第42話:ずっと片思い
チセが最速で大使館に辿り着いたとして、9時半。大使館員に事情を説明して、警察や外務省にまで話がいくとなると、少なく見積もっても2~3時間はかかるだろう。
待つしかないといっても、ただ座っているわけにもいかない。部屋に戻ったジェイルは、ランニングの代わりに筋トレすることにした。手錠がつけられていてもできるものと考えて、とりあえず腹筋を始めた。
10回、20回と繰り返していくうちに、額に汗が滲み始め、頭がクリアになっていく。子どもの頃から球技の類はまったく好きになれなかったが、走ることを覚えてから、運動自体に苦手意識はなくなった。ランニングや筋トレは確かに苦しいが、没入していると、自分の中が真空になるような瞬間がある。学問にも通ずるところがあるようにジェイルは思う。
100回を超えたところで数えるのをやめた。ふと『オールドボーイ』という映画のことが頭に浮かぶ。理由もわからず何年も監禁された男が、トレーニングに励む描写がある。男は孤独の中で自分を鍛え続け、解放後に復讐に打って出る。10年以上にわたって牙を剥き続けるというのは、どんな心境だろうか。人生の拠り所としての復讐の炎。ヌアークの内側にも同じような熾火があるのかもしれない。そして、燃えきったあと、そこには何が残るのだろう。
動きを止め、荒い息を整えた。冷房が効いているのに汗がひっきりなしに流れる。しばらく休み、別の動きにとりかかろうかとしたとき、ドアがノックされ、アンバムが顔をのぞかせた。
「入ってもいいですか?」
ジェイルが頷くと、アンバムが後ろ手で戸を閉めながら「すごい集中力ですね」と感心したように言った。
「見ていたのか」
「すみません、ドアの隙間から」
「監視するのがお前の仕事だろう、謝ることはない。どうした?」
何か用があるのかと思ったが、アンバムはベッドの端に腰かけたまま、自分の膝のあたりを見つめている。純粋に喋りに来たが、会話を始める糸口がつかめないのだと気づいて、ジェイルはつい笑みがこぼれた。
「退屈だよな、せっかくの夏休みなのに」
本来ならアンバムもディナラも、日中は友だちと遊びに出かけたいだろう。見知らぬ男を見張るために、せっかくの建国祭の週末を家で過ごさなければいけない彼らに、ジェイルは改めて同情した。
「話し相手になりたいところだが、謝らなければいけない。正直なところ、俺は、ロックは全然詳しくないんだ」
「そうなんだろうなと思ってました」
でもいいんです、とアンバムは続けた。
「ロックじゃなくても、好きな音楽、教えてほしいです」
自分の趣味なんてたかが知れている。それでもアンバムは素直に興味を示してくれた。目の前の男の子は、元国王というフィルター抜きにジェイルを見てくれている。それが嬉しかった。
「俺は歌詞の主張が強い曲は苦手なんだ。だからロックはもちろん、ポップミュージックはほとんど聞かない」
ジェイルはデスクの椅子に腰掛け直し、アンバムに向き直った。
「ただ、音楽を聴くこと自体が嫌いなわけじゃない。仕事をしていて気分転換したいときや、寝る前の時間に、インターネットで外国のラジオを流したりする。チェコとかアイスランドとか」
アンバムが目を丸くする。ジェイルは「さすがに言葉はわからないが」と補足した。
「でも、それがいいというか。全然知らない土地の、全然知らない言葉の音楽を聴くと、淋しさと安心感みたいなものを両方感じることがある。孤独だけどひとりじゃないような感覚になるんだ、説明が難しいけど」
自分自身は故郷のアパートの一室にいるのに、不思議な郷愁に包まれることがある。10代前半でスイスに留学したばかりの頃に感じていた、頼れる者のいない寄る辺なさと、でも自分はやるしかないのだという矜持にも近いかもしれない。
「なにか流してみましょうか」
アンバムがタブレットの画面に指をすべらせた。
「いいのか」
「一曲くらいなら」
特に意味はないが、なんとなく思いついて、リトアニアの曲をリクエストした。アンバムがYoutubeで適当に選んだ曲が流れ始める。ピアノと女性ボーカルの静謐な曲だった。想像上のリトアニアの森の風景が、頭の中に生まれる。おそらく今後の人生で二度と巡り合わないだろう曲に、ジェイルとアンバムは耳を傾けた。
3分ほどで音楽は終わり、部屋が湿ったヴェイラの空気に戻った。
「こんなふうに、音楽の聴き方ひとつにしたって、俺は面倒くさい人間だろう? なのに、付き合ってくれてありがとう」
謝意を伝えると、どういたしましての代わりに、アンバムが訊いた。
「ジェイルさんは、ヴェイラのことは、好きですか?」
唐突な質問に感じたが、きっとアンバムがジェイルと接してきたなかではつながっているのだろう。ジェイルはしばらく首を傾け、言葉を選んだ。
逃げるように去り、そして何年もかけて戻ってきた祖国。私は君ほど憎んではいない、とユナルが言ったとき、返す言葉がすぐに出なかった。確かに鬱屈した思いはある。でもけっして憎しみなどではない。
