番外編:ルームメイト、オールライト 前編
日本から遥か遠く離れた英国で、これから暮らす寮の“先住民”と初めて顔を合わせたとき、見覚えがあるような気がする、と直感的に俺は思った。しかし、そんなわけはない。俺にヴェイラ人の知り合いはいないし、もちろん東南アジアのその小国に行ったこともない。
「ハロー、マイネームイズ、タカシ・ヒラマ」
既視感はさておき、ひとまず名を名乗った。寮の部屋は、共通のリビングやバスルームを挟んで、ベッドルームがふたつあるという構成だった。俺のルームメイトは、自分のベッドルームの扉から半身を出した格好で、じっと黙ってこちらを見つめている。
見知っていると勘違いした原因は、渡航費をケチるために、悪名高い航空会社・アエロフロートを使ったことに端を発するのかもしれない。乗換地のモスクワでお約束のようにロストバゲージし、下手な英語で事情を説明して、何枚もの書類を書き、ロンドンの安宿で不便し、ギリギリで送り届けられた荷物を受け取ってパディントン駅からの電車に揺られ、なんとか辿り着いたオックスフォード大学の寮――古めかしい威容について比類なき誇り高さを感じさせる――で、自分と似た肌の色のアジア人に相見えた。それで安心し、知り合いのように感じてしまった、この説はそれなりに論理的だろう。
「フロムジャパン。ナイストゥーミーチュー」
彼は俺より3~4歳若く見えたが、欧米人が口をそろえて言うように、アジア人の年齢はわかりにくい。目元が涼しく、鼻筋が細く、全体的にシャープで繊細な印象だったが、不思議と年輪を重ねた哲学者のような気配もしていた。
とはいえヴェイラなんていう辺境の出身だ、自分と同じくらいの英語レベルだろう。そんな気安い思いは、完璧な発音で裏切られた。
「俺はジェイル・ジャネイラ、環境学の院生だ。さっそくだが共同生活を送るうえで、確認しておきたい。ゴミ捨ては週2回、俺が火曜、そっちが金曜を担当する。コンロはひとつしかないから、凝ったものをつくりたいときはフロアの共用キッチンを使う。洗濯はランドリーでそれぞれ。23時以降は、客の出入りは控える。同じくテレビや音楽を聴くときはなるべくイヤホンをする。互いのプライベートには立ち入らない。以上、なにか問題があれば、速やかに言ってくれ」
条件は明確、発音も教科書のように明瞭だった。それがかえって慇懃無礼な印象を与えた。
「気難しそうな男だな」
つい、日本語でつぶやいた。
「なにか?」
「いや、なんでもない」
俺は大げさに肩をすくめて、「よくわかった、問題ないよ。お互い大人だからな。俺は生まれて初めての留学だからいろいろ世話になるかもしれないけど、うまくやろうぜ、マイ・ブラザー」と右手を差し出した。控えめに握ったあと、ジェイルは再びこちらをじっと見て、自問自答するような声音で言った。
「日系人ではないよな? 南米あたりの」
フロムジャパンという言葉が伝わっていなかったのだろうか。
「生まれも育ちも、東京の江戸川区ってところだよ。ソウケイユニバーシティーで安全保障を専攻していて、学内奨学金でオックスフォードに来た。年齢は27歳。趣味は飲酒と麻雀。ポーカーもやる。なにか質問あるか?」
「いや、十分だ」
ジェイルは会話を終わらせようとしたが、俺のほうが「南米って、いったいなんだ?」と食いついた。しばらく黙ってから、彼は言った。
「日本人は正しい英語が話せるのに、引っ込み思案なタイプが多い。一方、あんたは英語が下手だが、態度はラテン的だ。実際、スペインなまりがある気がした」
初対面の相手を、いきなり分析かよ。面倒な奴と同室になったのかもしれない。
「ラテン的って、態度がデカいって意味か? それは俺が元ヤンキーだからだよ。ゲットー育ち、高校中退でね。ついでにスペイン語なまりがあるとしたら、留学前に集中講義してくれたフィリピン人のアンジェリーナちゃんの影響だろうな」
相手が何か言う前に、「こっちも分析してやろうか」と畳み掛ける。凝った言い回しはできないから、一文一文を積み重ねた。
「英語にまったくなまりがないから、幼い頃から――おそらくインターナショナルスクールで仕込まれたものだろう? いいとこのおぼっちゃんだ。東南アジアでそんな教育を受けられるような金持ちの子息の院生なら、寮じゃなく高級アパートを選ぶ。だが貧乏学生の俺と同じこの寮だ。てことは、さしずめ、親の反対を押し切って帰国を伸ばしてるってとこか? ジェイル・ジャネイラ君」
