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第40話:夜明け

 身の上話の迫力にのまれていたジェイルは、チセがさらに何を言おうとしているのか、まったく見当がつかない。

「『登校拒否』って日本語はご存じですか?」

「子どもが、学校に行けなくなることだろう?」

「お、さすがですね」とチセが感心する。

「小学校1年生のとき、そうだったんです、私。母が死んでから数か月」

 思い出を懐かしむように、チセの瞳が遠くを見た。

「5月の終わりに母が死んで。お葬式が終わってから、学校に行くのが、急にバカみたいに思えてきちゃったんです」

 6歳だった。周囲の子どもたちは、まだ誰も死の意味を知らなかった。1か月前までは、自分も無邪気な子どもだったはずなのに。だが一度でも、母親を失い、さらに自分も若くして死ぬのだろうと自覚したとき、眼に映る世界は姿を変えてしまった。

「ただ何をするというわけでもなく、家で絵を描いたり、近くの公園をうろうろしたり、そういう生活が続きました。もちろん父は心配していたけど、私が納得するまで譲らない性格なのはお父さんもよくわかっていたから、自由にさせてくれていました」

「さぞかし強情なガキだったんだろうな」

 ジェイルが茶化すと、チセが笑いながら頷く。

「ふつうに考えたら、6歳の子どもを家でひとりにさせておくなんてとんでもないけど、きっと父自身も、母の死のショックから立ち直れていなかったんでしょうね」

 足がしびれたのかチセが姿勢を直し、体操座りした。白い両脚が、暗い部屋のなかにぼんやりと浮かび上がる。

「そうやって、7月になって、8月になって……。夏休みで周りはみんな楽しそうなのに、私は相変わらず何もやる気が起きなかった。でも空虚なままの自分にも、そろそろ嫌気がさしてきて。そんなときです、父がつけていたテレビのニュースを見たのは」


 最初は、昔の映画かドラマかと思った。チセの日常とは程遠い映像だったからだ。赤い絨毯。孔雀のレリーフ。なにかに熱狂する大勢の人々。彼らが日本人ではなく、かつ現在進行形で起こっているニュースだと気づいたのは、画面がスタジオに切り替わり、番組のキャスターが「今夜の特集です。200年以上続いた王制が、今日、幕を閉じました」と言ってからだ。

「この人たちは、何してるの?」と尋ねたチセに、父親は「民主化が行われたんだよ」と答えた。

『みんしゅかって何?』

『ちーちゃんにはまだ難しいかもしれないけど、国のあり方が変わる、とても大きな決定のこと。みんなが話し合って、ものごとを決められるようになるんだ。だからみんな喜んでいるんだよ』

『でもこの人は、笑ってないよ』

 チセは画面を指差した。真っ白な礼服を着て、一点を見つめる若い少年がいた。

『この人が、民主化を決めた王様だよ。いや、もう元王様になるのかな……。このお兄さんはね、ちーちゃんと同じなんだよ』

『なにが?』

 父親はチセを膝の上にのせ、やさしく頭をなでた。

『このお兄さんのお父さんも、ママと同じ頃に亡くなったんだ』

 しばし言葉が途切れる。チセは父親の息が湿った熱を帯びたことに気づいた。

『でも見てごらん、ちーちゃん。このお兄さんはまだ17歳なのに、こんなに立派に立っている。本当にえらいと思うよ。パパにもこんなことはできない』

 チセは画面から目を離せなかった。そのニュースが終わり、プロ野球の試合結果が始まってもなお、そこからしばらく動けなかった。


「私、それを聞いて、本当にびっくりしちゃって。私はお母さんが死んでずっと無気力なのに、なんてすごい人なんだろう! って、子ども心に衝撃を受けたんです。そして素直に思った、ずっとこの調子でいたら、お父さんを悲しませるし、なにより死んだお母さんに申し訳ない。もし明日死ぬとしても、思いっきり生きようって。それが自分のすべきことだって。たった数分間のニュース映像で、そう思ったんです。そして2学期からは学校に復帰して、その後はすくすくと育って、今に至るというわけで」

 膝を抱えながら、チセはジェイルを見上げた。

「だから私、ずっと、会ってお礼を伝えたかったんです。ヴェイラ王国の、最後の国王陛下に」

 ジェイルはしばらく黙っていた。脳裏を、いくつもの光景が通り過ぎていく。父親の死、帰国、即位、そして民主化、退位。あまりにも濃密で、それゆえにもはや幻のようにも思える日々。とくに自分自身の気配を、記憶のなかではずっと消していた。そうすることで感じることを避けていた。

 だがチセは見ていたという。まぎれもなく、あのとき確かに存在していたジェイルを。

 ひとつの問いが、ぽろりと口からこぼれ落ちた。

「ジャーナリストを志望する理由。タカシのゼミの面接で、なんて言ったんだ?」

 チセはきょとんとしたが、すぐに合点がいったという表情に変わった。

「子どもの頃、とある外国の政治のニュースに心を動かされたことがあった。自分とはまったく関係のない世界の話だったけど、鮮烈に印象に残っているのは、生き様みたいなものが垣間見えたかだらと思う。ただ残念ながら、その人について、その後ほとんど報じられることはなかった。私は、一過性の取材で終わりではなく、人生そのものを取材したい。相手が有名人だろうと一般人だろうと――そう、言いました」

