番外編:ルームメイト、オールライト 後編
3月、第2学期が終わった。日本とは比べ物にならないほどの課題や発表をなんとかこなし、ようやく訪れた休暇だ。せっかくヨーロッパにいるうちにと、俺はスペイン一周の旅に出ることにしていた。
旅行出発の前日には、お疲れ会と称した、日本からの留学生が集まる会合があった。まともな刺身や焼き鳥を出してくれる日本料理店で、自分の授業がいかに大変だったかに始まり、イギリス人の習性についてやら、最近の北朝鮮情勢についてやらについて、とりとめもなく喋って飲む。解放感でビールがよく進んだ。
揚げ出し豆腐に舌鼓を打っていると、経済学部に社会人留学している女の子が、「そういえば」と話を振ってきた。
「平間さんのカレッジって、王族の人がいるらしいですね」
大学のキャンパスで、サウジアラビアあたりの第何王子といった人種を見かけることはある。しかし俺が暮らす寮で、潤沢なオイルマネーの気配を感じることはなかったし、黒服のSPとすれ違ったこともない。
「見たことないな。勘違いじゃない?」
「同じクラスを取ってた人から聞いたから、本当のはずです。東南アジアの、どこかの国で」
尋ねておきながら、肝心なところが思い出せないようだ。
「王族ってことは、タイ?」
男子学生が助け船を出すが、彼女は首を横に振る。
「そんな有名な国じゃなくて、もっとマイナーなところでした。うーん、どこだったっけな……」
しばらく待ったが正解が出てこず、いつの間にか別の話題に移った。
お開きになるとみんなで大学の敷地に戻り、それぞれの寮へと散らばっていった。俺は口笛を吹きながらひとりで歩いていた。尻ポケットの携帯電話が震える。見ると、さっきの女の子からメールが届いていた。
今日はお疲れ様です!:D という文言のあと、こう続く。
《ちなみに思い出しました。ヴェイラでした》
この期に及んでまだ、俺は「へえ」としか思わなかった。この寮に、ジェイル以外にヴェイラ人がいたんだな、と。
寮の廊下を渡りながら、携帯電話で「ヴェイラ 王族」と検索してみる。民主化の記事が出てきた。そういえば、あの国は5年前くらいに王制を廃止したはずだ。ということは、いるのは元王族ってことか? そう思いながら、表示された最後の国王・レックス2世の画像を目にしたとき、文字通り息が止まった。
混乱した頭のまま、俺は部屋のドアを開く。リビングで映画のDVDを見ていたらしいジェイルが、一時停止ボタンを押して、こちらを向いた。
「お帰り。遅かったな」
どことなく高貴さを感じさせる頬から顎の線。知性と思慮深さ、そして年齢に見合わぬ峻厳さを宿した切れ長の瞳。
「明日からスペインだろ。荷造りは済んだのか?」
この顔に、見覚えがあって当然だった。新聞やテレビで目にしていたのだから。でも普通、気づくかよ。だってまさか、ルームメイトが。
「お前、レックス2世なの?」
考えるより先に、俺の口は動いていた。
そのときのジェイルの顔を、俺は忘れることはないだろう。まるで人を殺した過去を暴かれたような、そんな顔をした。恐怖、恥辱、悔恨、そして絶望。
しばしの沈黙のあと、ジェイルはカウチから立ち上がり、一度も俺の目を見ずに、自分の寝室へと消えた。ようやく我に返った俺が「おい、ジェイ」とかけた声など、まるで存在しなかったように。
俺は俺で部屋に戻り、パソコンを立ち上げた。
政治学研究者の端くれではあるが、ヴェイラ民主主義共和国については通り一遍のことしか知らない。インドシナ半島のエアポケット的な位置にある小国で、俺の専攻である安全保障上はあまり意味を持たない。主にその地の利によって欧米列強や日本の侵攻を避けることができたが、国としてはその時代がピークだった。第二次世界大戦後は経済的な伸びしろに欠け、多くの発展途上国がそうであるように、汚職が横行し、王室の権威も失われていったと聞く。
2002年の東ティモール独立をはじめ、ミレニアム前後は国家の体制変動が多かった。ヴェイラもそのうちのひとつで、単に来るべきときが来て民主化したと俺は認識していた。最後の国王が17歳というのは珍しかったが、だからといってその後どうしているかなんて、考えたこともなかった。
マウスをせわしなく動かし、王制時代のジェイルの写真を見る。線の細そうな印象は昔からだが、まだあどけなさもある。酔いはすっかり醒めていた。クリックする手が止まらず、俺はしばらくパソコンから離れられなかった。
それでも夜が深まるに従い、興奮は落ち着き、代わりに、リビングを挟んで沈黙する男のことが気がかりになってきた。
明日まで顔を合わせずに旅立てば、2週間近く部屋をあけることになる。そのあと戻ってきて、何もなかったかのように接するのは、俺の性格的に無理だと思った。そしてそれ以上に、旅行から戻ったとき、ジェイルがいなくなっているのではないかという予感。
