第41話:脱出決行
高い声で鳥が鳴いた。本格的に朝が訪れる合図だ。その前に、リビングを離れなければいけない。
ジェイルはチセの肩に預けていた頭を起こした。目を閉じている間に考えていたことを反芻し、静かに口に出す。
「脱衣所の上部に、人ひとりが通れるくらいの窓がある。鍵はかかっていない。俺は手錠のせいで無理だったが、もしかしたら」
「……私なら、脱出できるかもしれない?」
薄目をあけて、チセがジェイルに視線をよこす。いつからかはわからないが、起きていたようだ。もしくはジェイルと同じく、目を閉じていただけで、眠ってはいなかったのかもしれない。
「日本大使館に行って、事情を説明してほしい。ヌアークが、ここは3区だと言っていたから、タクシーで30~40分のはずだ」
言うは易しだが、実行するのは大変だ。無事に出られるとは限らないし、なんといってもチセは言葉を話せない日本人だ。しかも、持ち物を没収されている……そこまで考えて、ジェイルは天を仰いだ。
「タクシーに乗る金が、ないか」
徒歩で行くのもさすがに無理がある。計画がもう詰んでしまった。顔をしかめるジェイルの横で、チセが口を動かした。
「ケレ パヌ タッ」
ジェイルは、チセをまじまじと見る。
「合ってますよね? ヴェイラ語で『支払い 待って すぐ』って意味で」
文章ではなく単語の組み合わせだが、確かに意味は通じる。昨日の語学講座で、それぞれの言葉を教えた記憶があった。
「9時に大使館が開くのを待って、タクシーで乗りつけて、お代は大使館の人に頼んでなんとかしてもらいましょう。おととい行ったときに窓口の人と仲良くなったし、私の身元も向こうはわかってる。あ、『日本大使館まで行ってください』の言い方も教えてください」
ジェイルはひそかに感心した。チセの行動は豪胆すぎるし危なっかしいが、目標までの最短ルートの見極め自体はいつも鋭い。
「ジャーナリストもいいが、経営者のほうが向いているんじゃないか? それか、政治家」
思わず伝えると、珍しくチセが露骨に嫌そうな顔をした。
「やですよ、面倒くさそうじゃないですか」
「……だな」
脱出決行は9時前。カヒリ、アンバム、ディナラの気を引く役はジェイルが担う。いざとなったら仮病でも使おうと心に決めた。
気づけば、窓の外の空がだいぶ白んでいる。十分に計画を煮詰めたとは言い難いが、あとはその場で臨機応変に動くしかない。
ジェイルはソファから立ち上がる。興奮と眠気が入り混じった不思議な気分で、チセを見下ろした。チセがすっと右手を伸ばす。
「成功させましょう」
チセの、冷たくてやわらかい手を握り返した。前回こうしたときは、焦燥に駆られ、不安でいっぱいだった。今も不安がないといえば嘘になるが、それよりも心強さが勝る。チセとなら、なんとかなりそうな気がしてしまう。不思議な勇気が湧いてくる。言うと調子に乗るだろうから、心の中にしまっておくが。
「すべてが終わったら…」
我知らずそう口にしていた。続きを言えないでいると、チセが小首をかしげる。ジェイルは一呼吸おいて続けた。
「インタビューを受ける。なんでも聞いていい」
「たとえば、初恋の話でも?」
眉間にしわが寄ったが、真顔に戻して「なんでも、だ」と首肯した。チセが口角を上げて微笑む。
「楽しみです。そのためにも頑張りますよ」
ジェイルは相棒に向かって頷き、握る手に力を込めた。
「よろしく頼む。信頼している」
足音を消して廊下を渡る。部屋に滑り込んでからも、ジェイルはドアノブを握ったまま、しばらく息をひそめていた。頭に浮かぶのは、先ほどの会話のことだ。
お礼も兼ねて取材を受ける。それも本心だが、あの瞬間、本当に言いたかったことは別にあった。天啓のように降りてきたそのイメージに自分自身の理性が追いつかず、うまく言葉が紡げなかった。今だって、まさかという気持ちもある。
すべてが終わったら、チセをお気に入りの食堂に案内したい。人目を気にせず、スパイスをもみ込んで油で揚げたチキンや、香草たっぷりの汁麺を食べて、明るいうちからビールも飲む。そしていい気分でアパートに帰るのだ、ふたりで一緒に。
8時頃、ジェイルの部屋に朝食の準備ができたことを告げにきたアンバムは、少し寝不足そうではあったものの、昨夜の狼狽の影は見られなかった。リビングに行ってみると、カヒリもまた、昨晩はやく寝落ちしてしまったことなどなかったように、淡々と家事をこなしていた。
監視する側、囚われている側という関係のはずだが、いつしか共同体のような感覚が、この家で醸成されているのをジェイルは感じた。だからこそ、カヒリたちを裏切ることになるのは気が引ける。だが、それこそヌアークの狙いどおりなのかもしれない。
そんななかで、ディナラとチセは、引き続きはしゃいでいた。
「ねえねえ、日本は、サムライがいるんだよね?」
ディナラは相変わらず日本に興味津々のようだ。
「うーん、サムライは……今もうあんまりいないかな」
思案顔でチセが答える。
