第38話:23時の語学講座
奇妙な賓客のせいで、丸1日外出できず、声を潜めて過ごさなければならなかった反動だろう。食事中、ディナラは弾丸のようにしゃべり続けた。
「東京にロボットのレストランがあるってほんと?」
「日本は、どの家も庭に桜の木があるんでしょ?」
「ヴェイラに来てみてどう思った? 日本とどっちが好き?」
質問の矛先はジェイルではなく、チセだった。小学生の女の子にとっては、自分が生まれる前に国王だったという30代の男よりも、若い日本人女性のほうが、よっぽど価値があるらしい。
「ディナラ、口の中に食べ物を入れたまま話さないで。質問はひとつずつにして。ちゃんと野菜も食べて」
祖母であるカヒリがたしなめる声も届かないようで、ディナラはいくつも質問をぶつけていく。チセは楽しそうに日本のことを話してきかせた。ジェイルはそのたびに通訳してやることになり、せっかくのごちそうをゆっくり味わう暇もないほどだ。その間、アンバムは黙々と食事を続けている。人が一生に話す「容量」が決められているとしたら、ディナラはアンバムの分まで奪って生まれてきたようだ。
「ねえ、お姉ちゃん、東京に住んでるんだよね」
ようやく食後のフルーツに差し掛かろうかという頃、ディナラが切り出した。
「ニシウラワって近い?」
ジェイルは聞いたことのない地名だった。チセに問うと、「西浦和なんて、よく知ってるね」と驚く。
「東京駅からだと、電車で1時間くらいかな」
「行ったことある!?」
「ないけど、どうして?」
チセが否定すると、ディナラは眉を下げ、明らかにしょんぼりとした。
「ママが住んでるんだよ」
「ママは、日本で何をしてるんだ?」
ジェイルがチセに代わって訊く。
「スーパーマーケットで働いてる。あと、イザカヤ?ってレストランでも」
この家に来てからずっと抱えていた疑問のひとつが解けた。アンバムとディナラの親はどうしているのかということだ。祖母と子どもふたりとしかいない家だからこそ、ヌアークの意志が優先されるのだろう。だがすべて解決したわけではない。ママが日本へ出稼ぎに行っているなら、“パパ”はどこで何をしているのか。
ジェイルが尋ねるよりはやく、ディナラが説明した。
「パパがいなくなったから、お金を稼ぐために、ママは日本に行ったんだ。ヴェイラじゃ仕事がないから」
「ディナラ、よその人にそんな話するな」
黙っていたアンバムが口を挟んだ。
「別に恥ずかしいことじゃないもん。お兄ちゃんの友だちだって、いるじゃない。お父さんやお母さんが日本や中国に働きに行っている人」
「ママとは、会えているのか?」
ジェイルの問いかけに、ディナラは一瞬眉尻を下げたあと、笑顔をつくった。
「本当は今週、建国祭に合わせて帰るねって言ってたんだけど、忙しくなっちゃったんだって。でも、私の誕生日が9月だから、きっとそこで帰ってきてくれると思うの」
「バカだな、帰ってくるわけないよ」
アンバムが水を差した。
「忙しいからじゃなくて、お金がかかるから帰ってこないんだ。飛行機のチケットがいくらすると思う」
「もう! お兄ちゃんは、そうやって意地悪ばっかり」
「本当のことを言ってるだけだろ」
口論になりかけた子どもたちを、カヒリが「やめなさい」ととりなす。ディナラは口をきゅっと横一文字に結んで、物言いたげな目でアンバムをにらんだ。その目は少しうるんでいる。
急速に張りつめた空気にジェイルが戸惑っていると、チセが明るく言った。
「よし、語学講座をやりましょう」
「またお前は何を言いだすんだ」
「日本語をたくさん覚えて、次にママに会ったときに、驚かせるんですよ。私もヴェイラ語を覚えたいし、一石二鳥のアイデアだと思いません?」
ジェイルがその通りに訳すと、さっきまでの不機嫌はどこへやら、ディナラはたちまち笑顔になり、「やる! ママをびっくりさせたい!」と目を輝かせた。
「まずは居酒屋のメニューからにしようかな? もつ煮、枝豆、鶏皮、出汁巻き卵…」
「誰が講師をやるんだよ」
ジェイルはぼやいた。もちろん、答えはわかっている。
食事を終え、さらに入浴を済ませたあとも、ディナラは語学講座の続きをねだった。
「ワタシハー、ディナラデス。10サイデス」
