第47話:クロージング・タイム
足音は手前で止まり、こちらを窺う気配がする。
「危ないですよ」という制止を振り切って一歩踏み出す者がいた。ひっくり返っているジェイルと目が合う。腰を落としてジェイルを凝視している男は、ジェイルもニュースでよく見知っていた。
「ドルーダ首相」
「あなたは……元陛下、ですね?」
正しい呼び方だった。たったそれだけのことだが、ジェイルにとっては充分だった。おもむろに体を起こすと、周囲を囲むスーツ姿の男たちが、慎重に間合いをとる。ジェイルは投降する立てこもり犯のように両手を上げた。
「驚かせたなら申し訳ない。私はジェイル・レックス・ハッサ・チュンクリットです。直接会ってお伝えしたいことがあり、1階から抜け道を通ってここまでやってきました」
ジェイルは自分が転がり落ちてきたほうを見た。深緑の壁の側面にいかめしい金庫が設置されており、それが壁ごと半開きになっていて、向こう側が暗くなっている。どうやらあそこから出てきたらしい。
「まさか、あの金庫が隠し扉になっているとは……」
ドルーダが呟いた。入り口が引き戸なのに出口が開き戸とは、ややこしいにもほどがある。やっぱり設計者は一度殴ってやりたい。
「誰も気づかなかったとは、歴代首相も節穴だな。いや、そんなことは今はいいんだ」
ドルーダがジェイルに向き直る。
「お話ししたいこととは、クーデターのことですか」
目を見開いたジェイルを安心させるように、ドルーダは続けた。
「大丈夫です。ここにいるのは国家情報局長と内務大臣、それに与党幹事長とSPです。ロチャ元将軍に通じている者はいません」
「……どこまでご存知なんですか?」
「軍部の急進派が不穏な動きをしていることは察知していました。だが詳しいことはつかめなかった。全貌が見えたのは今日のことです。つい先ほど、マークしていた政治家のひとりが吐きました。至急、内々で動いています」
今聞いた状況を頭の中でおさらいして、ジェイルはささやくように尋ねた。
「つまり、未然に防げそうということですね?」
「政府の威信にかけて、そのつもりです」
肩の緊張が解ける。ジェイルはしばらく何も言えないでいた。
「よかった」
細長いため息がもれる。本当によかった、と思った。
ドルーダは着席を勧めた。ジェイルはどっしりとした意匠の応接セットの隅に、遠慮がちに腰掛ける。ほかの大臣方は立ったままだ。
「ご協力に心から感謝しますよ、元陛下」
労いの言葉をジェイルは否定する。
「この国の官憲が優秀だっただけでしょう。私がこうしてわざわざ伝えに来る必要もなかった。ひとりで大騒ぎしてしまいました」
「いいえ、あの動画がなければ事態は変わっていたはずだ。計画を吐いたのは――あなたも会ったことがあるんでしょう、わが党のクィン・エランです」
ドルーダは、スイートルームにいた3人のうち、もっとも若い政治家の名前を挙げた。「首相、そこまで話しては」と国家情報局長が横やりを入れたが、ドルーダは「いいんだ」と制す。
「状況証拠はあったが、なかなかしぶとかった。だが動画を見て、次に告発されるのは自分ではないかという恐怖に駆られたらしい。それよりはと、追及に応じることにしたようです。あなたについて、とても高潔な人間だという印象を抱いていたようですよ」
ジェイルはドルーダの顔を見つめ直した。彼の瞳は青みを感じさせる濃いグレーの色をしており、この街を流れる川の色と似ていた。ニュースで見るよりも理知的な深みがある。
「正直なところ、私たちは当初、あなたもクーデター側の人間だと認識していたんですがね」
ジェイルについてさんざん「現政権に遺憾の意を表明」「ロチャ元将軍が後見人」などと報じられていたのだ。そう受け取るのも無理はないだろう。
「動画についても、目くらまし的なものでは? という意見もありました。一種の陽動作戦かもしれないと。だが私は、信じるに値する動画だと考えた。何故だと思います?」
ジェイルは首を横に振る。
「まさか私の稚拙なスピーチに感動した、なんて理由じゃないでしょう」
「私もランニングが趣味なんですよ、元陛下」
思いがけない回答にたじろぐと、ドルーダは愉快そうに目を細めた。
「高校時代は長距離の選手でね。首相になってからは公邸敷地内で走るに限られているが、あなたが動画で話した景色は、私もよく身に覚えがありますよ。緊急帰国したと言われていたが、普段から走り込んでなければあんなふうには話せない。だから、ニュースのほうが虚偽だと思ったわけです。なんらかの理由であなたは利用されているだけなんだろうとね」