リビングを横切る。ジェイルの部屋の電気は消えているようだった。
「ジェイ、話がしたい」
沈黙。俺は気にせずにノックを繰り返した。
「起きてるんだろう?」
何度か呼びかけると、観念したように返事があった。
「寝てる」
やっぱり起きていた。
「なあ、さっきのこと、謝るよ。急に聞いて悪かったな」
ドアの向こう側の暗闇に、俺は呼びかける。
「この寮にヴェイラの王族がいるって話をたまたま聞いたんだ。検索したら、お前の写真が出てきて、単純にびっくりした」
ジェイルは答えない。
「でも、それだけだ。怒らせるようなことをしたか?」
「……怒ってるわけじゃない」
消えかけのキャンドルの火のような声音だったが、それでも芯の部分に、正確に伝えることから逃げたくないという意志を感じた。
ああ、そういうことなのか。ジェイルが嘘をつけないのは、不器用とかバカ正直とか、そんなことじゃない。むしろ頭が良すぎて、誤った伝達をすることが許せないのだ。たとえそれが、自分の首を絞めるとしても。
「じゃあ、なんなんだ?」
答えを聞く前に、ドアが開いた。蒼白という言葉がふさわしい顔色をした元国王が立っていた。
「知られたく、なかった」
ジェイルはゆっくりと、日本語で言った。
「そのために、できるだけ、一般人らしく生きてる」
まるで恥ずかしいお願い事かのように、俺に訴える。
「誰にも言わないでくれ」
「そんなことを心配していたのか? 大丈夫、言わないよ」
即答すると、小さく息を吐いた。逡巡のあと、もうひとつ絞り出すように彼は言った。
「このことで、態度を変えないでくれ。俺は、失いたくない、関係を」
男に対してこんな感情を抱くなんて我ながら驚いたが、俺はジェイルを可愛いと思ってしまった。手のかかる弟のように感じたのかもしれない。この人付き合いの下手な男を、守ってやりたいとすら思った。
「オーライ、わかってるよ。お前は俺のルームメイトだ」
俺はわざと英語で軽く返した。ジェイルの頬に少しだけ生気が戻った。
「この際だから、ついでに聞いていいか?」
ためらいながらも頷いたのを見て、俺は尋ねる。
「お前って、童貞?」
意味が理解できなかったというように、ジェイルが目を見開く。弱みを握ったつもりなど毛頭なかったが、話の流れ上、答えなければならないと思ったのだろう。ジェイルは頭を重々しく振った。
「学部時代、ガールフレンドがいた」
「あ、そうなんだ。どんな子?」
「ダブリン出身で、史学専攻……。ちょっと待て。これ、今までの話に関係あるのか?」
「いいや、別にない。ただの好奇心だ」
ジェイルが汚いものを見るように俺を凝視し、聞き取れない言葉で何かを言った。おおかたヴェイラ語で「畜生」あたりの文句だろう。
「俺がいない間、女の子を連れ込んでもいいぜ」
「するか、バカ」
「荷造りが全然終わってないんだ。部屋に戻るわ。じゃあ、おやすみ」
歩きかけて、憤然としているジェイルに振り返る。
「土産はシェリー酒の予定だ。一緒に飲むのを楽しみにしているからな」
言いたいことは伝わったらしい。ルームメイトの表情が、かすかに和らぐのが見えた。
寄宿舎時代からの友人や、担当教授など、ジェイル・レックス・ハッサ・チュンクリットであることを隠さないでいい相手も何人かいたらしい。それでも、いちばん近くで生活するルームメイトに隠し事を抱えているというのは、大きなストレスだっただろう。
その後も俺は国王時代の話に触れることはなかった。個人的な興味でヴェイラの軍備について訊いたりはしたけど、その程度だ。別に気を使っていたわけではなく、単に関心がなかっただけだが、それがジェイルにとってはラクなようだった。
あっという間に年月は過ぎ、俺の帰国の季節がやってきた。日本へのフライト前夜、最後まで残っていた私物を段ボールとゴミ袋に仕分けていたら、いつの間にか隣にジェイルがいた。
「これは必要?」
「捨てる」
「わかった」
3年も一緒に暮らすと、コミュニケーションが最小限で済むことがある。そういうときは、もはや英語も日本語も関係がない。おかげでひとりでは夜中までかかりそうだった作業を、1時間弱で終えることができた。
余った時間で俺とジェイルは、4分の1ほど中身が残っていたスコッチウィスキーを舐めることにした。ベランダに出ると、7月の南イングランドの風が吹いてくる。乾燥していて、肌に心地よい。もうしばらく味わえないだろうそれを、琥珀色のアルコールのつまみにする。
「ここで3年も暮らしたとはね。あっという間だったな」
ジェイルに聞かせるというよりは、自分自身に向けてつぶやいた。帰国後は、元いた研究室に復帰して助教をやることになっている。留学という、学業に従事する者にだけ許されたロングバケーションがいよいよ終わるのだ。
「日本に帰ったら、真穂さんと暮らすんだろ。洗面所の水はねに気をつけろよ」
「努力する」
「結婚するのか?」
