第49話:アフターキング
8月のヴェイラらしく、今日は早朝から快晴だった。抜けるような青と、建物の白のコントラストがまぶしい。水晶をイメージした色とりどりのタイルが敷き詰められた玄関ポーチに、次々と車が停まり、客人たちが門をくぐる。
「お母様!」
やって来た人影を見て、ダニットが手を振って駆け寄る。
「時差ボケは大丈夫? サンフランシスコから遠かったでしょう」
「昨日着いてゆっくりしたから大丈夫よ。まああなたたち、あっという間に大きくなって」
母は、ダニットの傍らにいる子どもたちに目をやった。もうすぐ5歳になる長男と、3歳の長女。長男は半袖シャツに蝶ネクタイ、長女は淡い紫色のフリルのドレスで、子どもならではの正装姿だ。
「おばあちゃま、こんにちは」
「上手にご挨拶できたわね。カヤナと子どもたちも一緒なのよ。ほら、来た」
カヤナ、夫、その娘たちふたりが広間に姿を現した。膝下丈の紺色のツーピースが、スレンダーなカヤナによく似合っている。大粒真珠で揃えた胸元のブローチと耳元のイヤリングが、さりげない高級感を演出していた。一方のダニットは、マスタードイエローの花柄のロングドレスだ。同じきょうだいでも、ドレスアップひとつに性格が出る。
「あなたたち、あっちの部屋で、いとこのお姉ちゃんたちに遊んでもらったら。お母さんはおばあちゃまとお姉様とお話ししてるから」
普段はアメリカとオーストラリアという離れた土地に住む4人のいとこたちは、ここぞとばかりに駆け出していく。
「お洋服が汚れないようにね」
言った途端に、息子がふざけて大理石の柱にぶつかる。「その服、高いのよ!」と叫んで、ダニットは嘆息した。
「男の子って、なんでああなのかしら?」
「いいじゃない、元気いっぱいで」
母の呑気な言葉に、「お姉様のところの娘は両方ともいい子だから、そんなことが言えるのよ。男子って本当に大変なんだから」とダニットが不満をたれた。
「あら、私だってジェイルという息子を育てたわよ」
「お兄様は大人しかったじゃない」
ダニットの反論に、カヤナが別方向から意見を述べる。
「大人しいけど、あれは違うタイプの育てにくさよね」
着飾った元王族の女たちは、ラタンの椅子に腰を下ろし、今ここにいない男の糾弾を始めた。
「ジェイルは、あの子は確かに、ちょっと難しいところがあったわね」
「ちょっとじゃないでしょ。お兄様は相当面倒くさい」
「基本はやさしくていい子なんだけど、納得できないことがあると、すっと黙るじゃない? 姉の私から見てもときどき怖かった。ダニットなんかは、怒ってもわかりやすいからいいのだけど」
「もう、お姉様ったら」
遠慮のない姉妹のやりとりを、母は楽しそうに、そしてしみじみと聞いている。
「手がかからない息子だと思っていたけれど、退位からずっと、反抗期だったのかもしれないわねえ」
「長すぎるわよ、反抗期が。30過ぎまでかかるって何事よ。妹の結婚式くらい出なさいよ」
「ダニット、あなたそれ根に持ってるわね」
「だってお姉様のときは一応出てたじゃない、イギリスにとんぼ返りだったけど。私だけ、ずるいわ」
「まあまあ」
いつまでも末っ子気質の妹の額に、汗で前髪が貼りついているのを、カヤナはそっと取ってやる。
「そのジェイルも大人になったんだから」
ダニットは房のついたクラッチバッグから招待状を取り出すと、行儀悪く扇子代わりにして煽いだ。
「おっしゃるとおりね。今日みたいな日が来るなんて、5年前は考えられなかった。ねえお母様」
かつての王妃は目じりに皺を寄せ、青い空を見ながら微笑んだ。
「今頃お喜びよ。お父様も、ラーニア様も」
「おい、入るぞ」
その言葉とともに、部屋のドアが開かれた。着替えを終え、窓際で中庭の景色を眺めていたジェイルが振り返る。
「元ルームメイトでもノックぐらいしろよ」
「許せよ、一秒でも早く友人の晴れ姿を見たくてな」
