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第5話:走る男

「眠れねぇ……」

 明るくなった空を眺めながら、ジェイルは今日だけで数十回は言ったであろうセリフを、また呟いた。

 ごろりと身体の向きを変えると、寝台が軋んだ。リクライニングチェアの背もたれを倒して、ベッドとして使っている。昼寝にはちょうどいいが、一晩眠るとなると少し固い。枕の位置を数センチずらしてみても、しっくりこない。

 隣の部屋の使い慣れたセミダブルベッドは、別の人間に占領されている。帯沢千星という名の、とびきり変な日本人に。いや、チセは床で寝ると言い張ったが、それはジェイルが納得しなかった。

 あくまで親切心からではないと、再び寝返りを打ちながら、ジェイルは自分に言い聞かせる。彼女の言動を思えば、確かに床に転がしたって構わないと思う。あえてベッドを譲ったのは、パソコンや貴重品のあるメインルームを使わせたくなかったというのもあるが、親しくない客人ほど丁重に扱うほうがラクだからだ。そのほうが後腐れがないし、貸しを作っておいたほうが後々の交渉で有利になる。どうせ一晩だけの我慢だ。

「ヴェイラは小国がゆえ、力技ではない外交が求められるのです」

 そう言ったのは、王室付きの家庭教師だったろうか。

 ぼんやりと思いだしかけて、やめた。昨日から過去のことばかり考えすぎている。

 顔に腕を乗せて、朝の光をシャットアウトした。そのまま30分ほどまどろんだところで、音を最小に設定しておいた目覚まし時計が鳴る。7時。まだ寝ていたいところだが、ジェイルは身体を起こした。こんなときこそ、いつも通りのサイクルで活動すべきだ。

 隣の部屋の物音に耳を澄ます。チセはまだ起きていないようだった。家の主人は寝られなかったというのに、なんと図太いガキだろう。呆れていいのか感心していいのかわからないまま、ジェイルはそっと家を出た。


 アディダスのスニーカーが小石を蹴る。息を吸って走り出した。太腿の筋肉が引き締まるのを感じる。ゆるやかに速度を上げて、ペースを掴んでいく。通り過ぎる人や車の輪郭がぼやけ、そのうち、街のざわめきがふっと遠くなる。自分の吐く息の音だけが生々しくなる。そうなればもう、意識しなくても、手足は勝手に動き続けている。

 朝のジョギングは5年間、ほぼ欠かしたことがない。ペースを保って走っているときの、世界から切り離されるような、この感覚が好きだからだと思う。目覚め始めた街をすり抜けるように、ジェイルは走って行く。

 眩しい光が、右斜め前から差してくる。朝は神聖だ。イギリスからヴェイラに戻って以来、そう思うようになった。ヴェイラとイギリスは似ていない国だが、特に空はまったく違った。10年ぶりに帰国したとき、曇り空が普通のイギリスに比べて、ヴェイラの抜けるような青い空に目がくらんだものだ。最初は慣れなかったが、今はこの眩しさがいいと思う。あれこれ考える余地を奪い、走ることに専念することができる。

 ルートは特に決めていない。蹴り出したときの感覚で、気が向くままに走る。川を渡って新市街まで足を伸ばすこともあるし、旧市街の迷路のような町並みをぐるぐる回ることもある。首都といってもそう大きな街ではないから、1時間あれば、たいていのエリアには足を伸ばすことができる。今日は、寺院や墓地が並ぶ静かな道を選んだ。道の脇にプルメリアの木々が高く生い茂っている。くっきりした緑色の葉のなかに、無数の可憐な白い花びら。花びらの中央は、黄色い絵の具をスポイトで垂らしたように色づいている。

 行商の老婆と行き違った。ヒゲの男が軽快に走る様を、彼女は物珍しそうに見た。祖母と同じほどの年齢だろうか。間違っても、ジェイルの正体には気づかないだろう。そう考えて、口の端があがった。ジョギングが好きなもう一つの理由。街中でも顔を隠す必要がない。走っているとき、俺は自由だ。


