第8話:迷子
夏のバカンスシーズン、それも建国祭イベント中だけあって、街は観光客で盛大にごったがえしている。民主化して15年目という節目の年であることも、盛り上がりに拍車をかけているようだ。
あらゆる壁や街灯が、色とりどりの花とランタンで飾りつけられている。赤、青、黄、ピンク、オレンジ、紫……。原色の南国の花は、むせかえるように濃厚な匂いを放っている。ストリートには串焼き、麺類、餅、フルーツ、かき氷などの食べ物屋台や、伝統工芸の玩具、Tシャツやサンダル、アジアのアイドルグッズなどの屋台が切れ目なく並び、千手観音のようにほうぼうから客引きの手が伸びている。
そのあいだを縫うように、ジェイルは速足で歩く。
チセを連れてやって来たはいいが、これほどの人出だとは。屋台に興味がなく、花やランタンを愛でる趣味もないジェイルは、すでに来たことを後悔し始めている。
「メインストリートはもういいだろ。はやく、建物の中にでも――」
横を見ると、チセがいない。ジェイルと真反対に、屋台や出しものに興味津々なチセは、さっきからちょくちょく姿を消しては戻ってきていた。またかとジェイルは心の中で舌打ちして、人ごみに目を凝らした。
「こっちです」
シャツの裾を引っ張られる。振り返ると、怒りの表情の木彫りのお面が目の前にあった。
「わっ」
「へへ、驚きましたー?」
お面の向こう側から、チセのしてやったり顔が覗く。ジェイルはげんなりした。
「遊ぶな。どうしたんだそれ」
「魔除けの効力があるって聞いて。お土産に買いましたー」
木彫りの面は、ヴェイラの伝統的な民芸品のひとつである。だが、若い娘のお土産に向いているとはとても見えない。それをつけたり外したりしてきゃっきゃと楽しんでいるチセは、かなり変わっていると思う。
「あっ、あの屋台かわいい」
チセが指差した。麦わら帽をかぶった主人が番をする屋台には、サイコロ状にカットされたフルーツが串に刺さって、ずらりと並んでいる。違う色のフルーツを組み合わせていて、目に鮮やかだ。
声をかける間もなく、チセは屋台に走って行く。付き合うのもバカバカしく、ジェイルはさっさと歩き始めた。
なんで、あんなに楽しそうなんだあいつは。
人の波をかき分けてずんずん歩きながら、ジェイルは思った。祭なんて、ただ暑くてうるさいだけではないか。冷房のきいた部屋で本でも読んでいたほうが、よほど快適だと思う。祭の楽しみ方などジェイルは知らない。
前方から、やんちゃそうな少年たちが広がって歩いてきた。混雑しているのに迷惑な奴らだとジェイルは思う。案の定、すれ違いざまに、端のひとりと肩がぶつかった。
「いてっ」
少年が大きな声をあげて振り返った。他の少年たちも顔を向ける。
しかし、無言で振り返ったジェイルを直視するやいなや、彼らは「やべ」という表情を浮かべ、足早に去って行った。
「なんだよ……」
近頃の若者が失礼なのは万国共通なのだろうか。そう思うジェイルに、からかうようなチセの声が飛んでくる。
「今の子たち、超怖がってましたね!」
いつの間にかまた傍に戻って来ていたチセは、右手にフルーツ串、左手にタピオカジュースを握っていた。見るたびに違うものを持っている娘だ。
「ぶつかってきたのはあっちだ」
「だって、カタギには見えないですよ、その格好」
赤い柄シャツにチノパンツ、長い髪に不精髭。そして、変装用のサングラス。
「失礼な。俺は善良な市民だ」
「うそだ~。テキ屋の兄さんですよう」
テキ屋が何を差すのかわからなかったが、どうせロクな意味ではないだろうとジェイルは思った。帰ったらグーグルで検索をかけなければ。
広場に出ると、地図やガイドブックを手にした一団が、ぞろぞろとバスに乗り込んでいくのが見えた。服装を見る限り、おそらく地方から首都にやって来たツアーだろう。冷房が壊れたようなバスに詰め込まれて、彼らは田舎から首都にやってくる。世間は夏休みだ。
「俺は店でコーヒーでも飲んでるから、あとは勝手に――」
またチセがいない。
わざわざ探すのも面倒なので、座って待つことにする。ジェイルは近くの屋台でペットボトルの水を買うと、木陰のベンチに腰掛けた。
ペットボトルで額を冷やす。冷たい水滴が肌の上を流れて気持ちがいい。