「ディナラちゃん、好きな動物はなんですか?」
「ヌ……イヌ! デス」
「すごい! 上手~!」
チセが拍手すると、ディナラも頬を紅潮させながらパチパチと手を叩く。
「次はディナラが聞く番ね。インゴー、オ、ティカッ?」
「ティケィ、ドン、ダラッ」
「お姉ちゃんも上手~!!」
きゃっきゃと手を取り合って喜ぶふたりを見ながら、ジェイルは何杯目かのハーブティーを飲み干した。もう23時を過ぎているというのに、娘ふたりのテンションの高さは衰えることがない。
「ディナラ、もう寝ないと」
カヒリが孫の肩に手を置いた。ディナラは「やだ!」と反抗したが、言ったそばからあくびが出た。普段はもう眠っている時間なのだろう。
「お姉ちゃん、明日もやろうね」
寝室に連れていかれながら、ディナラがソファに座っているジェイルに向かって言う。
「おじさんもだよ!」
カヒリが慌てて「これっ」といさめた。ディナラは何が悪いのかピンときていないようで、「おやすみなさい!」と元気よく手を振り、廊下の向こうに去っていった。
ぷっと噴き出す音が聞こえて部屋の隅を見ると、タブレットを抱えたアンバムと目が合う。無表情を取り繕っているが、口元だけは少し笑っている。
「元気のいい妹だな」
ジェイルがアンバムに話しかけた。
「ダニットという、俺の妹に少し似ているよ」
アンバムは小首をかしげた。教科書でしか知らないヴェイラ王国の最後の姫・ダニット王女と、自分の妹が似ていると言われても、ピンとこないのだろう。
しばらく待っていたが、カヒリは戻ってこない。
「ディナラちゃんと一緒に眠っちゃったんですかね?」
様子を見に行こうとするアンバムを、ジェイルは押しとどめた。
「カヒリも、俺のせいで疲れただろう。丁重にもてなしてもらって、申し訳ないくらいだ」
手錠をつけながらではあるが、ジェイルはシャワーを浴びる機会も与えられた。着替えとして渡されたのは、デパートの袋に入った新品の下着と服だった。はっきりと聞いたわけではないが、昼間にカヒリが外出したのは、これを買いに行くためだったのではないか。ジェイルはそう感じていた。
「祖母は……むしろ喜んでいると思います」
アンバムがつぶやくように言う。
「王宮で働いていたのが、誇りだったみたいです。あまりしゃべりたがらないけど、たまに話してくれることがあって、そのときの祖母は幸せそうだから」
「ヌアークは、叔父さんは、いつもこんな遅くまで帰ってこない?」
「叔父はここ半年くらい、ほかで寝泊まりすることが多いです。この家は狭いし」
「俺が今いる部屋は、君のお母さんの部屋か」
推測を口にすると、アンバムはうなずいた。
「母がいつ帰ってきてもいいように、祖母が定期的に掃除しています。日本に行ったときからほとんど変わっていません」
壁にかけられていたカレンダーは数年前の日付のものだった。今日、ヌアークが「家族が」と言いかけたとき、カレンダーはジェイルの背後にあった。あのときヌアークは何を考えていたのだろう。
「こんなことを君に聞くべきではない、とわかっているんだが。それでも、差支えない範囲で教えてほしい」
ジェイルは膝の前で両手を組み、ぐっと前かがみになった。
「君のお父さんがいなくなった理由は?」
「別に、ただの離婚です」
「いわゆる性格の不一致、ということか?」
アンバムは黙り込んだ。ジェイルも黙って答えを待った。
「又聞きだから、正確じゃないかもしれないけど」
前置きして、アンバムはぽつりぽつりと話し始める。
「以前、ヌアーク叔父さんは、父と同じ職場で働いていたんです。そこはもともとお父さん、じゃなくて、父の紹介で入ったらしいんですけど、景気が悪くなって……。叔父さんはいきなり、違う部署に左遷されて、給料も下がることになったんです。ずっと真面目に働いていたのに」
それで、とアンバムは続けた。
「叔父さんは納得がいかなくて、偉い人に直接話を聞きに行ったらしいです。そこで……トラブルになって、偉い人を殴った」
ヌアークは確かに一本気だが、給料のことで目の前の人間を殴るような男にも思えない。なぜ、そんな愚かなことを。そう言いかけて、ジェイルは口をつぐんだ。アンバムが自分をじっと見つめる視線に気づいたからだった。そして、その視線に込められた意味にも気がついた。