タカシはニカッと笑顔を浮かべながらジェイルに近づいた。軽快な音を立てて、ふたりはハイタッチをする。
「わざわざ遠いところをありがとう、タカシ」
「駆けつけるさ、当然だろ」
「家族も一緒に来てくれたんだろう?」
タカシは頷いた。
「実は、家族で海外旅行するのはこれが初めてだよ。いつも俺ばかり学会で外国に行ってると文句を言われてたから、いい機会とばかりに連れてきた。ちょうど夏休みだし」
「小学生が喜ぶような観光スポット、少ないんじゃないか?」
「いや、結構喜んでるよ。事前にネットフリックスを見せておいたから、『この景色、「アフターキング」で見た!』ってな。原作者の目論見通りだろ?」
ベストセラー作家先生、とタカシにふざけて小突かれ、ジェイルも否定はしない。
クーデター未遂事件の1年後、ジェイルは『Life After King』と名づけた本を上梓した。王制末期から現在に至るまでを描いたメモワールだが、単なる自叙伝ではなく、当時の関係者への細やかな取材を経て、ヴェイラ現代史、王朝文化史の資料としても読めるように腐心した。ジェイルは元国王であると同時に元研究者でもあるのだから、そういうものが書けなければ意味がない。
学術系の小さな版元から出版したにもかかわらず、話題性もあり本は売れた。すぐに翻訳版も決まり、翌年にイギリスとスイスで小さな賞も得た。それだけで十分すぎる結果だと思っていたが、これを原案にした映像化のオファーが来たときは、さすがにジェイルも驚いた。
いくつかの会社と話し合った結果、契約したのはアメリカのストリーミング配信大手・ネットフリックス。オリジナル作品として実写化するにあたってのジェイルの条件は、全編をヴェイラで撮影すること。世界に向けて、ヴェイラという国をPRする一助となればという思いがあった。
「断ったオファーの中には、お前が主演ってのもあったらしいじゃん」
ニヤニヤと口元をゆるませてタカシが言う。ジェイルはぎょっとした。
「その企画はメールを見た瞬間に閉じた。ひどい冗談だ」
「ハリウッドデビューを逃してよかったのか?」
「いいにきまってる。ていうか、誰に聞いたんだよ」
言いながらジェイルは答えをわかっていた。こんな話をタカシにチクる奴は、ひとりしかいない。笑いながらもふと、タカシが「確かにお前はさ、研究したり書いたりしてるほうが似合うよ」と感慨深そうにつぶやく。
褒めてくれたのだろう。ジェイルが顎を少し上げて応えると、タカシは「しかし、今日みたいな日でもヒゲなんだな」とからかうような口調に戻った。
「悪いか?」
「悪かないさ。ヒゲは男のロマンだ。うちの真穂には理解されないけど」
タカシが妻の名前を出した。ジェイルはイギリスで一度会ったことがある。長い黒髪が印象的な、タカシとお似合いの快活な美人だ。
「そうなのか。……俺の場合は、むしろあいつが、ヒゲのほうが好きだって言うから」
何気なく言ったつもりだった。が、タカシは恐ろしいものでも見たかのように立ちすくみ、大げさに後ろ足でドアへと後退した。
「ジェイ、俺は今、猛烈に感動しているよ」
「は?」
タカシは蝉のようにドア枠にしがみついた。そんな格好で悶絶している。
「お前の口から惚気を聞く日がくるとはね。ああ、来てよかった。生きててよかった」
「惚気って何がだよ?」
「いいんだ。開始前からおすそ分けをありがとう。今日が終わるころには、俺は過剰摂取でぶっ倒れるかもしれないな。じゃあまた後で」
くわばらくわばらなどと口走りながら、タカシは廊下に消えていった。取り残されたジェイルは首をかしげる。入り口に背を向けたところで、再びドアが開く音がした。
「まだ用か?」と振り返ったジェイルの目に飛び込んできたのは、今度は白い長袖レースのドレスの女だ。歩きやすいように裾をつまみ上げている。
「はやく準備が終わったんで、遊びに来ました~」
チセは、アンティークビーズが縫い込まれた長い裾を挟まないように、そっとドアを閉めた。