俺は30歳、真穂は32歳になっていた。「だろうな」とあいまいに答えると、ジェイルが言う。
「真穂さんは、お前にはもったいない女性だ。愛想をつかされるなよ」
「へいへい」
俺は指先でグラスの氷をかき混ぜる。カラカラと音が鳴った。
「お前は、結婚しないの?」
ジェイルは鼻で笑った。
「するわけがないだろ」
その言葉に複雑な意味が込められているのを知っていたが、あえて拾うことはしなかった。
しばらく黙って酒を飲んだあと、ジェイルは「俺は、論文を書く」と言った。
それはきっと、大変な作業になるだろう。だが俺たち研究者は書くのが仕事だ。とくにジェイルのような者は書くべきだ。自分と向き合うのがどれだけつらくても。
「ようやく大先生のお出ましってわけだ。それをもって講師になるのか?」
「わからない。でも完成したときは、ここを出ると思う」
俺はまじまじとジェイルの横顔を見たが、ジェイルの目線は生い茂った緑の向こう側、静かな暗闇に注がれていた。
長くオックスフォードの住人であるジェイルは、俺がいなくなった後も学園内で生きていくのだと思っていた。正直なところ、外の世界で生きている姿がイメージできない。彼にとっても、ここを去るというのは、相当の決意があってのことだろう。
「まあ、どこに行くにしても、教えてくれよ」
言ったあとで、踏み込んだ発言だったかなと思ったとき、ジェイルがこちらを向いた。
「当然だろ、ルームメイトなんだから」
明日からユーラシア大陸を挟んだ島国に離れ離れになるなんて、まるで思ってもいないような顔つきだった。俺はげらげら笑ってしまったが、別に茶化したわけじゃない。ただ単純に、嬉しかったのだ。
帰国してから3年後、うまい具合にポストがあいて、俺は母校の准教授になった。ジェイルはその頃すでに、オックスフォードを離れてヴェイラに移住していた。
昇進をメールで伝えると、わざわざ電話がかかってきた。奴にはそういう律儀なところがある。
「お前みたいな不良教師がゼミをもつのか」
憎まれ口を叩きながらも、ジェイルが喜んでくれているのは十分伝わった。
「入るのは、ロクな学生じゃないだろうな」
「本質を見定める目があるってことだろ」
「よく言うよ」
もちろん俺もジェイルも、そのロクでもない女子学生が、数年後にジェイルの運命に乱入するなんて、想像もしていなかったわけだが。
「ジェイ、俺だ。突然だが来週、12月第2週の週末、あいてるか?」
大学の研究室で、俺はスマートフォンに向かって話しかけた。右手でデスクに積まれた紙の山を押しのけると、ずささささと雪崩が起きる。あとで片づけることにして、発掘した卓上カレンダーをめくった。
「クアラルンプールで学会があるんだが、その後の予定が飛んだんだ。日曜に日本に戻ればいいから、弾丸でヴェイラに行こうと思って。LCCなら往復1万円くらいだろ?」
いまどきは国際電話だろうが無料で通話できるからありがたい。時代遅れの元ルームメイトが、ついにスマートフォンを導入したおかげだ。ジェイルが手帳をめくる音に続き、「大丈夫、あいてる」と返事が聴こえた。俺はさっそくパソコンで、航空券比較サイトを立ち上げた。
「決まりだな。なにか持ってきてほしいものとかあるか? 帯沢さんから預かるものとか」
今では彼の妻である女性のことを、俺はつい名字で呼んでしまう。本来なら下の名前にさん付けにすべきだろうが、いまだに個性的なゼミの教え子という感覚が抜けない。
「ホテルは適当に取るよ。え、泊めてくれるのか?」
ジェイルは長年住んだ家から引っ越していた。結婚し、しかも身分を明かして著作活動をしている今、さすがにノーセキュリティのアパートでは問題があったらしい。とはいえ祖母の遺産である郊外の邸宅は国に寄付し、本人は相変わらず賃貸で暮らしている。それがヴェイラ最後の国王の流儀なのだ。
「ありがとう、とっておきの日本酒を持っていくよ」
俺は椅子の背もたれに体を預けた。ブラインドの隙間から差し込んだ冬の陽気が、本を積み重ねたタワーに被ったホコリまでも照らし出している。
「ちなみに、そっちの気候はどうだ? どんな服装で行けばいいか教えてくれ」
乾季だから雨は少なく過ごしやすいが、念のため上着はあったほうがいい、朝は首都でも寒い日があるなどと、ジェイルは丁寧に教えてくれた。一通り聞き終えて、俺の脳裏にふと、15年も前の、とある冬の日の会話がよみがえった。黙って反芻していると、ジェイルが怪訝そうにする。「なんでもない。じゃあまたな」と言って、俺は電話を切った。
お互い、たまには仕事も家族も置いておいて、学生気分で飲んだっていいだろう。世界は広くて狭く、人生は単純で豊潤。40歳前後の男同士で、そんなことをしみじみ味わってもいいだろう。
赤ペンのキャップを外し、カレンダーに丸をつけた。冬のヴェイラでルームメイトに会えることを、俺は、本当に楽しみにしている。




