぐらせていたのに。それでも、要は、彼らの心配と期待を『考えすぎだ』の一言で片付けてしまった。
「あの時、ふたりの言うことを真剣に受け止めていれば……」
「こらこら。あの子たちの言うことをいちいち真に受けてたら、それこそおかしくなっちまうよ」
八重が笑う。
「だから、その件については不問にします。 ……と言いたいところだけど。このままじゃ、いけないと思うんだよ。だから、はい、これ」
「トラベラーズチェック?」
目の前に押し出された袱紗を開いた要は、中から出てきたものの意図を測りかねて、眉を寄せた。
「あんたが傍にいる限り、浩平と隆文が、いつまでたっても独り立ちできないんじゃないかと思ってね。だから、荒療治をしようと思うんだ」
内緒話をするように八重が要にささやきかける。「休暇も兼ねて、3ヶ月ばかり海外の有名無名のホテルを泊まり歩いておいで。帝都ホテルの総支配人にお願いして紹介状も書いてもらったから、たくさん勉強させてもらうといいよ。それから、帰国後の3ヶ月間は、横浜と鎌倉の総支配人の下について、仕事のやり方を勉強させてもらいなさい。いいね?」
「わかりました。でも…… 大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。イザとなったら、私もいるから」
不安そうな要に八重が胸を叩いて笑う。「私が元気なうちに大丈夫にしておかないとね。そう考えると、今しかないんだよ。あんたにとっても好い機会だ。将来的に茅蜩館がどうあるべきか、総支配人として人を使うっていうのはどういうことかを、半年かけて、じっくり勉強し直しておいで」
こうして、思いがけず6ヶ月間の研修期間をもらった要は、年末年始の忙しさが落ち着くのを待って、まずはイギリスへ飛び立った。
この時に経験したことは、要にとって生涯の宝物となった。
だが、この時に自分が東京から離れたことは、はたして良いことだったのだろうか、もしかしたら自分は祖母によって厄介払いされただけだったのではないだろうか……と、彼は、後々まで悩むことになる。
しかしながら、どれほど悩んだところで、後の祭り。
彼が留守にしていた半年の間に、彼の全く知らないところで、とある計画が着々と実現に向けて動きだそうとしていたのである。