第45話:FACES PLACES
警察官に気づかれないように、そっと玄関を出た。久しぶりに浴びる日光が力強い。数歩行って振り返ってみると、ずっと閉じ込められていた家は、チセが言ったように、なんのことはないよくある小さな民家だった。
通りに出てタクシーを拾おうとしていると、「ジェイルさん!」と名前を呼ぶ声がした。ジェイルとチセを追いかけてきたアンバムだった。
「今朝の時点で、動画見つけてたんです、僕」
前置きなしにアンバムは言った。そんな気配は一切感じさせなかったから、やはり大した少年だとジェイルは思う。
「たぶん10回は見ました」
「やめとけ、目が悪くなるぞ」
照れ隠しの減らず口にアンバムが笑った。タクシーが止まる。先にチセを乗せ、ジェイルはドアに手をかけて振り返った。
「近々で困ることがあったら、あの後藤さんを頼れ。これから大変だと思うが、落ち込むなよ。カヒリとディナラと、恥じずに生きろ」
アンバムが少しだけ不安そうな顔をして、彼が伝えたいことに気づいた。
「またすぐ会いに来るよ」
自分にこんなやさしい声が出せたのかと思う。タクシーのエンジンがかかり、見送るアンバムの姿が遠くなっていく。
自分は人間嫌いだと思っていた。どこにいても居心地の悪い人間だと思っていた。だがそれは、自分自身を知らなかっただけなのかもしれない。アンバムとラーニアには、近いうちに会いに行く。シドニーに妹のダニットを訪ねたいし、母や姉にも顔を見せたかった。タカシにも世話になったから、お礼をしにいかなくては。会いたい人、行きたい場所が山ほどある。
快速で飛ばしていくタクシーの窓から、建国祭だからか、心なしか浮き立っている首都が見える。その景色ひとつひとつが、今のジェイルにはまぶしい。
頭でっかちで、気づくのが遅くて、間に合わなかったものがたくさんあった。きっと傷つけたものも同じくらいあるだろう。数え始めると胸をかきむしりたくなる。しかしそれでもまだ、間に合うものもある。受け入れようと開いてくれている顔と場所が、この世界に残されている……。
そんな静かな興奮は、急停止した衝撃と、タクシー運転手の「あちゃー」という声に遮られた。
「まいった、渋滞だわ」
ジェイルは身を乗り出し、フロントガラスの向こう側を見た。タクシーは街の中心部まで来ていた。このまま行けば宮殿に辿り着く目抜き通りなのに、先が見えないほどの渋滞がそれを邪魔している。
「交通規制だよ、建国祭の」
運転手が肩をすくめた。
「どのくらいかかりますか」
「この調子だと1時間は見たほうがいいね。駅の裏をぐるっと迂回してもいいけど……」
真っすぐ突っ切ればあと15分ほどのはずなのに、そんなに悠長に待っている余裕はない。「徒歩の方が早いかもよ」という運転手の助言に従うことにする。降り際、「あっ、お客さん」と声をかけられた。
今回は顔を隠すことなく、正面を向いて「なにか?」と返す。素性のことを言われるのだろうと思ったら、違った。
「よい週末を」
喫煙者なのだろう、運転手は黄ばんだ歯を見せた。
「さて、どうします?」
手をかざして遠くを見ながら、チセが訊く。視線の奥には、堂々たる威容の白い宮殿が鎮座していた。歩けば40分程度といったところか。しかしこの直線的な日差しと混雑の中、徒歩で進軍するのは無謀に思われた。
そのとき傍らを通り過ぎようとしたものを見て、思わずジェイルは右手を上げて合図した。そのバイクは数メートル先で停止し、サングラスをかけた運転手が振り返る。ジェイルとチセが駆け寄った。
「すみません、宮殿まで乗せてもらえませんか。急いでるんです」
「そういうやり方はしてないんですけど。アプリ使ってもらわないと」
ヘルメットで髪の毛が隠れていてわからなかったが、声を聞いてみれば、チセと同い年くらいの若い女性のようだ。
「知ってます、でもアカウントを持っていなくて。現金で払わせてもらえませんか」
彼女の緑色のヘルメットには、Grabとロゴが入っている。近年爆発的に広まっている、配車アプリのサービスだ。ユーザーが現在地と行き先を入力すると、近くにいる運転手とマッチングできる。支払いは登録済みのクレジットカードで行われるので、現金をやり取りする必要がない。利用したことはなくても、その存在はジェイルも知っていた。
「でもアプリ……」
「スマートフォンを持ってないんです。どうしてもお願いできませんか。前金で払います」
困った客に捕まった、という空気を醸し出していた運転手が、不意にサングラスを外してジェイルを凝視した。
「レックス2世?」
首肯すると、「うっそぉ!」と高い声を上げ、大げさにのけぞる。
「え、マジで? さっき動画見たばっかりなんだけど! ウケる~」
なにがツボに刺さったのかわからないが、彼女は声を上げて笑い続けている。
「やっぱ王様だからスマホ持ってないんですか?」
どういう理屈だと思いつつも適当に頷くと、彼女は「じゃあしょうがないね」と無邪気に笑い、「乗って。ほんとは3人乗りはダメなんだけど」と、親指を立ててバイクを示した。