そのまま、しばらくそうしていた。家族連れ、カップル、自転車、外国人観光客。たくさんの人たちが、ジェイルの前を通り過ぎて行く。皆、夏らしい表情を浮かべている。
「平和だな」
ジェイルは独り言ちた。
政治がどうとか、経済がどうとか、国としての問題は山積みだが、街の人たちはそれらからずっと離れたところで暮らしている。彼らにとっては、目の前にあることのほうが余程大切なのだろう。それはある意味で、健全な国の在り方だとジェイルは思う。
強い風が吹いて、サングラス越しに世界が揺れる。
目の端にチセの姿が映った。ジェイルは深く沈めていた身体を起こす。
チセは、また右手に何かを持っている。いや、引っ張っているといったほうが正しいか。土産物として持ち運ぶには、大きすぎるような――。
「どうしたんだよそれは!?」
思わずジェイルは悲鳴をあげた。
チセが連れてきたもの、それは泣いている幼い男の子だった。
「……名前は?」
男の子はぐずぐずと洟をすすってばかりで、ジェイルの質問に答えようとしない。
「どこから来た? 親は? 年は?」
怒られているように感じたのか、男の子がワッと泣きだす。しゃがんだチセが、すかさず「だいじょうぶだよー」と頭をなでた。縮こまるように、男の子はチセにしがみついた。
「もー、そんな喋り方じゃ尋問ですよ。逃げた舎弟を追い詰めるヤクザじゃないんだから、もっとやさしく聞いてあげてください」
「いきなり迷子のガキを連れて来られたって、どうしていいかわかんねえよ」
チセがみつけたときには、男の子はストリートの隅でひとりで泣いていたらしい。周りにいた人を見回しても、皆知らないという顔をした。チセが声をかけると抱きついてきたので、一緒に親を探しながらここまで連れてきたのだという。
「迷子センターとかありますかね? 日本ではよくあるんですけど」
「少なくともこの周辺にはねえな。デパートならともかく」
子どもと同じ目線の高さから、チセがジェイルを見上げる。
「じゃ、警察?」
「ダメだ!!」
ジェイルは即答した。ただでさえこの風貌なのだ。サングラスをかけたまま警察に行くのは厳しい。というより、職務質問されてもおかしくない。名前や素顔を見られるのは絶対に避けたい。
「それか、俺は近くで待ってるから、お前が連れて行け」
「私、ヴェイラ語喋れないのに?」
この案も却下だ。見ようによっては、チセも迷子だと思われかねない。パスポートがないことがばれると、面倒が起きる可能性もある。
「どーすんだよ……」
かといって、置き去りにしていくのはさすがに気が引ける。ジェイルはため息をついた。
縮こまったままたの男の子をやさしくなでながら、チセが笑顔で訊いた。
「いっぱい泣いておなかすいたよね。何か食べる? 何が好き?」
当然、日本語が通じるわけはないのだが、男の子はチセの目をじっとのぞきこんだ。チセは口の前で何かをつまんだ手の形をつくり、大きく顎を動かして「ハポー(美味しい)!」と言ってみせた。
どうやら、食べるジェスチャーをしているらしい。
「チャナム」
男の子がぽつりとつぶやいたのを、ジェイルは聞き逃さなかった。チャナムとは、南部地方の伝統的なお菓子の名前だ。
ジェイルは男の子のそばにしゃがみ込んで、サングラスを外して尋ねた。
「グナン? ミコック? フーエン?」
ヴェイラ南部の都市名を思いつくままに挙げる。フーエンと言ったとき、男の子がうなずいた。
「お父さんやお母さんと、一緒に旅行に来たんだな?」
「うん」
知っている単語が出てきたことに安心したのか、一気に反応がよくなった。ジェイルの問いに、素直に答える。
「バスでか?」
「うん」
「色は何色だった?」
「あおとしろ」
ジェイルは思い出した。さっき見たバスは、まさに青と白の車体だった。あのバスに親が乗っていたのならば、出発してからまださほど時間は経っていない。速攻で追いかければ、間に合うかもしれない。
「次の行き先がわかるか?」
男の子は返事をするかわりに、ジェイルの向こう側を指差した。
その先にあるものを見て、チセがつぶやく。
「あ、宮殿」
自分自身から血の気が引く音を、ジェイルは聞いた。




