第39話:偽りの光
反射的にジェイルは体を起こしたが、やって来たのが誰なのか、暗くて把握できない。
「誰だ」
影は入口で黙っている。ジェイルは身を固くした。
「ヌアークか?」
クーデターが起こるのは明日か明後日だと思っていたが、もしや、すでに決行されてしまったのだろうか。なんにしろ、こんな夜中に部屋に侵入してくるということは、いい状況ではないだろう。全身に緊張が走る。
シルエットがこちらに近づき、月の薄明かりがその姿を照らす。ジェイルははっと息を呑んだ。
そこにいたのはヌアークではなく、アンバムだった。
「どうしたんだ、こんな夜中に」
アンバムは思いつめた顔をするばかりだ。口を真横に結んだまま、じっとジェイルを見つめている。
「何か、話したいことがあるのか」
ジェイルが小声でもう一度尋ねると、ようやくこくりとうなずいた。ジェイルはベッドから立ち上がり、窓のカーテンをいっぱいに引いた。空にかかる月は満月にほど近い。その光で、わずかではあるが、夜目が効くようになる。
「電気は、点けないほうがいいんだろう?」
「叔父さんは、犯罪者なんですか」
ジェイルの返事を待たず、アンバムは立て続けに言った。
「そのせいで、お祖母ちゃんやお母さんも、警察に捕まったりするんですか?」
いつものように感情を抑えた口調だったが、語尾がかすかに震えていた。
ジェイルは、昼間カヒリに向かって「息子が犯罪者になってしまう」と言ったことを思い出した。あの言葉を気にしていたのか。アンバムがいくら年齢より落ち着いているからといっても、衝撃的な響きだったに違いない。こうして真夜中に忍び込んでくるほどに。
「……とりあえずの罪状は、誘拐、監禁ってところだな。この手錠も、暴行罪に加えられるかもしれない。主犯はヌアークだが、カヒリも共犯と見なされる可能性がある」
アンバムの表情が青ざめる。
「ただ、誘拐は親告罪だ。俺が訴え出なければ罪に問われることはない。俺としても、カヒリや君たちを巻き込むつもりはない」
ほっとしかけたアンバムに、「だが」とジェイルは続けた。
「ヌアークがこれからやろうとしていることは、この比じゃない。内乱罪、国家への反逆だ。捕まれば必ず刑に処せられる。君の叔父は軍隊による政権クーデターに加担しているんだ」
アンバムはしばらく息を止めていた。その間、ジェイルが言ったことの意味を考えていたようだ。やがて驚愕と戸惑いが、その顔に広がっていく。
「ひとつだけ、罪に問われない方法がある」
ジェイルは声をひそめる。
「クーデターが成功し、政権を奪取すれば、行為は正当化される。むしろ英雄となるだろう。だがそれはつまり、国を守るはずの軍人が、己の欲望のために自国民を攻撃した事実をごまかし、正当化するということだ。わかるだろう、そこに正義なんてない」
不安定なアンバムの視線をとらえるように、ジェイルは正面から見据えた。
「そんなことが起きれば、この国の民主主義は根本から覆ってしまう。俺はそれを見過ごすことはできない。未遂のうちに止めたいんだ。そして、しかるべき機関に告発する。たとえカヒリや君たちに迷惑がかかることになったとしても、だ」
言葉とまなざしに射抜かれたアンバムは、すがるような目を向けた。
「僕は、どうしたらいいんでしょうか」
その顔を見て、ジェイルの胸はぎゅっとなる。子どもたちが背負わなくてはいけない罪なんて、けっしてない。だがそれでも、子どもであるがゆえに、背負わざるを得ないものがある。それはジェイル自身がよくわかっていた。
ジェイルはアンバムの両肩に手を置こうとしたが、手錠でつながれているせいで叶わなかった。気を取り直し、代わりに右手でアンバムの左腕をとんとんと叩く。
「君の立場が難しいことは、俺もよくわかる。これからどうなるかわからないが、カヒリとディナラ、そしてお母さんを大事にしろ。いちばんはそれだ」
すでに自分より身長の高いアンバムの目を、下から覗き込むように見る。
「もうひとつ大事なのは、常に自分の頭で考えることだ。甘い話やラクな話に流されたら、あとで何かあったときに自分が後悔する。人の話に耳を傾けつつ、最後は自分を信じるんだ」
まさか自分がこんなことを言う日がくるとは、とジェイルは思う。俺はこの1週間で、本当に変わった。不思議な感慨を覚えながら、「大丈夫、賢い君ならできるよ」と、ジェイルはアンバムを勇気づけるように笑った。
太い眉毛を中央に寄せたまま、それでもアンバムはうなずいた。