「でもね、ニンジャはいるらしいよ」
ディナラの顔がパッと輝いた。
「ほんと!? ニンジャと知り合いだったりする!?」
「うちの祖先は伊賀市の出身らしいから、もしかしたら血が流れてるかも」
「すごーい!! なにかワザが使える?」
「術は使えないけど、高いところや狭いところは得意かな」
訳してやりながら、本気かよと、ジェイルは内心ツッコむ。こんなゆるいノリで本当に脱出できるのだろうか。
9時5分前になった。部屋にかかっている時計を見たあと、ちらりとチセを見やる。チセも目の端でジェイルの視線をとらえた。
「あー、朝ごはんおいしかったー! ごちそうさまでした」
チセが合掌して頭を下げると、ディナラも「ゴチソウサマデシィタ」と倣う。チセはそんなディナラに、口を磨くジェスチャーをした。
「ディナラちゃん、歯磨きしない?」
「うん、する。お祖母ちゃん、一緒に行ってもいい?」
カヒリは少し考えたあと、「すぐ戻るのよ」と答えた。チセとディナラが手を取り合って脱衣所に吸い込まれていき、引き戸が閉じられた。
「へ?」
ジェイルがぽかんとする。カヒリ、アンバム、ディナラの気をそらしているうちに、チセが脱衣所の窓から逃げる手はずだと思っていたのに、ディナラと一緒に行ってしまっては意味がないではないか。
扉の向こうからは、楽しげに歯を磨く声が聞こえてくる。しばらく呆然としていたジェイルだったが、すぐ近くにアンバムがいるのを思い出し、あわてて体の向きを変えた。平静を装いつつ、気を引かなければ。
「そうだ、今日は音楽の話をするんだった。えーと、フォールズ以外にはどんな音楽を聴いてるんだっけ?」
アンバムは例のごとく、タブレットを抱えながら、バンドの名前を口にした。
「ブリング・ミー・ザ・ホライズンとか、キャットフィッシュ・アンド・ザ・ボトルメンとか」
ヤバい、まったくわからない。
「イギリスのバンド……だよな?」
アンバムが、なぜ当然のことを訊くのかといった表情で頷いた。脱衣所からドタドタと響いてくる音を聞きながら、ジェイルは必死に続ける。
「王道のバンドは聴かない? コールドプレイとか」
アンバムが眉根を寄せる。
「コールドプレイって、年寄りが聴くものじゃないですか」
ジェイルは素直に傷ついた。コールドプレイなんて、まだ最近のバンドだと思っていたのに。「The Scientist」がそこらじゅうのラジオでかかっていたのが、つい昨日のことのように思い出せるというのに。
「そうか。流行ったの、俺が学生の頃だもんな……」
自分の一言が32歳の男を打ちのめしたことに気づいたのか、アンバムがフォローしようと口を開いたときだった。
「え、あれ、お姉ちゃん!!??」
ディナラの大きな声が、家を貫いた。カヒリが皿を洗う手を止め、アンバムがハッと振り返る。ジェイルも脱衣所のほうを見た。引き戸がゆっくりとあけられ、狐につままれたようなディナラが現れる。
「お姉ちゃんって、本当にニンジャ?」
「ディナラ、どうした」
アンバムが問いかけると、ディナラが脱衣所の奥の窓を指差した。
「高いところにのぼるワザを見せてもらってたの。そしたら、窓から飛び降りちゃった……」
脱衣所の窓は開け放たれ、風が吹き込んでいた。アンバムが駆け込み、洗濯機によじ登って窓の外を確認したが、諦めてカヒリのところに戻ってきた。
「女の人、いない。もう遠くに逃げたと思う」
カヒリが額に手をやる。ディナラが「え、どこに行ったの? お客さんなのに?」とうろたえ始めた。
アンバムがディナラに歩み寄る。もし責めるつもりなら、仲裁しなければ――ジェイルが腰を浮かしかけたとき、アンバムが妹の手を握って、祖母に語りかけた。
「叔父さんには、僕の見張りが失敗したって伝えて」
「お兄ちゃん」
「ディナラは悪くない」
カヒリが静かに首を横に振った。
「お祖母ちゃんが目を離していたと伝えます。どちらにしろ私の責任だもの。……ジェイル様」
呼びかけられて、ジェイルは背筋を伸ばした。
「あの方は、財布や携帯電話はお持ちでなかったと思います。言葉も喋れないでしょう。そんな状態で、ひとりでここを出ても、なにかできるとは私には思えません。ですから――」
表情の乏しいカヒリの目の奥に、意志の光が瞬く。
「息子に報告するのは1時間後にします」
つまり、1時間、見逃してくれると言っているのだ。
「カヒリ」
ジェイルは立ち上がり、深々と礼をした。カヒリは「及びません」とだけ言って、皿洗いを再開した。
「おじさん」
ディナラがおずおずとジェイルに近寄る。
「お姉ちゃん、ディナラのこと嫌いになったから、どっか行ったんじゃないよね?」
「絶対に違う。君のことが大好きなはずだ。ただ、やるべきことがあるんだ」
タクシーに転がり込むチセの姿を思い浮かべた。きっと上手くやってくれる。ジェイルが今やるべきなのは、信じて待つことだけ。
脱衣所の窓の外に、まぶしいほどの空の青が見えた。泣いても笑っても、建国祭の週末が始まっていた。