「……普通、本番まで顔を合わさないものじゃないか?」
「まあまあ、今日は無礼講じゃないですか」
日本語の使い方が間違っていると思うが、ツッコまないでおく。チセは「いいもの持ってきたんですよ」とポケットに手を入れた。こういったドレスがポケット付きなのは珍しい気もするが、とても彼女らしいチョイスだと思う。
チセは取り出した小さな缶をジェイルに渡した。
「日本のお客さんからお祝いでもらった二日酔い対策ドリンクです。ウコンが超濃厚なスペシャル版ですって」
そんなものを神聖なドレスのポケットにしのばせている女は、チセぐらいだろう。チセは自分の分の封を切って飲み干し、「ああ、効きそう。お客さんにお礼しないと」と満足げだ。
4年前、『Life After King』の英語版のゲラを読んだチセは、決まっていた新聞社の内定を辞退して、就職活動をやり直した。結果、主にアジア圏への転職を斡旋するエージェント会社に入社し、今は東京を拠点としながら上海、ホーチミン、ジャカルタなど、各地を飛び回っている。
「この本を読んだら、私、書く方面の根性はないなって思ったんですよね」
チセなりの葛藤はあっただろうが、進路変更を事後報告する口調はあっさりしたものだった。ジェイルはそれについて口出しすることは控えた。ただ、自分が彼女の夢を潰してしまったのではと臆する気持ちもあった。
だが働き始めたチセを見て、すぐに杞憂だったことがわかった。フットワーク軽くさまざまな人や企業に会い、希望や悩みを聞き出し、提案してつないでいくという仕事は、実に彼女に合っている。転職を成立させて終わりではなく、クライアントからは継続的に聞き取り調査を続け、そこからまた新たなビジネスにつながることも少なくないようだ。ちなみにプライベートではヴェイラ観光ブログを立ち上げて、ちょっとしたアフィリエイト収入も稼いでいるらしい。ちゃっかりしている。
「あ、お父さんが平間先生と喋ってる。あそこにいるのはディナラちゃんだ」
チセがジェイルの横を通り過ぎ、窓から中庭と回廊を眺めた。客人たちは美しく整えられた庭を見たりしながら、思い思いの待ち時間を過ごしているようだ。
チセはこの5年で少し伸びた髪を、今日は珍しくアップにしている。バックの髪はゆるやかに編み込まれ、後頭部もふわりと空気を含んでいる。背後からだと、後れ毛が白いうなじの上で踊るさままでよく見えた。
「そういえば5年前、あの中庭で、取材ごっこをしましたよね」
ジェイルの記憶もよみがえる。
「ラーニア様に会いに行ったときか」
「それです。いきなり質問しろとか言って、結構な無茶ぶりだったでしょう。なつかしいな」
この邸宅の主だった王太后は2年前から、ハディト1世の隣の墓で眠っている。老衰だった。ジェイルは最期を看取ることができた。
「ラーニア様、もしかしたら、こっちの猿芝居も全部わかってたんじゃないかなっていう気がする。私は結局、ジャーナリストにはならなかったけど……。あっ、そうだ」
チセが振り返った。
「あのときジェイルさん、『あとで礼はする』って言ってたけど、結局そのままになってましたよね」
そういえばそんなことを言ったような気もする。「まだ踏み倒しの時効はきてませんよ」と、チセが笑いながら訴えた。
「じゃあお礼代わりに、ひとつ、珍しいことを教えよう」
きょとんとしたチセを手招きし、窓の外からは見えない位置に移動した。ジェイルは咳払いすると、チセの目を見つめて言った。
「さっきから見とれてた。髪型もドレスも、全部綺麗だ。俺は自分が幸せ者だと実感している――これでどうだ?」
チセが頬を染めて、「わーお」とつぶやく。
「大スクープですね」
「今日だけ特別だ」
そう言いつつ、この先もきっと、ジェイルの特ダネはすべてチセに与えられるだろう。
ドアをノックする音が聞こえ、手伝いのスタッフが「皆さまがおそろいになりました」と外から声をかけた。