「さあ、部屋に戻って、ベッドに入るんだ。眠ったら少しは頭がすっきりするさ」
そっと背中を押し、部屋の出口に導く。アンバムは惜しそうに振り返った。
「いろいろ……ごめんなさい。でも、ありがとうございます、ジェイルさん」
初めて名前を呼ばれたことに気づいたのは、アンバムがドアを閉じてしばらくしてからだった。
アンバムに眠れと言ったものの、今度はジェイルの目が冴えてしまっていた。もはや横たわる気にもならず、ベッドに腰掛けて、窓の外の夜空を見るともなしに見る。ヴェイラの夜はいつもと変わりないように思える。だが今頃、クーデター計画の大詰めがなされているのだろうか。
ジェイルはふと、あることに気づいた。立ち上がって、音を立てないように確かめると、その予想は当たっていた。ドアのカギが、開いていたのだ。
アンバムがカギをかけ忘れたのか、それともわざと開けっ放しにしていたのか、わからない。どちらにしろ、拘束されて1日以上、最大の逃亡のチャンスが巡ってきたかもしれない。ドアの隙間から体を滑り出すようにして、ジェイルは廊下に出た。当然真っ暗だが、先ほどから慣らしていたせいか、なんとなくは目が見える。
手錠がかけられたままとはいえ、うまくやれば逃げられる可能性はある。1階はどこもカギがかかっているという話だったが、2階は手薄だろう。墜落時の打撲さえ覚悟すれば、窓から飛び降りるという手がある。
細く急な階段の1段目に足をかける。かすかに、みしりと木がきしむ音がする。
その姿勢のまま、ジェイルは動きを止めた。もし2階で、アンバムがようやく眠りかけているとしたら、安眠を妨げたくなかった。たった一晩の間にショックを2度も与えたくなかった。少なくとも今夜は、ゆっくり夢を見てほしい。
クーデターを止めるためには、迷惑がかかってもかまわないと告げたばかりなのに、そう思う気持ちも同じくらい強く、ジェイルの中に存在していた。
ジェイルは踏み出した。階段の上ではなく、リビングへ続く廊下へ。――まずは1階を改めてチェックする。2階はそのあとでいいだろう。
音を立てないようにしながら、リビングを横切り、キッチンの奥の勝手口を探る。アンバムが言ったとおり、南京錠がつけられていた。思いつく適当な4ケタの数字を合わせてみるが、カチリと音がすることはない。
いったん諦めて、キッチンに隣接した脱衣所に入る。電気をつけると、高い位置に、ギリギリ人ひとり通るか通らないかの窓があった。南京錠がつけられていないのは、シャワーを浴びたときに確認済みだ。タオルなどをしまってある棚と、その横の洗濯機にそれぞれ足をかけてよじ登った。きしんで耳ざわりな音がする。手錠につながれていては、バランスを取ることもひと苦労だ。
どうか壊れませんようにと祈りながら、ジェイルは窓をあけた。幸い、柵の類はない。しかし、台の上にのってようやく手が届く高さだ。腕力を使わなければ、身を乗り出せそうにないが、手錠のせいで、両腕を支柱にすることは困難だ。
それでも何度か試したが、脂汗が浮かぶばかりだった。キシキシと体重のかかる音がいよいよ大きくなり、ジェイルは床に降り立った。ぐっしょりと汗が染みついたシャツが背中に張りついている。かけられていたタオルでぐいと顔の汗をぬぐって、ジェイルはキッチンへ戻る。カヒリに悪いと思いつつ、冷蔵庫をあけてペットボトルの水をグラスに注ぎ、飲み干した。
冷蔵庫をあければ、暗闇でも光が生まれる。だがそれは偽りの光だ。扉を閉めればまた、暗闇に戻り、光は失われる。
もう一度、脱衣所でチャレンジするべきか、2階へ行くべきか。それとも部屋に戻って何事もなかったように寝るべきか。考えがまとまらないまま、グラスを洗ってカゴに戻し、リビング側へ振り返ったジェイルは、思わず「うわっ」と声を出した。
「幽霊に遭ったみたいな驚き方しないでくださいよ」
「起きていたのか」
「ガタガタ音がするんですもん、さすがに起きます」
目の前に寝癖のついたチセが立っていた。ソファに目をやれば、乱れたブランケットが無造作に置かれている。
「寝入ったくせに、よく言う」
「この家のソファ、もしかしたら、ジェイルさんの家のベッドより寝心地いいかも」
「二度と泊めないから安心しろ」
チセと顔を合わせ、軽口の応酬をしていると、急いていた心が落ち着いた。こんがらがった糸を引きちぎるのではなく、ほどいてみよう、そんな気持ちになる。
ジェイルはソファに腰かけた。チセは対面の床にぺたりとそのまま座った。