運転手、チセ、ジェイルの順でまたがる。ヘルメットがたりないのでジェイルのぶんはなしだ。振り落とされないことを祈るしかない。
「じゃ、行きます」
バイクが力強く走り出した。渋滞を横目に、ぐんぐんと速度を上げていく。向かい風がバタバタとジェイルの前髪をゆらす。その隙間から目を細めた。
狭い幅をすり抜けながら先へ先へと進んでいくのは爽快だった。ぐいん、と大きく曲がって車線変更し、車を追い越し、また元の車線に戻る。華麗な運転に思わず感嘆の声が漏れる。この運転手はなかなかの腕の持ち主らしい。
今まで排気ガスと騒々しい音を遠巻きにしているだけだったが、こんなに快適な乗り物だったとは。ヴェイラに住みながらバイクに一度も乗ったことがなかったのは、機会損失だったと認めざるを得ない。ランニングともまた違う気持ちよさがあった。
「ジェイルさん」
信号待ちで止まっていたら、前に座るチセが振り返った。クラクションやエンジン音がうるさくて、「なんだ?」と大声を張り上げる。「不謹慎かもしれないんですけど」と、同じように大声でチセが言った。
「めちゃくちゃ楽しいですね!」
ジェイルの口の端が上がる。100%同意見だった。信号が青になり、再びバイクが走り出す。返事をする代わりに、チセの腰に回した腕にそっと力を込めた。
今、君といっしょにこの街の一部でいることが、本当に嬉しい。
バイクは無事に、観光客でごった返す宮殿のゲートまで着いた。代金を多めに払おうとすると、「そういうのはダメですよ」ときっちりお釣りを返される。
「その代わりにといったらなんですけど、写真、いいですか?」
写真を撮ってほしいのかと思って手を差し出したら、チセが横から「そんなわけないでしょう」とツッコんだ。ヴェイラ語はわからなくても、20代女子として一連のやり取りをみていれば瞭然ということらしい。運転手がヘルメットを外すと、長い髪がこぼれ落ちる。彼女はスマートフォンをインカメラに設定すると、腕を思いきり斜め上に伸ばし、もう片方の手でピースをつくった。ジェイルと、ついでにチセも一緒に画角に収まる。謎のスリーショットの出来上がりだ。
「ヤバい、超自慢しよ」
「公にせず、個人で楽しむ範囲にとどめてください」
「わかりました。あ、降ってきた」
運転手が曇天を見上げる。スコールの前触れだった。
「じゃあ気をつけて」
彼女は座席の下に入っていた雨合羽を装着すると、颯爽とバイクにまたがり去って行った。その間にも雨は勢いを増し、ジェイルのシャツに染みが広がり始める。
「俺たちも行こう」
雨に打たれながら、自然と小走りになる。先週来た観光用の入り口を通り過ぎ、関係者用の入り口を目指した。公用車が直接横づけできるようになっており、ニュースでもよく映っている。というか、そもそも王制時代に公務の出入り口として使われていたのだから、ジェイルが知らないわけはない。
庇のある部分に辿り着いたときには、全身びしょ濡れだった。入り口自体は開け放たれているが、左右に銃を抱えた守衛が立っている。
「首相に会いたいんです。入れてください!」
ジェイルが単刀直入に切り出すと、守衛ふたりは顔を見合わせた。
「お約束が?」
「ないですが、緊急の用です。国家安全保障にかかわることです。首相が無理なら、その下の方でもいい。一刻を争う話です」
いぶかしげな目つきの守衛たちに、ジェイルはカードを切った。
「私はジェイル・レックス・ハッサ・チュンクリットです!」
本名をはっきりと名乗ったことに、胸が昂ぶる。さあ、俺はついに言った。叩けよ、さらば開かれん――。
守衛たちの表情が一変した。左の守衛はあからさまに眉根を寄せる。右の守衛は逆に眉尻を下げ、同情と嘲笑の中間といった顔つきになった。
「なにか、氏名を証明するものがありますか?」
「え?」
「国民登録カードは?」
そんなものは当然持ち歩いていない。財布には現金と、“ジェイル・ジャネイラ”名義のレンタルビデオショップの会員カードしかない。クレジットカードすら持っていないのだ。
「今は持っていません。でも私は本人です」
苦笑を浮かべる守衛に、必死に訴えた。
「ほら、顔をよく見てください」
「見てくださいってあんた……元国王が、こんなよれよれの格好で、無精髭なわけないでしょうが」
ジェイルは口元に手をやった。まったく気づいていなかったが、いつの間にか無精髭が完全復活していた。
「確かにまあ、顔はちょっと似ているけど、元国王ならアポなしで来たりしないでしょう。ここは通れませんよ。帰ってください」
「待って、よく見てくれ」
さらに詰め寄ろうとすると、口をつぐんでいた左側の守衛が銃をガチャリと鳴らし、険しい声を出した。
「これ以上わずらわせると、実力行使に出るぞ」
職務に忠実な屈強な守衛を振り切って突入するのは、現実的ではなかった。仮にここを通り抜けたとしても、奥のほうに駅の改札口のようなゲートが見える。専用のIDカードをかざさなければ開くまい。
でも、俺が俺だと、どうやって証明しろというんだ?
近くて遠い入り口を見つめながら、ジェイルは呆然と後ずさるしかなかった。