ジェイルの位置からいちばん近い窓にはカーテンがかかっていて、直接外を見ることはできない。だがジェイルには、首都の街並みが透けて見えるような気がした。野生のプルメリアやブーゲンビリアが咲き乱れる、舗装されていないでこぼこの道を、何台ものバイクが連なって走る。脇にはココナッツジュース売りやスイカ売りの手押し車があり、日陰に野良犬や猫が避難している、ヴェイラの街並み。
ドルーダは満足げな表情を浮かべていたが、ややあって口を真一文字に結び直した。
「今夜は、建国祭の式典があります。ぜひあなたにもご登壇いただけないだろうか。15年目の節目に元国王がゲストとして姿を現せば、ヴェイラの民主主義のなによりのアピールになる」
うまいな、とジェイルは思った。ここまでのやりとりで、正直なところドルーダには好感を抱きつつある。そのままこちらの陣営に引っ張ろうというのだ。政治家としてトップに上り詰めるには、このくらいの駆け引きができて当たり前なのだろう。
「クーデター側への勝利宣告にもなって一石二鳥、ということですね」
ジェイルは椅子から立ち上がった。
「恐縮ですが、辞退します。私はあくまで一般人ですので」
後ろの何人かは気分を害した顔をしたが、ドルーダはその答えも予想していたようで、「そうですか。残念ですが」とすんなり引き下がった。
部屋のドアが激しく叩かれ、警備責任者らしき人間が、守衛を連れて飛び込んできた。
「緊急会議中に失礼します。先ほど、王の間で騒ぎがあり、急ぎご報告に上がりました。レックス2世を名乗る者が、隠し扉を使って上階に侵入した模様で――」
連れられた守衛に見覚えがあった。向こうもジェイルに気づき、「あっ、あいつです!」と指差した。
ジェイルは再びホールドアップの体勢を取った。それを見てまずドルーダが笑い、ほかのメンバーも笑った。警備責任者と守衛だけがぽかんとしている。
「報告ご苦労。心配いらない、彼は本物だ。ジェイル・レックス・ハッサ・チュンクリット元陛下その人だ。そろそろお帰りのようだから、ご案内を」
クーデター計画について、詳しい事情聴取は後日行われることになった。さすがにその義務は、一市民として拒否できない。なんだかんだでうまいことドルーダとの間にパイプができたわけだ。
かつてわずか3か月間、自分の執務室でもあった部屋を出て、守衛に先導されながらロココ風の大階段を下りる。磨き上げられた大理石の階段は冷たく艶々としていて、年月を経てなお輝いている。レックス1世が建立したこの宮殿は、この先もヴェイラの象徴として、美しくあり続けることだろう。
念を入れて、業者が使う裏口から抜け出る。建物を伝って、観光客用の入り口に向かった。チセと合流するためだ。もうなにもかも大丈夫だと、一刻も早く伝えたかった。
しかし高揚した気分のジェイルを待っていたのは、固く閉じられた木の扉だった。
「宮殿は、本日17時で閉館しました。もう中には入れません」
閉館時間を過ぎたので、すでに客は全員外に出たという。慌てて出口になっている2階テラスに向かった。景色を眺めている観光客たちのなかに、チセの姿は見当たらない。
「日本人の女の子を知りませんか? 身長150cmくらいで、明るい茶髪のショートカットで、水玉柄のショルダーバッグを持っていたはずです」
ジェイルは入り口に戻り、窓口で駆け込むように尋ねたが、若い女の係員は「こっちも早く帰りたいんだ」という鋭い目つきを崩さない。
「さあ。とにかく30分前に閉館しました」
いつぞやデモが行われていた宮殿の前庭は、建国祭の式典のために綺麗に仕切られ、花とランタンで飾りつけられている。首を左右に振りながら一周したが、どこにもチセの姿はなかった。
確かに待ち合わせ場所を決めていなかったが、だからといってどこへ行くというのだ。宮殿を背後に立ち尽くしていると、方々から声が上がる。
「あれ、レックス2世じゃない?」
違う、いやそうだけど、でも今は放っておいてくれ。心の中で叫びながら、ジェイルは人波をくぐり抜けて走った。連絡をとろうにも電話もないし、よく考えてみれば、そもそもチセの電話番号さえ知らない。
宮殿の丘を下りると、ますます祝祭の気配が濃厚になり、胸をときめかせた人々で街は混雑していた。ジェイルもその中のひとりになるはずだったのだ、ついさっきまでは。
ジェイルは立ち尽くした。分厚い夕陽がその表情を照らす。
――いったいチセは、どこへ消えたというんだ?




