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第6話:スコールの後で

 ずるずるずる、と麺をすする音が部屋に響く。ジェイルは翻訳を打ちこむ手を止め、うんざりした表情でパソコンの向こう側の少女を見た。

「……気が散る」

 唇と麺を垂直に交差させた状態で、チセが目だけを動かした。

「ふぁって、めんふぁ~」

「飲みこんでから言え」

 つややかな米麺が、つるるっ!と威勢よく飲みこまれた。

「だって、麺を食べてて音が出るのはしょうがないじゃないですかぁ。そもそも、自分で食べろって言ったのそっちだし」

 悪びれないチセの目線を払うように、ジェイルは手元のペットボトルに口をつけた。

 確かに、2人前の屋台麺を自分で食べろと言ったのはジェイルだ。だがトッピングを大量に追加した大盛りを買ってきたとは聞いていない。

「一気に食べられないから、片方は朝ごはんにして、もう片方は昼ごはんにします!」

 勝手にチセに宣言され、嫌がると「食べ物を粗末にしていいんですか?」と詰められた。反論できずに放っておいたら、向き合ってトーストと汁麺の朝食を取るという奇妙な状況になった。その後、仕事を始めたジェイルをほったらかして、散歩に出たり部屋の文献を読んだりと、チセに好き勝手されているうちに、すでに時刻は昼である。

「お腹空かないんですか? 半分こします?」

「断わる」

「美味しいのにー。米の麺って、冷めても美味しいですねえ。ライムの味が効いたそうめんって感じ。刻みネギ乗っけてもいいかも」

 つっけんどんに扱っているのに、チセはまったく気にする様子がない。いつ取材の話を持ち出してくるのかと思っていたが、その気配もない。

 いちいち反応する自分がバカらしくなって、ジェイルはパソコンの画面に視線を戻す。今日手掛けている翻訳は、アメリカの企業に送る、ヴェイラの政治経済情勢に関するレポートだった。

“ヴェイラ国民党のドルーダ首相が、政権運営の危機に瀕している”

 淡々とキーを打つ。

“昨年、経済政策の失敗の責任を追及されて退陣した前首相に代わって、新たに首相となったばかりだが、増税案を打ち出したことに野党が反発している。首相の親戚が汚職に関与していたという疑いが報じられたこともあり、野党は追及していく見込み。国民党側は徹底抗戦の構えだが、支持率が低下を続ければ、議会の解散もあり得る。そうなればこの5年間で4回目の解散となり、政治的混乱は避けられない。”

 格差の拡大や債務問題など、問題は山積みだというのに、政治家たちは政局に終始している。ヴェイラはASEANの次期議長国になることが決まっている。民主化してから一番の国際的大役になるだけに、どの政党も自分たちの手柄にしたがっているのだ。

 憂慮すべき事態だと思う。だが怒りを感じるよりも、どこか他人事のように感じてしまっていた。

“これを受け、陸軍のロチャ元将軍がヴェイラ国民党を訪問。遺憾の意を表明した。”

 ロチャ元将軍が、まだしゃしゃり出てくるのか。ジェイルは心の中で舌打ちする。彼は軍部の大物で、民主化に最後まで反対したひとりだ。民主化後も、軍部・右派を中心に一定の影響力を持ち続けている。もう80歳を過ぎているだろうに、元気なジジイだ。

「なーんか、ASEAN利権に目がくらんでるって感じですねえ」

 いつの間にかチセが後ろに立って、画面を覗き込んでいた。ジェイルは思わず振り返る。

「国内の問題から目をそらすために、外交に力を入れるってのは、政治の常套手段ではありますけど」

 ジェイルの肩越しに画面を見ながら、チセが腕組みをする。

「……ヴェイラにとって、次のASEANはどういう意義を持つと思う?」

「2013年に中国の国家主席が交代になりますよね。その重要なタイミングに、議長国として対中国の姿勢を打ち出すことができれば、2015年のASEAN共同体発足に際して大きな発言力を得ることができるのかなぁ、と」

 さらりと答えたチセに、ジェイルは内心驚いていた。ヴェイラを取り巻く国際情勢をよく理解している。しかも、ビジネス用の英訳を正確に読んでいる。一応、タカシのゼミで学んでいるだけのことはあるらしい。

「あ、ここ、スペル間違ってます。aじゃなくてeですよ」

 ジェイルの胸の内を知らず、チセは無邪気に画面を指差した。

「……今、直そうと思ってたんだ。あっち行ってろ」

「はーい」

 チセは素直にリクライニングチェアのほうへ歩いて行った。チセに指摘されたのが恥ずかしくて、猛スピードで誤字を直した。キリのいいところまでまとめ、上書き保存をクリックする。横目でチセの姿を探した。