ジェイルは露骨に警戒する目つきになった。ある程度、図星だったのだろう。俺は戦闘モードをゆるめて、笑顔をつくった。これから寝食を共にするルームメイトと、わざわざ険悪になりたいわけじゃない。
「心配すんな、元ヤンだからって、おぼっちゃんをいじめたりしないよ」
ジェイルは引き続き難しい顔をしている。冗談が通じないタイプの人間なのかもしれないので、わざわざ「ここ、笑うところだぜ」と解説してやる。ふ、とジェイルは口元をゆるめた。俺の冗談は一応伝わったらしい。
初対面の挨拶はこんなところでいいだろう。自分の部屋に引き返そうとすると、「やっぱり、ひとつ、質問していいか?」と声がかかった。
「『キムズカシソウナオトコダナ』って、日本語でどういう意味だ?」
英語はもちろん、日本語の部分の発音も完璧だった。
「日本語、話せるのか?」
「いや、コンニチハ程度しか知らない。勉強したいと思っているけど」
どうということもなさそうにジェイルは答えた。これは相当耳がいいのだろう。世界中の叡智が集まるオックスフォードの洗礼を浴びた気がした。
口に出さずに感嘆していると、ジェイルは言った。
「どうせ、ロクな意味じゃないんだろう?」
俺は目をぱちくりさせた。ルームメイトは、お返しとばかりに口角を上げた。
「ここ、笑うところだぜ」
俺とジェイルの共同生活は、おおむねスムーズに始動した。
ジェイルは共有スペースに生活感を持ち込まない男だった。まずそもそも、姿をあまり見かけない。いつも21時頃に帰ってきて、二言三言交わすと、あとは自室に引っ込んでしまう。授業が終わったあと何をしているのかと思ったら、図書館やカフェで読書をしていると聞いて、驚いた。つまりずっと勉強しているということだ。
几帳面な性格らしく、リビングのテーブルに私物を置きっぱなしにするようなこともなかった。おかげで俺は、独り暮らしのように部屋を使うことができた。変わり者でかえって助かったな、そんなふうにすら考えていた。
2か月ほど経った週末の夕方、俺はカウチに寝そべってテレビのプレミアリーグ中継を見ていた。ジェイルは部屋にいるはずだが、いつものように気配を消している。そのとき、俺はようやく勘違いに思い至った。俺のルームメイトは、いくら変わり者だからといって、物音を立てない選手権にでも参加しているのか? それも毎日? そんなわけはあるまい。
俺は立ち上がり、ジェイルの部屋をノックした。ややあって、ジェイルが顔をのぞかせる。
「フットボール、一緒に見ないか?」
「ありがとう。でも遠慮しておく」
「ビールあるぜ」
「スポーツに興味がないんだ」
遠回しなやりとりが面倒になったので、俺は単刀直入に切り出した。
「お前さ、俺に遠慮してない?」
「してない」
そう言いつつ、一瞬間があった。嘘をつくのが下手な奴だ。
「俺は快適にやれてるけどさ、お前は我慢してるだろ? 自分の家なんだからもっとくつろげよ。気を使われるとこちらも気まずい」
思い返してみれば、シャワーを使うタイミングだったり、食事するタイミングだったり、俺が感じていたちょっとした快適さの裏には、こいつの配慮があったのだろう。俺は気づかずにぬくぬく享受していたというわけだ。
「気は、使うものだろ」
ジェイルが反論した。どんな形であれ、ようやく自分の意志を示した。
「最低限の気づかいは必要だけど、これは平等じゃないよ。不満や意見は正直に言ってくれ」
「対等じゃないだろ、もともと」
「なんで?」
「だって、あんたは年上じゃないか」
真面目な顔をして言うので、俺は耳を疑ってしまった。なんてこった、儒教の精神かよ。中世の面影を残す学園都市の寮の片隅に、リトル・アジアが生じていたというわけだ。
「マジで気にすんなよ、そんなこと。同じ院生なわけだし。民主主義でいこうぜ」
デモクラシーと口にしたとき、なぜかジェイルの顔に翳が差した気がしたが、それを無視して、冷蔵庫から取り出したバスペールエールの瓶を胸に押しつけた。
「こっちに来いよ。一緒に飲もう」
「いや、俺は……」
「年長者の誘いを断るのか」
さっそくカードを切ると、ジェイルはずるいと目で訴えながらも、その痩身を現した。まるで天照大神のように。
アルコールが入ると、ジェイルの重い口も少しずつ開いていった。
「気を悪くしてほしくないんだけど」
慎重な前置きをしてジェイルが言う。
「雨が降った日は、玄関のマットで、もう少し靴の泥を落としてほしい」
「そうだよな、すまん。気をつける」