「ヌアークが殴った理由は、王制と関係がある?」
アンバムは控えめにうなずいた。
「ヌアーク叔父さんは、ずっと王様を復活させる運動をしていました。もちろん仕事中じゃなくて、ちゃんとプライベートで。でもバカにするようなことを言われて、我慢できなかったって」
ジェイルは両の手で眉間を押さえた。
会社勤めをしたことのないジェイルにでも、想像はできる。景気が悪くなると、組織はなにかに理由を押し付けたくなる。政治活動をしている会社員は、ただでさえ目の敵にされやすい。そこでヌアークがやり玉に挙がった。見せしめの一環だったのかもしれない。
ヌアークは経営陣を殴った。ヌアークを会社に口利きしたのは、ヌアークの義兄だった。義兄の会社での立場は当然悪くなる。
「それがきっかけで、お父さんとお母さんの仲がこじれた。そういうことなのか」
アンバムは肯定も否定もしなかったが、表情を見れば答えは明らかだった。ヌアークの姉は、カヒリの娘は、アンバムとディナラの母親は、夫ではなく、血のつながった家族を取った。それゆえに困窮し、幼い子どもをおいて遠い海外に出稼ぎに出る羽目になったとしても。
非喫煙者のジェイルだが、煙を吐くような溜息が出た。
「つらいな、それは」
ほかに何を言っても空虚な気がして、ジェイルはまた黙った。同時に、この年若い少年に、デリカシーのない質問をしたことを悔いた。ずいぶんねじれた形ではあるが、自分はこの問題の元凶といえなくもないのだ。
「すまない。俺は」
「ビートルズも、オアシスも、解散したけど」
ジェイルはうつむき加減だった顔を上げた。アンバムは伏し目がちに訥々と、だが意志のある口調で言った。
「すごいバンドだったことには、変わりないですよね」
ジェイルはしばらく何も言えなかった。付け足すべき言葉を何も思いつかなかった。
「まったく、君の言うとおりだ。真理だと思うよ」
アンバムはほとんど表情を変えずに、小さくうなずく。そして遠慮がちにジェイルの隣を指差した。
「女の人……」
ジェイルが横を見ると、ソファの反対側に座っていたはずのチセが、体勢を崩し、ソファの背にもたれかかるようにして眠っている。確かにしばらく、いつものおしゃべりが途絶えていた。はしゃぎ疲れて寝落ちするとは、小学生のディナラと変わらない。すうすうと健康そうな寝息を立てるチセを見て、ジェイルは苦笑し、腰を上げた。
「もう全員ベッドに入る時間だな。俺も部屋に戻ろう」
驚いた顔をするアンバムに、ジェイルはつとめて気軽に言った。
「俺が監禁状態に戻らなければ、見張りの君も寝られないだろう。長話に付き合わせて悪かった。こいつには適当にブランケットでもかけておいてくれ」
廊下へと進むと、慌ててアンバムもついてきた。部屋に入り、ドアを閉める段になって、改めて伝える。
「君は頭のいい少年だ。俺が子どもの頃よりもずっと賢い。明日は女の子たちは放っておいて、音楽の話でもしよう」
「あの……」
「どうした?」
問い返したジェイルに、アンバムは首を振った。
「なんでもないです。おやすみなさい」
鍵がかかる音がした。ジェイルは電気を消し、ベッドに横たわる。人と喋っていると気がまぎれていたが、やはり手錠は重く、動きを遮る。むやみに動かすと手首が擦れて痛い。何度か試行錯誤して、比較的気にならないポジションに手首を落ち着けた。
ジェイルは、顔も名前も知らない、この部屋の本来の持ち主のことを考え始める。
彼女は今日本で何をしているのだろう。時差があるから、向こうはもう深夜だ。一人暮らしの家で眠っているのが普通だろうが、そうとも限らない。まだ働いているのかもしれない。育ちざかりの息子や娘と暮らすことを我慢して、異国で労働して得た金を、遠く離れた家族に送るのだ。しんどくないわけがない。だが、不幸と断じる権利はジェイルにはない。この世の中のだれにもない。
そんなことを考えていると、いつの間にか、体が浅い眠りに覆われる。
窓の外の庭の虫さえも寝静まる時間帯に差し掛かった頃、ふとカギが外から開けられる気配を感じて、ジェイルは目をあけた。