「ああ、好きだよ」
認めてしまえば簡単なことだった。今の自分はちゃんと、適切な表現を知っている。
「むしろ、ずっと片思いしてる感じだ」
昼食を断り、ジェイルはまた部屋でひとりで過ごしていた。朝食が十分な量だったからというのが大きいが、やはり緊張しているのだろう。チセは無事にたどり着いただろうか。クーデターに間に合うだろうか。なるべく心を平らに保つよう努力しつつも、壁にかかった時計の針が進むにつれて、不安と焦りがにじみ出る。
14時を回った。チセが脱出してから5時間。今夜クーデターが起きるなら、残された時間はもう多くない。
耐えきれずに立ち上がったそのとき、家の前で車が停まる音がした。そして、複数人の足音。全身が耳になったように緊張で張り詰める。警察なら、ドアのチャイムが鳴らされるはずだ。だがもし、ヌアークたちなら――。
乱暴に開錠される音がした。間髪おかず、ジェイルの部屋のドアノブも動く。ジェイルは、口を引き締めたヌアークに先導された、小柄なシルエットを認めた。
「ふうん、ここが君のロンドン塔ってわけだ」
薄ベージュのリネンスーツに身を包んだ叔父は、部屋を見渡すと、手入れされた髭を指でなぞった。
「つまり幽閉の結果、俺は殺されるということですか」
「まさか。まだエリザベス1世になる可能性だってある。といっても、ほかならぬ君自身が望んでいなければ無意味だが」
ユナルはジェイルの手首を一瞥し、大げさにため息をつく。
「手錠までかけたと聞いたときは、やりすぎだと思ったんだけどね。まったく、こちらが考えてた以上に君はしぶといんだな」
ユナルが上着のポケットからスマートフォンを取り出し、ジェイルの顔面に突き出した。
《――私はジェイル・レックス・ハッサ・チュンクリットです。どうしても自分の言葉で――》
画面では、1日前のジェイルが、カメラを見て訥々と話している。
「この壁の前が撮影場所か。電子機器に疎そうなタイプだと思っていたのに、Youtubeとは。アカウントはあの日本人のものかな。彼女の入れ知恵かい」
「……再生回数は」
「800ちょっと」
少なくはないが、けっして多くもない。失意に襲われそうになるのを、続くユナルの言葉が押しとどめた。
「というのは、この動画に我々が気づいた1時間前の数字だ。そして今は……」
更新ボタンを押したユナルが、顔をしかめる。
「1万」
信じられない数字がジェイルの耳を貫いた。
「短時間で爆発的に増えている。10代を中心にSNSで拡散されているようだ。これは、動画を消したらといって、なんとかなるものでもないんだろう?」
問われたヌアークが険しい顔で頷く。
「すでにほかの媒体にも転載されているようですので、完全に消すことはできないかと」
ユナルはベッドに腰掛けて脚を組むと、誰に断ることもなく、煙草を取り出して火をつけた。
「この動画は、具体的に今回の計画を指摘しているものじゃない。私はもちろん、ロチャ元将軍やムラト教授の名前も出ていないから、告発としては大した意味がない。しかし厄介なことに、君は意外と、パフォーマンスの才能があるらしい」
ユナルがつまらなそうに、スマートフォンをジェイルに投げてよこした。画面をスクロールすると、動画につけられたコメントが次々と現れる。
〈これってニセモノ?ホンモノ?〉
〈ヤバいウケる。元国王、Youtubeとかやるんだ〉
〈真偽不明だけど、言ってることはマトモだね〉
〈シェアした。割とじんときた〉
スマートフォンを握るジェイルの手が、かすかに震えた。
「我々としては、君がクーデターを阻止しようとする以上、急病で療養中とでもいうことにして、しばらく大人しくしてもらいたかったんだが…。このタイミングで君が音信不通になれば、当然、因果関係が疑われる。私しか君の居場所を知らないというカードが、裏目に出る」
突然ユナルが立ち上がり、煙草を持ったままの右手をジェイルの顔に伸ばした。強い力で、顎をがっつりと掴まれる。
「困った子だよ。私は昔から君のことを買っていたんだけどな。この目も鼻も唇も、完全に姉上……ジャネイラ家の遺伝だ。頭の中身だって、暗愚な父親に似なくて安心していた。だから、もっと話がわかると思っていたのに」
ユナルの指先に力が入る。人差し指と中指で挟んだ煙草から立ち上る煙が、ジェイルの肌をなぞりながら天井へと昇っていく。ジェイルは顎をつかまれたまま、叔父をまっすぐに見据えた。
「一昨日ラーニア様には、こう言われましたよ。俺はとてもチュンクリット家らしい顔をしていると」
ユナルの片眉が上がる。
「どちらも正解なんでしょう。みんなそうやって、好きなように言うし、他人に見たいものを見出す。だからこそ俺は自分の頭で考えて、自分の気持ちを信じる。それだけです」
さあ手を離してください、ジェイルはそう毅然と告げた。