 チセはリクライニングチェアの端に座り、窓からの景色を眺めていた。クーラーをかけているのに、勝手に窓を少し開けている。隙間から入ってくる風を、目を細めて受けていた。カーテンがふわりと揺れた。

 時が止まったように穏やかな午後だった。ジェイルの胸に、はるか昔の記憶がよみがえる。王宮にいた頃、午後の勉強が終わったあとにテラスのある部屋でおやつを食べるのが日課だった。白い前掛けをつけたメイドたちがサーブしてくれる、南国の色鮮やかなフルーツや焼き菓子に、砂糖を入れたジャスミンティー。姉と妹のおしゃべりを横で聞いているうちに、いつの間にか眠くなることがよくあった。20年以上前、10歳にも満たぬ頃の話だ。

 あんな日々もあったのだ、自分にも。

 窓の外で派手なクラクションが鳴り、我に返る。表の車道の音が追想を掻き消した。

「――食い終わったなら、荷物をまとめて、出ろ」

「ちぇ」

 チセはジェイルを見上げて、いたずらが見つかったような笑顔を見せた。そんな顔をされたら、子ども時代の思い出の続きにいるような気がしてしまう。

「じゃ、また来ます」

「来るな」

「また来ます」

 掴みどころのない笑顔を残して、チセは去って行った。


 チセが去ると、部屋は急に静まり返った。

 キーを叩く音が、やけに大きく響いた。翻訳の仕事を再開するも、なぜか今ひとつ捗らない。あまり寝ていないせいだ、とジェイルは諦め、いつもよりはやく仕事じまいした。きちんとリセットして、明日から元通りの生活を送ったほうがいい。

 リクライニングチェアに深く座って、窓の外を眺めた。日は少し傾き始めている。あっという間に眠気が襲ってきて、ジェイルは瞼を閉じた。

 本当に、変な奴だった。

 子どもみたいな外見で、何も考えていないような言動を繰り返しながら、いきなり核心を突いてくる。そのくせ、真意が掴めない。

 精神が内に引っ張られていくように、眠りに落ちていく。

 遠く、雨が降り始める音が聞こえた。スコールだ。亜熱帯気候に属するヴェイラの雨季では、スコールは日常茶飯事である。窓を閉めなければとぼんやりした頭で思うが、身体は動かない。

 雨が激しく地面を打つ音を聞きながら、ジェイルはリクライニングチェアに沈んでいた。

 夢うつつの瞼の裏に、さまざまな記憶が溢れては引いていく。幼少期のこと、少年時代のこと、イギリス留学中のこと。

――ああ、そうか。

 こんなに思い出すのは、久しぶりに誰かと喋ったからだ。この5年間、生きるのに最低限の会話しかしていなかった。思い出を思い出すきっかけすらなかった。

 流れていく記憶は倍速のDVDのようだったが、目まぐるしさはなく、心地よかった。懐かしい、という久方ぶりの感情を抱きながら、ジェイルは眠りに身体を委ねた。


 激しく扉を叩く音で目が覚めた。

 ジェイルは寝ぼけ眼で、あたりを見回す。いつの間にかスコールは止み、すっかり夕暮れになっていた。

 もう一度、ドンドンドンという音が玄関から聞こえた。郵便だろうか。そういえばドアブザーの調子が悪かったから、ドアを直接叩いているのかもしれない。それにしても乱暴だなと思いながら、慌てて口の端の涎をぬぐい、立ち上がった。

 ガチャリとドアを開けて、ジェイルは目を見開いた。

 びしょ濡れのチセが、水を滴らせながら立っていた。

「観光中に、スコールがきて……」

 白いカットソーが水気を含んで、ぴったりと肌にくっついていた。中に着た水色のタンクトップの線を浮き上がらせている。

「雨合羽を出そうと思ってリュックに気を取られてる間に、貴重品を入れてたポーチを盗まれたんです」

 餅のような肌は、濡れたせいかますます白くなっている。

「その中にパスポートが入っていて。追っかけたんですけど……」

「もしかして、まだ、ホテルにチェックインしてなかったとか言わないよな?」

 一縷の望みをかけて問いかけたが、悪い予感の通り、チセはこくんと頷いた。

 パスポートなしでは、外国人はまともなホテルに泊まることはできない。大使館に申請しようにも、今日は土曜だから、はやくても再発行の手続きは月曜になるだろう。

 ジェイルは長いため息をついた。こうなるような気が、どこかでしていた。諦めろ、と神様に言われているようだ。

「まあ、とにかく入れ。風邪ひくぞ」

 チセを招き入れながら、ジェイルはなぜか笑えてきていた。


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