第7話:ねじまき少女
「建国祭イベント中の土日は、広場に花市がずらーって並んで、すっごい綺麗なんですよねー」
よく晴れた日曜の午前にふさわしく、ふんふんと鼻歌をうたいながら、チセがガイドブックのページをめくっている。
「夜はランタンで街中がライトアップされるんですよね。闇の中に浮かぶランタンってめちゃくちゃロマンチック。前、『世界ふしぎ発見』で放送されてたんですよ! ほかにも、伝統芸能のダンスが見られたりとか、屋台もいっぱい出るんですよね」
チセがガイドブックを、ぐいとジェイルの目の前に突き出した。
「だから行きましょうよう、お祭り」
「イ・ヤ・だ」
ハエを除けるように、ジェイルは露骨に眉をひそめて手で振り払う。しかしチセは意に介さず、楽しそうにのぞきこんできた。
「せっかくヴェイラに来たんだから、行かなきゃ損じゃないですか」
「じゃあ、ひとりで行け!」
「お祭りは大勢で行くほうが楽しいものですよ。それに、土曜まで引きこもってるとメタボになっちゃいますよー」
起きてから、ずっとこの繰り返しだ。迫るチセと、阻むジェイル。頑として首を縦に振るつもりはないが、持久戦に持ち込まれるのは避けたほうが賢明なことはわかっている。
「休みの使い方は自分で決める。祭でもどこでも勝手に行って来い」
「わっ、このアイス屋さん美味しそう。ミントマンゴー味ってどんな感じですかね? しかも割引券ついてる~」
ガイドブックの写真を指差すチセに、ジェイルは言い返す気力も失う。
パスポートを盗まれたチセを、やむを得ず家にあげたのが昨日の夕方。週が明ければ大使館で再発行の手続きができる。不毛なやり取りも、この土日だけの辛抱だと思えば……。
ピンポンパン、と間抜けな音が部屋に響いた。チセのiPhoneが振動しながら鳴っている。着信音までふざけた女だ。
「あ、もしもし?」
ジェイルがいるのも気にせず、その場でチセは喋り始めた。この隙に本を持って奥のベッドルームに閉じこもってしまおうかと思ったが、部屋にはチセの荷物があるので無駄だと思いなおし、とりあえずパソコンのキーボードを指でいじる。
「うん。うん。だからぁ……それは大丈夫」
パソコンの画面を見ていても、チセの電話がなんとなく気になってしまう。「ギリシャでゼネスト」というGoogleニュースを見ているジェイルの耳を、チセの声がかすめていく。相手は、どうやら男の声のようだ。彼氏か? と想像しかけて、いやいやと心の中で首を振った。つまらないことを考えるのはよそう。
「わかった。じゃあ、ちょっと待って」
チセはそう言ったかと思うと、いきなりジェイルのほうを振り返った。
「すみません、代わってもらえますか」
「え、おい!?」
「適当に喋ってもらえれば大丈夫なので」
投げるようにiPhoneを手渡され、つい両手で受け取ってしまう。
てのひらの機械のディスプレイには、「通話中」の文字が光っている。抗議しようとチセを見ると、すでにガイドブックを持って窓際に移動していた。
仕方なくiPhoneを耳にあてると、弱弱しい男性の声が飛び込んできた。
「ハ、ハロー……?」
今どき珍しいほどのカタコトの発音だった。もう一度繰り返される。
「もしもし……ハロー?」
「日本語、喋れます」
ジェイルが口を開くと、回線の向こうで息を呑んだ音が聞こえた。
「ああ、よかった。お世話になっております。あの子、いきなりいなくなったと思ったら、事後報告で『ヴェイラにいる』なんてメールしてきて。いつもそうなんですよ。たいがいのことでは驚かなくなりましたけど、心臓に悪くて。我が娘ながら、何を考えているのやらさっぱり」
「娘!?」
思わず聞き返した。
「失礼、申し遅れました。帯沢と申します。千星の父でございます。ええと、ジェイルさん……でよろしかったでしょうか。大学の先生の研究仲間と伺っておりますが。ゼミの研修旅行で、しばらくお世話になっていると先ほど聞きまして。もう本当に、何も言わずに出かけて行ったものですから。そちらでもご迷惑をかけていないといいのですが」
「いえ、まあ……」
何も言われていないのは、ジェイルも同じだ。チセのほうを見るが、こちらの会話など聞こえないように、鼻歌を歌いながらガイドブックをめくっている。嘘の口裏を合わせることもなく、平気で実の親と会話させるなんて。ゼミの研修旅行だと? まったく、実にふざけた女だ。
「娘さんはいつも、こう、積極的な……性格で?」
嫌味っぽく聞こえないように気をつけながらも、チセへの最大限のあてつけのつもりで、ジェイルは慇懃に日本語を発音した。
「まったく、突飛な行動をする娘でして。ご迷惑をおかけしていませんか?」
人の好さそうな父親は、恐縮したように言った。
「母親がいないせいか、やんちゃに育ってしまいました」
「え?」
ジェイルは素で聞き返していた。
「父ひとり子ひとりなのに、仕事が忙しくて構ってやれなくて。ひとりで何でもやってしまう子だったので、私も甘えていた部分があるんですけどね」
父親はしみじみと語るが、ジェイルはこの会話がチセに聞こえないかが気になって仕方なかった。手で受話口を覆って、声をひそめる。
「失礼ですが、奥様は――」
「あの子が6歳のとき、病気で亡くなりました。子宮がんで、手の施しようのないところまで進行していたんです。妻は我慢強い性格だったので、ギリギリまで痛みを訴えなかったのが仇になりました。気づいたときには、もうどうにもならなくて……」
こめかみから一筋の汗が流れるのを感じた。密かにチセを見やる。が、こちらの会話に気づいた様子もなく、部屋の隅でくつろいでいる。
ひとしきり話したあと、すみません話しすぎましたと、父親は謝った。
「日本語が達者な方でよかった。最初聞いたときは驚きましたが……。どうぞ、娘をよろしくお願いいたします」
「え? あ、はい。もちろん」
ぼうっとしていたせいで、勢いで返事をしていた。後悔したときはすでに遅く、電話は切れていた。
「電話、終わりました?」
対角線の向こう側にいるチセが顔を上げた。
「お父さん、変なこと言ってませんでしたか? すごい心配性なんですよ」
「ひとり娘だって……。そりゃ、心配もするだろう」
呑気な笑みを浮かべているチセに、ジェイルは言った。
「大事にしろよ」
きょとんとしたのち、「へへっ」と、チセは照れた。
iPhoneを机に置いて、ジェイルはしばらくパソコンの画面を眺めた。それから水を飲み、再びパソコンを操作しようとしたが、たまっている仕事は特になかった。
チセは黙って本を読んでいる。ジェイルの本棚から勝手に取り出したらしい、パオロ・バチガルピの『ねじまき少女』。近未来のタイを舞台にしたSF作品である。タイトルは、主人公が出会う日本人少女型アンドロイドのことだ。
ジェイルの沈黙は10分ともたなかった。
「外、出るか」
チセがきょとんとした顔で見上げる。
「祭。行きたいんだろ」
情が移ったとか、気が変わったとか、そういうんじゃない。ジェイルは自分に言い聞かせる。ただ、余計な情報を聞かされて、部屋にこもっているのが鬱陶しくなっただけだ。
チセの笑顔を見る前に、ジェイルは大股で玄関へ向かった。