「お前が眠っているあいだに、アンバムと話した。中学生なのに、本当にしっかりしている。しっかりしすぎて、重圧に潰されないかが心配になった」
ふと、ジェイルはチセに聞いてみたくなった。
「運命を、信じるか?」
口に出してみて、「ちょっと違うな」と言い直す。
「destinyよりもっと宗教的というか……。英語ではheaven’s planというのが近いかもしれない。 日本語で該当する言葉がすぐに思いつかないんだが、自分の生が、大きな計画によって決められていて、それからは逃げられないという感覚だ。きっとお前の性格からいったら、バカバカしいと思うだろうが」
ヌアークの信念は、ジェイルにとっては、もはや呪いだった。考えるほどに心を蝕まれる。でもチセならきっと、そんなのはナンセンスだと、一笑に付すだろうと思った。
確かに、チセは笑みを浮かべた。だがその瞳に青白い火にも似た、静かな意志のようなものが浮かんだことが、薄暗いなかでも感じ取れた。
「いいえ。私、よくわかりますよ」
思わぬ返答に、ジェイルは虚を突かれる。
「宿命みたいなものは、きっとあると思っています」
チセの声音は、これまで聞いたどの音とも違っていた。1日前、そう感じたときよりさらに強く、じつはチセのことをよく知らないのかもしれない、とジェイルは自覚する。
「なぜだ? 理由は?」
「前に宮殿で、『私はいつも、明日死ぬんじゃないかって思って生きてる』って言いましたよね。あれ、別にポジティブな話じゃないんです。それこそバカバカしい話」
でも聞いてもらえますか、とチセが言った。
「私が6歳のとき、母が亡くなった話はしましたよね。子宮がんで、35歳でした」
思えばチセが自分から己の話をするのは、初めてのことだ。
「母には姉、つまり私の伯母さんがいたんですけど、彼女はその2年前に交通事故からの合併症で亡くなっています。さらにふたりの母親――私の祖母ですね。私は母方の祖母には会ったことがありません。40歳のとき、血液の病気で亡くなったそうです。ついでに言えば祖母は、自分の姉妹のうちでは長く生きたほうです」
不思議なことに、とチセは続けた。
「男の親戚は、とくに大病もせず、天寿をまっとうするんですよ。女だけなんです」
ジェイルは表情を曇らせた。
「まさか、女が必ず早死にする家系だとでもいうのか?」
遺伝性の同じ病気ならともかく、がんと交通事故と血液の病なら、死因はかけ離れている。それらを結びつけるのは、ただのオカルトだ。だがチセは笑って、「そのまさかですよ」と答えた。
「関連性がないことぐらい、わかります。祖母の姉妹や従姉妹に至っては、第二次世界大戦っていう要因もあったし。非科学的で有り得ないって、頭では理解しているんです」
そこまで言って、チセはすう、と息を吸い込んだ。
「でもどこかで、自分もそう遠くないうちに死ぬだろうって思いながら、私は生きてきたんですよ」
チセの顔に何かが反射した気がして、ジェイルは目を凝らし、そして絶句した。光っていると思ったのは、チセの涙だった。チセは音もなく泣いていた。
「バカみたいでしょう? でも小さいときから、母方の女性たちは、若くして死ぬのが当たり前の環境だったんです。お祖父ちゃんや伯父さんには、女の子に生まれて可哀想にって言われました。お父さんも、口には出さないけど、やっぱりどこかで信じてる。私たちはそういう一族なんだって」
チセは涙をぬぐった。
「ちなみにこれ、悲しくて泣いてるわけじゃないですよ。さすがに私、そこまでセンシティブじゃないし。でも不思議なことに、この話をすると、条件反射で涙が出ちゃうんです。驚かせてごめんなさい」
言葉を失っていたジェイルは、ようやく声を発した。
「確かに、驚いている……が」
自分にも言い聞かせるように、ジェイルは重ねた。
「そんなことで謝る必要はない」
もっと気の利いたことを言えればいいのに。だが実際は、訥々とした言葉しか口から出てこない。
「泣くのを、我慢する必要はない。俺の前では」
血の鎖というのは、なんてやっかいなものなのだろう。笑うのも慰めるのも同情するのも違う気がして、結局それしか言えなかった。
それでもチセは、なぜか幸福そうな笑みを浮かべた。
「なんか辛気臭くなっちゃっいましたけど、話はこれで終わりじゃないんですよ」
もう一度涙をぬぐうと、そこにいるのはすでに普段のチセだった。
「むしろ、大事なのはここからなんです、ジェイルさん」