 再び訪れた沈黙のなかで、ジェイルは内なる音を聞いた。つぼみが膨らんで、今にも花開こうとしている音。もうごまかすことはできなかった。17歳の自分を、きちんと認めてやるときがきたのだ。

「……誰が、想像できるんだ? あのとき極東の6歳のガキが、テレビの画面越しに、俺の姿に勝手に感動してたなんて」

 自分はひとりだと思っていた。ひとりきりであの場に立っていたはずだった。

「そいつが15年後に押しかけてきた挙句、仲良く一緒に誘拐されて、こうして話しているなんて」

 だが、繋がっていたというのか。何千キロメートルも離れた国と国で。年齢の差も、15年の時空すらも超えて。

「17歳の俺に言ってやりたいよ、お前はひとりじゃないって。きっと、信じないだろうけどな」

 ため息をついたつもりだったのに、ジェイルの口角は穏やかに上がっていた。

「私もまさか、こんなタイミングで告白するとは思ってませんでしたよ」

 チセが愉快そうに言う。

「どうして、もっと早く言わなかった」

「だって出会ったときのジェイルさん、聞く耳持たなかったでしょう?」

「まあな」

 渋い声で認めたジェイルに、チセがあははと笑った。

「あともうひとつ、言いたかったことがあって」

「まだあるのか」

 チセが立ち上がり、ジェイルの横にちょこんと座る。

「大丈夫かなーと思って」

「何がだよ」

「お父さんを亡くしたことの、心の整理」

 ジェイルは目を見開き、そしてゆっくりとまつ毛を伏せた。

 余計なお世話だったらごめんなさい、とチセが続ける。

「あんなに慌ただしいなかで、ちゃんと消化するヒマもなかったんじゃないかなって。大切な人の死に関して、お葬式をしたり、みんなで慰め合ったりすることはできるけど、最終的には自分ひとりで折り合いをつけるものでしょう。あのとき、それができたのかなって」

 ジェイルは両手首をじっと見た。手錠で隠れている下には薄い皮膚があり、さらにその下には血管がある。そこにはチュンクリット家の血が脈々と流れている。

「俺が言うのもなんだが、父親は、国王としてはまるでダメな人だった。時代に逆行するような保守主義に走って、経済が停滞した。周りにイエスマンばかりおいて、政治は腐敗し、国民の気持ちも離れた」

 父であるアミル3世は、偉大すぎるハディト1世の影から逃れられなかったのだろうと、今となっては思う。じつはハディト1世の治世の末頃から、ヴェイラの経済成長には陰りが見え始めていた。父親が王位を継いだのは不運なタイミングだったともいえる。失策が重なれば重なるほど、偉大な先王と比較された。父親はそれに抗う気概も能力もなく、殻に閉じこもっていったのではないか。

「俺は割とはやくから、父親が国民にあまり尊敬されてないってことに気がついていた。それが気まずくて、父親と話すのが苦手になってしまった。スイスに留学して、正直ほっとしたんだ」

 ラーニア王太后がジェイルの留学を強く後押ししたのは、その理由もあったのかもしれない。多感な時期の少年を親から離すことで、父子のバランスを正常化するという意図が。だがアミル3世の急逝で、それは成し遂げられなかった。

「死んだって言われても全然実感がなかった。家族のなかで、俺だけが最期を看取っていない。母親、姉、妹は、葬儀で泣いていたが、俺は泣けなかった。今も、ただ離れているだけで、父親がまだ生きているように感じることがある」

 そう言って、ジェイルは気づいた。ヴェイラから離れたことでますます、父親のことを、生身の人間ではなく「国王」としてとらえていたことに。だからこそ、死に接しても、どこか他人事のように感じてきた。

「お前の言うとおりだ。心の整理などついていない。済んだと思い込んでいただけだ」

 国王としてどうかではなく、家族として、父親として、その死を悼むべきなのに。自分はさっきから、彼の人生の輪郭をなぞっているだけにすぎない。批評や分析をするのではなく、ただ素直に、悲しむということをしていなかった。

「俺はいつもそうなんだ。自分の気持ちに気づくのが遅い」

 他人の意見を内在化して、理屈や理論で先に武装して、感情を置き去りにして。そうやって、今まで、どれだけのことを無下にしてきたのだろう。

「きっと、やさしいからですよ」

 チセの言葉がそっと降る。そんな綺麗な理由ではないと知っていても、慰めが沁みた。

「肩。よかったら、どうぞ」

 申し出に甘えて、チセの肩に頭をのせる。チセの体温を間近に感じる。見つめ合うわけでなく、同じ方向を向いたまま、沈黙を共有できるのが心地いい。ジェイルは考えるのをやめ、その温かさにただ身を任せた。チセももう何も言わなかった。

 

 目を閉じてそれほど経ってないはずなのに、ジェイルが次に目を開いたときは、部屋が薄明るくなっていた。窓の外の空が白み始めている。夜明けが訪れていた。

 体勢はそのままに、チセの様子を伺う。チセも目を閉じていた。

 この静けさを壊さないように、そっと手元にあったブランケットを取り、自分たちの体にかける。もう少しだけ、と祈りにも似た気持ちで、ジェイルは再び目を閉じた。

 あまりにも複雑な一方で、人生とはごくシンプルなものかもしれないと、ジェイルは全身で感じていた。同時にもうひとつ、明白なことがあった。どれだけ自分の気持ちに鈍感でも、もうわかっている。

 チセという存在を、今、何よりも大切に思っていることに。

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