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第43話:大引け

 ふんと鼻を鳴らして、ユナルはジェイルの顎から手を離した。左手首の腕時計を確認すると、ジェイルの手元のスマートフォンを奪い取り、どこかに電話をかける。

「ああ、私だが。全部売ってくれ。そうだ、今すぐ、すべてだ」

 あっという間に電話を終えると、ユナルは振り返らないまま、後ろに控えているヌアークに指示を出した。

「手錠を外してやれ」

 ヌアークが戸惑いの表情を浮かべた。注文は理解していても踏ん切りがつかない様子が、向かいにいるジェイルにも伝わってきた。

「外せ。そもそもお前ごときが独断で手錠をかけていい相手じゃない」

 ユナルの声音が刃物のように鋭くなる。

「承知しました。申し訳ございません」

 ヌアークが大きな体をかがめて、ジェイルの手首の鎖を恭しく触った。外されることを熱望していたのに、こんなふうに叔父に使役されるヌアークを見ると心が痛む。重苦しい音とともに、錠が外れる。金具に触れていた部分が赤みを帯びて、外してもなお、そこだけ薄朱のリボンを結んでいるように見える。

「ああそうだ、もう1本電話するのを忘れていた」

 緊張が続く部屋の空気に我関せず、ユナルは再び電話をかけた。通信音からして、国際電話のようだ。ユナルが電話の相手に指示する。

「今から2時間以内に空港に着く。最短の航空券を取ってくれ。ああ、今日中にヴェイラを発つ」

 ジェイルはもちろん、ヌアークも、何を言っているのかわからないといった顔でユナルを見ていた。通話を終えたユナルが澄ました顔で言う。

「というわけで、予定変更だ。私はシンガポールに戻ることにするよ」

「クーデターは」と問うジェイルに、ユナルは肩をすくめた。

「私はあくまで資金提供と、元王族の人脈を紹介するという役割だった。最後まで見届ける必要も義務もない。極論を言えば、私自身は、成功しても失敗してもどちらでもかまわないんでね」

 信念も何もない振る舞いに、やはりこれがこの叔父の本性だとジェイルは確信した。しかしまだ、ユナルがこのクーデターに加わった理由は解決されていない。

「じゃあ、あなたはなんのメリットがあって、計画に加担したんです」

 ユナルは机に置かれていたグラスに煙草の吸殻を落とした。水に灰が広がって染まる。

「動画に気づいたのが13時前で助かったよ。あと1時間遅かったら、おおごとだった」

 意味を計りかねていると、私は投資家だよ、とユナルが笑う。

「ヴェイラ証券取引所の相場が大引けするのは、いつだ?」

「それは、平日の15時……」

 口にして、ジェイルはようやくすべてを理解した。ユナルがこの計画に乗った理由。先ほどの電話の「全部売れ」という指示が、なにを意味していたのかも。

 クーデターが起きれば、間違いなく金融市場も影響を受ける。政情不安から売りが横行し、平均株価や債券価格は大幅に下落する。一方で新政権に関連した銘柄であれば、その後の伸びが期待できる。

「クーデターの内部情報を投資の道具にする。そういうことなんですか」

「正確には、“するつもりだったが、残念ながらできなかった”だな」

 こともなげにユナルは答えた。

「ヴェイラ毎日新聞やロチャ元将軍とつき合いのある軍事関連企業の株を買っておいたが、たった今手放した。君の活躍のおかげで、クーデターは不発に終わると判断したからだ。金曜のこの時間と週明けでは、市場の状況が一変しているはずだから、間に合ってよかったよ」

 ジェイルの物言いたげな目つきに、ユナルは皮肉そうな微笑で返答する。

「投資家は判断スピードが命だ。そりゃクーデターが成功して関連株が高騰するのがベストだったが、そうなりそうにない以上、いちはやく損切りするのが次善策だよ。様子を見て、底値でまた買わせてもらうさ」

 ユナルの損切りの早さは15年前から知っていた。なんといっても、王家を最初に見限って、資産を国外に動かした男だ。投資家として有能なのは事実だろう。ユナルがクーデターから手を引くことも、ジェイルにとっては喜ばしいはずだ。それでもジェイルはやりきれないものを感じ、自分によく似た顔の叔父をただねめつけるしかなかった。

「さ、私は去るとしよう。車を出してくれ。ホテルの荷物は、コンシェルジュに空港まで届けさせるよう言ってくれ」

 その指示に反応する者はいなかった。ユナルが怪訝な顔をする。

「なんだ、聞こえなかったのか?」

 なおも返事はない。ジェイルも声がかけられた方向に視線を動かし、はっと息を呑む。

 ヌアークは微動だにしないまま宙を見つめていた。視線は真っすぐだが、何も見えていないという佇まいだった。無表情というのとも違う。胸の中であふれ返っている感情をどう処理していいかわからない、そんなふうにジェイルには見えた。彫像のようでありながら、むしろ出会ってからもっとも人間らしい気配をまとっていた。

