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第44話:最初で最後の

 本当に身の危険にさらされたとき、簡単に逃げたり立ち向かったりできないものだとジェイルは実感した。まるで凍らされたように体が動かない。ただナイフの先を凝視しながら、大きく唾を呑み込むことしかできない。

 伝わった、わかってくれたなどど、安易に喜んではいけなかった。ジェイルができるのは自分の意見を渡すことまでで、相手がどう受け取り、返してくるかは、力の及ぶところではない。その厳然たる真理をこの数日間いやというほど実感して、わかっていたはずだったが、それにしたってこれはとジェイルは思った。それにしたってこれは、打つ手がなさすぎる。

「それを、しまってくれないか」

 なんのひねりもない頼みですら、声がかすれてしまう。せめて懇願調にならないように言うので精一杯だった。

「危ないから」

 緩慢な動作で1歩、2歩と後ろに下がった。しかし背後は窓だ、なんの解決にもならない。それ以上の言葉を継げずにいると、ジェイルが怯えているのにたった今気づいたとでもいうように、ヌアークが心外そうな顔をした。

「勘違いをしていらっしゃいます。まさか私が陛下を傷つけることなど、絶対にあるはずがありません」

 ヌアークは悲しげに笑った。ジェイルが初めて見たヌアークの笑顔だった。

「私はただ、ご覧に入れたいのです。この身を捧げる覚悟だという言葉に、嘘偽りがないことを」

 それがつまり何を意味するのか、耳にしただけではわからなかった。ジェイルの目線がヌアークの瞳から口元、首筋へと辿り、ナイフの刃先が突きつけられているのを目にして、ようやく認識違いに気づいた。ヌアークが狙っているのはジェイルではなく、ヌアーク自身だ。

「つまらない脅しはよせ」

「脅しではございません」

 ヌアークが即答したが、ジェイルにもわかっていた。だがそれでも否定しなければいけない、こんな馬鹿げた悪夢は。

「お前が自分を傷つけたからといって、俺の気持ちが変わることはない。クーデターが成功することも、王制が復古することもない」

「存じております。しかし陛下のお心にほんの少しでも跡を残せるなら、充分です」

「思い上がりだ。俺にとって無意味な行為だ」

「いいえ、陛下はおやさしいから」

 ヌアークは目を細めた。

「現に陛下は、泣きそうな顔をしていらっしゃるではないですか」

 勘弁してほしかった。本当に、何もかも。

 ヌアークがナイフを握る指に力を込めた。

「ご機嫌よう陛下。お会いできて光栄でした」

「馬鹿、やめろ」

「チュンクリット王朝万歳!」


 数秒後の世界のイメージが、ジェイルの脳裏に点滅する。ようやく足が動き、手を伸ばす。だが間に合わない。ほんのわずかな距離のはずなのに、届かない。

 ジェイルとヌアークの距離は、そのままジェイルとこの世界の距離だった。届かないまま、間に合わないまま、終わってしまうのか。


「やめなさい!」

 部屋ごと震わせるような大声が、そのとき響いた。

 ジェイルも、そしてヌアークも、動きを止めて声の持ち主を見た。ドアノブを握りしめ仁王立ちしていたのは、カヒリだった。息子を凝視し、顔いっぱいに怒りをみなぎらせている。

「この、大馬鹿者が……」

 絞り出された言葉を合図に、ジェイルの足が床を蹴る。右手でヌアークの手首をつかみ、左手でナイフの刃先を包む。手のひらに切り込みが入る感覚があった。

「ヌアーク」

 立ち尽くす男を見上げてジェイルは訴えた。

「お前は死ねない」

 ヌアークは目を見開いたまま何度も首を横に振ったが、比例してナイフを持つ力が弱まっていく。

「こっちです、こっち。はやく!」

 玄関のほうからアンバムの声がした。一緒に、複数の足音が聞こえる。

「おばあちゃん!」

 切羽詰まった顔でアンバムが駆け寄ってきた。走って息が上がっている。その後ろから紺色の制服を着た警察官が現れた。

「あんた、何やっているんだ」

 慌てた様子で、警察官がヌアークをジェイルから引きはがす。ヌアークは抵抗せず、ナイフが床に落ちて音を立てた。

「ジェイルさん、大丈夫ですか!?」

 そう言って部屋を覗き込んだのはチセだった。状況が飲み込めず、ジェイルは放心状態のままだ。

「わわ、血が出てるじゃないですか!」

 手のひらを開くと、横断するようにぱっくりと切れ、血が溢れて腕を伝っていた。鉄の混じった匂いを嗅ぎ、ようやく実感が戻り始める。

「いや、大丈夫だ」

 自分自身に言い聞かせるように、ジェイルは繰り返す。

「もう大丈夫だ」

 気づけば不安そうな表情のディナラと、さらに見知らぬ白シャツ姿の男もいた。狭いスペースに人があふれ、にわかに慌ただしくなる。ジェイルは深く息を吐き出した。


 アンバムいわく、激昂したヌアークを止めるために大人の男の手を借りようと、彼は近くの交番に駆け込んだ。そこにちょうど、チセと、彼女が連れてきた日本大使館の職員もおり、結果的に一緒になったということだった。