「始めるか、結婚式」
「異議なしです」
ジェイルとチセは歩き出した。この夏ざかりの国で、ふたりを待っている人たちのところへ。
完
お読みいただきありがとうございます。
本作『アフターキング』は、私にとって5作目の作品です。と思って書き始めたのが2011年4月、気づけば年月は過ぎ、このあとがきを書いているのが2019年8月。おそろしいほどの時間をかけてなんとか完結にこぎつくことができました。
本作を思いついたきっかけは、海外の元大統領が日本のニュース番組に出演しているのを見て、「そういえば政治の一線を引いた人たちって、その後なにしてるんだろう?」と思ったことです。
そこからするすると「ヒゲのひきこもり男」「元国王」「東南アジアの架空の国」といったピースが決まり、『アフターキング』の世界観ができていきました。
本作はジェイルとチセの、というよりは、もっと広い意味でのラブストーリーだと思っています。運命にフラれて傷ついた男が、年月を経て、再び運命と恋に落ちる。運命は人生や世界という言葉に置き換えてもいいかもしれません。
またあえての表現として、「ジェイルの総受け物語」とも思います。チセはもちろんユナルもヌアークも、誰もかれもがジェイルを求めているのに、ジェイル本人が受け入れられない。それは自分自身と折り合いがついていないからで、自己と対話し自己を肯定して、世界へ開いていく物語が書きたかったです。
東南アジア、年の差、王族、バディもの、政変、パーティ、探偵風…と、あまりにも自分の好きな要素をつめ込み、思い入れが大きすぎる作品になりました。筆が進まない時期もありましたが、常にジェイルとチセのことを考えていた8年間でした。終わらせるのが少しだけさみしいですが、それ以上に「あー、ようやくキスした! ようやく婿に行った!」と肩の荷が下りる思いです。
ロングスパンの作品になっただけあり、音楽もたくさん聴きました。男性主人公ということもあってか、ロックが多かったです。つい専用プレイリストなぞもつくりました(バカ)。
Can You Take Me/Third Eye Blind
Reckless/J
10 Days Late/Third Eye Blind
Jasmine/Jai Paul
Bolero/Maurice Ravel
All Of The Lights/Kanye West
Inhaler/Foals
Lean On/Major Lazer feat.MØ&DJ Snake
NOW YOU KNOW BETTER/Mondo Grosso
Feel Your Blaze/J
U(Man Like)/Bon Iver
The Sound/The 1975
Non-dairy Creamer/Third Eye Blind
Walk On/U2
なかでもいちばんインスピレーションをもらったのは、アメリカのロックバンドThird Eye Blindの『Ursa Major』というアルバムで、1曲目の「Can You Take Me」が本作のテーマソングです。
Can you take me
Into days I never knew
Let’s start a riot (I want a riot)
Let's start a riot me and you ‘cause a riot's overdue
ジェイルからとも、チセからとも思える歌詞に、何度も書く気力をもらいました。
長い本編に加え、長いあとがきにもおつき合いくださり、ありがとうございました。
ご意見ご感想もお待ちしております。
佐井識
【参考文献】
『第三の波-20世紀後半の民主化』(サミュエル・P・ハンチントン)
『海の帝国-アジアをどう考えるか』(白石隆)
『アジア政治とは何か-開発・民主化・民主主義再考』(岩崎育夫)
『入門 東南アジア近現代史』(岩崎育夫)