 アパートの前まで戻り、息を整える。昨晩チセのせいで見そびれていた郵便受けを確認すると、イギリスから転送された手紙が一通届いていた。

 タカシなどのごく親しい者を除いて、ジェイルは今住んでいる住所を教えていない。実の母と姉妹にさえも。対外的にはまだイギリスにいることにしている。大学院で研究を続ける友人に頼んで、手紙の類は転送してもらっていた。

 差出人と内容はわかっている。この数か月で3通目だ。手で破って中身を確認すると、やはり思ったとおりだった。一瞥しただけで封筒に戻すと、掌のなかで丸めた。

 帰ってきても、まだ家は静かだった。届いたばかりの手紙をゴミ箱に捨てる。

 今のうちにシャワーを浴びることにする。その前にキッチンに立ち、鍋に水を張った。無意識のうちに冷蔵庫から卵を2個取り出して、鍋に移そうとしたところで、ふと立ち止まる。

「……」

 左手の卵を額に当てて、数秒停止した。

「招かれざる客、だろう」

 片方の卵をケースに戻した。そこまでもてなしてやる必要はない。チセが起きたらすぐに叩き出さなければ。

 シャワーを浴び終わってまずするのは、ガスの火を止めること。10分以上茹でると、卵が固くなりすぎる。濡れた身体をざっと拭き、とりあえずズボンだけ履いて、部屋を大股で横切った。ジェイルがガスの栓を回したのと、玄関のドアが開いて、チセが現れたのは同時だった。

「ただいま~。あ、もうお風呂出ちゃってる」

 奥のベッドルームにいるとばかり思っていたチセが真反対の方向から現れたことに、ジェイルは取り乱した。

「部屋にいたんじゃなかったのか」

 寝癖なのか、チセは前髪が少しハネていたが、すでに普段着に着替えていた。両手にビニール袋を持っている。

「シャワー浴びてる隙に、ちょっとそこまで」

 普段なら自分を見上げるチセの視線が、なぜか胸のあたりにある。そこでやっと、上半身裸だったことにハッと気づいた。

「あ、あっち向いてろ!」

 チセに背を向けてしゃがみこみ、慌てて手にしていたTシャツをかぶる。髪がまだ濡れているので気持ち悪いが、それどころではない。

「別に気にしないのに~」

 呑気な声が上から降ってきた。お前じゃない、俺が気にするんだよ!と心の中で叫ぶ。日本の道徳観念は大丈夫なのだろうか? 少なくともヴェイラの未婚の女は、成人男性の裸をまじまじとみつめることなどしない。

「露出してない部分、思ったより肌が白いんですねえ。日本人みたい」

 トボけたふりして、細かいところをよく見ている奴だ。そんなチセの指摘を無視して、後ろ髪の水滴を振り払い、何事もなかったかのように立ち上がった。

「どこに行ってた」

 チセがビニール袋をあげてみせる。ナンプラーの香りが漂った。

「泊めてもらったお礼に、朝ごはんをと思って。表の屋台で麺買ってきました。さっぱり系と辛い系両方あるので、好きなほう選んで……」

「いらない」

 ジェイルは低い声で遮った。チセがきょとんとする。

「麺じゃなくて、揚げパンのほうがよかったですか?」

 チセのほうを見ずに、ヤカンを火にかけた。食パンをトースターに入れ、食器棚から皿を取り出す。

「朝食は決まっている。それは自分で食え」

 チセがテーブルに荷物を置いた。ジェイルの表情を覗き込んでいる気配がする。

「それって、ポリシー的なものですか?」

 タオルで髪を拭きながら、聞こえないふりをした。ヤカンがうるさく鳴って、沸騰を知らせる。紅茶のポットに湯を注ぎながら、誰に聞かせるでもなく、ぽつりと自国語でつぶやいた。

「……屋台のものは食べない」

 屋台のものは食べない。

 トーストが、チン!と間抜けな音を立てて飛びだした。


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