 今度はチセが事情を説明する。

「この家から脱出して、なんとかタクシーは捕まえられたんですけど、渋滞がすごくて。10時過ぎに日本大使館に着いたら、そっからまた長くて」

 財布も携帯電話ももたない女子大生がクーデターを訴えても、さすがに眉唾物だったらしい。半信半疑の職員たちに説明し、Youtubeの動画を検索して見てもらったが、それでもなかなか動いてはもらえなかった。

「そしたら、平間准教授から日本大使館に、私の安否の問い合わせが入ってることがわかりまして」

「タカシが?」

 思わぬ名前が登場したので、ジェイルは聞き返した。

「ジェイルさんも私も急に連絡が取れなくなったから、なにか事件に巻き込まれているんじゃないかということで――。そうしたら、こちら後藤さんっていうんですけど、平間准教授のことをご存知だったんです」

 後藤という職員は肌が浅黒く、目がくぼんだ顔立ちで、ジェイルよりもよほどヴェイラ人のような風貌だった。事件の現場に居合わせた興奮からか、声が少々うわずっている。

「以前出た学会でご一緒したことがあり、お名前だけは。あ、私はⅠ種の国家公務員ではなく、派遣の専任研究職という立場で大使館に勤めております。前職は大学で講師をしておりまして」

「それで私の話も信じるに値する、と納得していただいて。とはいえ日本大使館として公式に動くのは難しいってことで、後藤さんがここまで個人的に同行してくれたんです」

「建国祭ということで、たまたま午後休をとっていたもので」

 時間がかかった経緯が理解できた。ジェイルが「本来ならお休みのところ、申し訳ありません。お礼申し上げます」と流暢な日本語で頭を下げると、後藤も「いやいや」と恐縮してみせた。

「それで、交番にいたのは何故なんだ?」

 尋ねると、チセが言葉に詰まり、大きな黒目を左右に動かした。

「ぶっちゃけ、道に迷っちゃって」

「は?」

「私、地図読んだり道覚えたりするの苦手なんですよ~。普通の住宅街だから目印もないし。この家の場所がわかんなくなっちゃって、しょうがないから交番で、『カヒリさんとアンバム君とディナラちゃんって家族の家を知りませんか』って……」

 リビングのソファにもたれかかりながら、ジェイルは脱力した。この家で文字通りの死闘を繰り広げていた頃、交番でそんな牧歌的なやりとりがなされていたとは。あと15分早く来てくれていればと思わないわけでもないが、実際、チセは異国の地で、助けを連れて戻ってくるという偉業を成し遂げてくれたのだ。感謝しこそすれ、文句など言えない。

 ちなみにユナルは、チセがこの家に来た時点では姿を消していたという。今頃、空港のファーストクラスラウンジにでもいるのだろう。機上の人になればもう手出しはできない。

 結局うまくやられたのかもしれない。だがジェイルは最後に目にした、ユナルの怯えた表情が忘れられなかった。狡猾で計算高い叔父が、あの瞬間はただの老人だった。言いたいことは山ほどあるものの、とにかく大事に至らなくてよかったというのが、いちばん素直な気持ちだった。

 そして肝心のヌアークは、ずっと口を閉ざしている。やって来た警察官には、誘拐やクーデターのことは伏せ、「自傷行為を止める過程で、結果的にジェイルが怪我をした」とだけ伝えてあった。監禁部屋でヌアークに対応している若い警察官は、ジェイルが誰だかまだ気づいていないようだ。

「後藤さん、ご迷惑をかけておいて申し訳ないですが、ついでに頼まれていただけますか」

「乗りかかった船ですので」と後藤が頷く。

「クーデターを止めるために、今から行かなくてはいけない場所があります。あの警察官に何か聞かれたら、適当に誤魔化しておいてもらいたい。できれば子どもたちのケアも」

 ヌアークに没収されていた財布やチセの荷物は、すでにカヒリの手によって戻されていた。

「承知しました。でも、どちらへ?」

 ジェイルは腰を浮かせながら、視線をテレビのニュースに移した。画面ではちょうど、建国祭の準備が着々と進んでいることが、現場からレポートされていた。

 ドルーダ首相をはじめ、政府の中枢が今日集まる“現場”といえば、ひとつしかない。

「宮殿へ」


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