素直に謝ると、安心したらしい。2本目の瓶に口をつけながら、「ほかにも」と続ける。
「夜中にカップラーメンを食べるのはいいとして、食べ終わった容器をそのまま捨てないでくれ。匂いが残る。水でさっと洗うべきだ」
「バレてたか。2回やったかな」
「いや、3回だ」
ジェイルは実家の母親並の細かさで、俺の家事の問題点を次々と申し立てた。こいつ、相当不満が溜まってたんだな――。文句を言われているはずなのに、指摘の的確さが、俺はなんだか面白くなってしまう。
「歯磨き粉もしょっちゅう鏡に飛んでる。しかも広範囲に。踊りながら磨いているのか?」
「ああ、社交ダンス部でね。得意ジャンルはサルサだ」
「嘘つけよ」
ジェイルが歯を見せて笑った。そうすると年相応という感じがした。
ビールがたりなくなったので、ふたりで敷地内のパブに行き、そこでまたしこたま飲んだ。付け合わせはチップスとバーガー。典型的なイギリス留学生として行動したわけだ。
ジェイルは自分自身の話題は避けたが、その代わり、俺の来歴や専攻内容に耳を傾けてくれた。大卒者がほとんどいない家系に生まれたこと。とくに何も考えずに地元の公立高校に進学したが、授業がつまらなくてサボりを繰り返していたこと。喫煙がみつかって停学中、たまたま読んだトム・クランシーの小説で冷戦に目覚め、関連書籍をむさぼるように読んだこと。半年後に高校を辞めたこと。安全保障について本格的に学ぶために、大検を取って進学したこと。
ジェイルは俺のつたない英語の説明にも、忍耐強くつき合ってくれた。俺は久しぶりに、思いきりしゃべるということをした。
眠たい目をこすって部屋に引き上げるとき、楽しかったというだけでなく、安堵している自分に気がついた。慣れない英語での生活と、課される膨大な宿題で、少しばかりホームシックを感じていたらしい。隣を歩くルームメイトに、アジア人というだけではない親近感を、俺は抱き始めていた。
その年のクリスマスと正月、俺もジェイルも帰省しなかった。俺の場合は、8月に渡英したばかりだったからだが、ジェイルが帰らない理由は違っただろう。その頃にはもう、ジェイルが何らかの理由で家族や故郷と距離をおいていることを、俺も気づいていた。
「雪が降ってる」
分厚いカーテンを開けて、俺は部屋から窓の外を見た。
イギリスで越す初めての冬は、思っていたよりも過ごしやすかった。基本的に建物内はセントラルヒーティングという暖房がつけっぱなしになっていて、それはこの古めかしい寮でもそうだった。室内であれば、厚着の必要はない。
ジェイルはリビングのカウチに腰かけて、2杯目のコーヒーをおともに本を読んでいた。
「確かに、降ってるな」
まるで中身のない会話だった。それくらい退屈で静かな冬の日だった。
「面白いか? それ」
俺はジェイルの持つ本に目線をやった。タイトルは『Snow Country』――川端康成の『雪国』の英語版だ。図書館で借りてきたらしい。
「ああ。日本の冬を知らなくても、はっとするような表現がある」
「さすがは上品な知性の持ち主だな」
俺が読むのはもっぱら論文か戦争小説だ。川端康成は一度も読んだことがないし、たぶんこれからも読まない。だがジェイルはおそらく、数年以内に原書で読むようになるだろう。俺が遊び半分で教える日本語を、あっという間にインプットしていた。曰く、「言語学習は勉強ではなく気分転換」なのだそうだ。スイスの寄宿舎時代に、ドイツ語とフランス語も習得済だという。
ふと、尋ねた。
「ヴェイラの冬は、寒いのか?」
ジェイルは首をかしげた。
「どうだったかな」
「なんだよそれ」
はぐらかしたいのかと思ったが、表情を見ると、そうではないらしい。
「13歳からスイスで、18歳からはここだから。俺にとってはヨーロッパの冬のほうが身近になった」
彼は窓の外の雪景色を見たあと、手元の本に視線を落とした。
「違う国の冬に詳しくなるばっかりで、俺はだんだん、故郷を忘れている気がするよ」
それがどういう感覚なのか、俺にはわからない。
その日、ジェイルがシャワーを浴びている間に、俺は日本にいる恋人に電話をかけた。向こうはまだ朝の7時で、真穂は「時差を考えなさいよ」と文句を言っていたが、故郷に電話するのを、俺はなんとなくジェイルに聞かせたくなかった。同時に、実家暮らしの彼女の背後から、生活音が聞こえるとほっとした。
俺のルームメイトを取り巻く世界は、ときどき静かすぎる。むしろ彼は、自分からそこに閉じこもっているようにも見えた。