 ヌアークはゆっくりと、両の手のひらで顔を覆う。その姿勢でしばらくじっとしていた。ジェイルもユナルも一言も発せられなかった。よく見ればヌアークの体が、小刻みに震えている。そして地の底から這い出るような声が聞こえた。

「どうして」

 悲痛としか言いようがない響きだった。

「どうしてなのです、どうして……」

 ユナルがわざとらしくため息をつく。

「君のクーデターに懸ける熱量は知っているが、感傷に浸るのは後にしてくれないか。飛行機に間に合わなくなると困る。空港まで送ったあとは、ロチャ元将軍たちと合流するなり、好きにするがいい」

 そんな呼びかけもまったく耳に届かないかのように、ヌアークは大きな体を震わせながら、ぶつぶつとつぶやき続けている。ユナルは小さく舌打ちし、ジェイルの横を通り過ぎて、ヌアークの肩に手をかけようとした。

「触るな!」

 電流に触れたように、ヌアークはその手を振り払う。

「無理だ。信じられない。騙されていた。売国奴め。私は……」

 呆気にとられているユナルの横で、ヌアークは心ここにあらずと言った様子で、問いかけとも独り言ともつかない言葉を吐き出し続ける。

「ヌアーク、落ち着いてくれ」

 ジェイルがなだめるように言ったが、それが逆効果だった。宙をさまよっていたヌアークの視線がジェイルの両目に定まる。血走った目つきに不穏なものを感じ、ジェイルの背に緊張が走った。

「落ち着く? どうして落ち着いていられますか? 私が心血を注いできたことが、今まさに瓦解しようとしているのに? ほかでもない、あなたがた王族の手によって」

 これまでのヌアークからは想像できないほど饒舌だった。すでに悲しみや失望といった感情は通り過ぎ、彼の顔や声には憤怒や怨嗟に近いものがちらついている。

「陛下、どうして、いったいどうしてなんですか」

 ジェイルが答えられずにいると、気を取り直したらしいユナルが「いい加減にしろ」と声を荒げ、ヌアークの腕をつかもうとした。

「いま陛下と話しているんだ!」

 ヌアークに思いきり突き飛ばされ、ユナルの背中がドアに激しく打ちつけられた。衝撃で腰を抜かしたのか、ユナルはそのままへなへなと床に座り込む。

 ジェイルの額に冷や汗が浮かんだ。どう考えてもまずい事態になりつつあった。

「叔父上、部屋から出てください」

 息を荒げるヌアークと、呆然として動けないユナルを交互に見やりながら、「はやく」と促す。

「あ、ああ」

 なんとかユナルがドアノブを回し、ずり這うように出て行った。ドアの隙間の向こうに、不安そうな表情が見えた。アンバムだ。

「ここから離れているんだ。ディナラと一緒に」

 ジェイルがすべて言い終わる前に、ヌアークがドアを閉めてしまう。そしてドアを塞ぐように立ってジェイルと向き合った。

「陛下」

 ヌアークが上司を殴った話を思い出しながら、ジェイルは間合いを取る。

「私は……私はっ」

 ヌアークが語ろうとするが、興奮で息が上がり、次が続かない。どんどん呼吸がはやく、荒くなっていき、顔色が青ざめ始めた。ジェイルは思わず駆け寄り、彼の肩と胸に手を置いた。

「ゆっくり息を吸って、深呼吸しろ」

 寄宿舎時代、興奮した同級生が過呼吸になったのを何度か見たことがある。今のヌアークは同じような状態だった。

 当時の教師の対応をなんとか思い出しながら、ジェイルは症状を鎮めようとする。

「そう、ゆっくり」

 言われたとおり、ヌアークがすーはーと呼吸を繰り返すと、少しずつ体の震えがおさまってくる。こんな大きな身体でも抑えきれないほどの感情が渦巻いているのだと思うと、ジェイルは恐怖よりもむしろ憐れみを感じてしまった。

「大丈夫そうだ」

 ジェイルは手を離し、一歩下がる。ヌアークはしばらく呼吸を整えたのち、ぽつりと言った。

「やはり、陛下は素晴らしい方です」

 先ほどまで発火しそうだった空気が、凪の時を迎えていた。

「自分のことは二の次で、常に他人に気を配っていらっしゃる。こんなあばら家に監禁されてもなお、圧倒的に高貴だ。……私はあなたのことを、本当に尊敬しているのです」

 不思議なことに、それは愛の告白にも似ていた。ジェイルは最大限の尊重をもって言った。

「わかっている。俺だって、ここまでされても、お前のことを嫌いにはなれない」

「それでも。どうしても、受け入れられないとおっしゃるのですか」

 すがるような視線に胸は痛めど、答えは決まっている。

「ああ、それでもだ」

 ヌアークはうなだれ、なにもかも受け入れたかのように、大きくゆっくりと息を吐いた。だが顔を上げると、その瞳には再び炎がくすぶる。

「申し訳ございません陛下。それではもう、私にできることはひとつしかありません」

 そう言いながらスーツの内ポケットから取り出したものを見て、ジェイルはさすがに戦慄した。よく磨かれた鋭いナイフが、ヌアークの右手に収まっていた。


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