第37話:天命
急いで帰ってきたらしいヌアークの額には汗が滲み、顔には苛立ちの色が浮かんでいた。まさか日本人の少女にジェイルの居場所を突き止められるなど、思ってもいなかったのだろう。
問われたジェイルは正直にiPadを差し出した。ヌアークが、受け取る手にぐっと力を込める。
「迂闊でした……。iPhoneと連動していたとは」
「でも結局、逃げられはしなかったな。むしろ人質がふたりになった。しかもひとりは病人だ」
刺激しないよう、わざと軽い口調で言ったが、ヌアークは渋い顔をしている。
「できれば、このようなものは使いたくなかったのですが」
そう言ってヌアークが取り出したのは手錠だった。鈍い銀色の輝きに、ジェイルは眉を寄せる。こちらとしてもできれば避けたい事態だったが、覚悟はしていた。
「わかった。ただし、つけるのは俺ひとりだ」
ジェイルは両腕の手首を差し出す。
「あの子は日本人だからダメだ。もし手錠をつけて監禁していたなんてことが明るみになってみろ、クーデターどころか国際問題だ。パスポートの再発行で日本大使館に行ったばかりで、面も割れてる。デモで騒ぎを起こしたことを覚えている人間もいるかもしれない」
多少のハッタリも混ぜながら、なるべく論理的に説得を試みる。
「今すぐにでも解放すべきだが、できないと言うんだろう。それなら彼女はあくまで病気の療養のため、自分の意志でこの家にいるという体裁にしたほうが、お前たちにとっても好都合だ。逃げたら俺に危害を加えるとでも伝えれば、彼女も変なことはしない」
ヌアークはジェイルの目をじっと見ると、左手に握っていた方の手錠を下ろした。
「確かに、陛下のおっしゃることが正しいようです」
ジェイルはかすかに安堵のため息をついた。だがほっとする間もなく、「失礼します」とヌアークの腕が伸び、冷たく重い金属に両手首を拘束される。
「王様だなんだと言っておいて、大した扱いだ。いよいよ本物の虜囚じゃないか」
ジャラジャラと音を立ててつながった手首を見たら、さすがに嫌味のひとつでも口にしたくなる。「幽閉は一流の王侯貴族の証」なんていうチセのふざけたジョークが、いよいよ笑えなくなってしまった。
「陛下は、あの女性をずいぶん信頼しているようだ」
だしぬけにヌアークが言った。
「彼女が来る前と今では、表情が違います」
ジェイルは苦笑いを浮かべた。
「言っておくが、交際しているかという質問なら、答えはNOだ。ヴェイラ語も話せない外国人なのに、監禁場所にまで乗り込んでくるような危なっかしい奴だから、面倒を見ざるをえないというだけだ。友人の教え子じゃなきゃ、とっくに見放している」
年齢的には成人で、妙に大人びたところもあるとはいえ、まだ学生の身分なのだ。自分のせいで、こんな危険に巻き込まれるべきではない。なんとかしてチセだけでも逃がす方法を考えなければ。
「陛下は、どんな状況になっても、大切な人を見放したりはしないでしょう」
大切なものは、時に弱点にもなりうる。ヌアークはジェイルの弱みを握るつもりで、この話をしているのかもしれない。ジェイルは話の矛先を変えた。
「お前の大切な人は、クーデターのことを知っているのか。こんな危険が伴うことを、普通なら止めると思うが」
「私にそのような存在はおりません。今大切なのは、ヴェイラという国そのものです」
「大義のためだけに生きていると? 人はそんなに強くない」
ヌアークの否定を、ジェイルはさらに否定する。
「もし本当に、身近な存在に注意を払わず、理想ばかり追いかけているというなら、そんな奴のクーデターなんざ成功するわけがない。この国を構成しているのは概念じゃない、ひとりひとりの国民だからだ」
確信を持ってジェイルは言った。何故なら、それはほんの数日前までの、ジェイル自身の姿でもあったからだ。周りの人たちを顧みず、ひとりで何でも完結できると思い込んでいた頃の。
「……私は、家族が」
ヌアークの視線は、ジェイルの背後の壁のほうを向いていた。ジェイルもその方向に目を動かすが、時計とカレンダーがかかっているだけだった。
「家族?」
問い返すと、ヌアークはしばし沈黙したが、何事もなかったかのように答えた。
「私にとって大切なのは、ヴェイラがチュンクリット家を頂点としたひとつの家族となり、貧富の差なく、助け合って暮らせる社会を復活させることです」
ヌアークも何か思うところがあるはずだが、それを隠して対話を終わらせたがっている。そう感じたジェイルはヌアークに座るようにうながし、自らもベッドの端に腰かけた。説得できるとしたら、これが最後のチャンスの可能性が高い。この機会を逃したくなかった。
「何度も言っているように、俺は政治に復帰する気はない。ましてや、お前たちに同調する気はない。つまり、いくらクーデターを起こしたって、王政復古は有り得ないんだ。国家に奉仕したいと思う気持ち自体は、尊いものだと思う。だが、目的と手段が入れ替わっていないか? 国を変えるなら、やり方はほかにもある。クーデターなんて、一部の人間が権力を握るための汚い罠だ」
ジェイルは懸命に言葉を紡ぐが、ヌアークは表情を崩さない。
「クーデター後、ムラト先生やカディール先生が、いったんは首班指名されるでしょう。その政権も、長くは続かないかもしれない。だがそれでいいのです。混沌の中でこそ、真の王が選ばれる。チュンクリットの名がまた呼ばれる日が来るでしょう。なぜならチュンクリット王朝は、ヴェイラという国の象徴そのものだからです」
ヌアークの中では、未来はすべて決まっていて、自明の理だというのか。気が遠くなりそうなのをこらえて、ジェイルは辛抱強く続けた。
「それはあくまでお前の希望だろう。そんな都合のいい未来はこない」
「いいえ。現に、陛下は今ここにいらっしゃるではないですか」
ヌアークの言っている意味が本当にわからなかった。眉根を寄せて問い返す。
「ここにいるのは、お前に拉致されたからだろう?」
「クーデター自体は以前から計画されていたことです。しかし陛下は、これ以上ないタイミングで、私たちの前に現れた。そのとき確信いたしました。正しい時、正しい場所、正しい人物がそろったのだと。この国はやはり、あなたを求めているのです」
ジェイルの手首を縛る銀色の手錠が、鉛のように重たく冷たく感じられた。それでも、こんなのは大したものではない。もっと強固で、もっと絶望的な、見えない鎖に比べれば。名前、家柄、権威。それはジェイルを、そしてヌアークをも縛っている。
「チュンクリットの血さえ流れていれば、俺個人の人格はどうでもいいということか。王族だなんだと有難がっているふりをして、お前がやっているのは逆差別だ」
冷静さを保っているつもりだが、ジェイルは声を震わせずに言い切る自信がなかった。
「自分の行く道がすべて己の意志で決められる――本当にそうでしょうか、陛下」
一方でヌアークは淡々と語った。まるで、彼自身が預言者かのように。
「我々は天命のもと、生かされている存在に過ぎません。立場や役割は違えど、誰もがさだめを背負っている。僭越ながら、それは私も陛下も同じことです」
ベッドに横たわったジェイルは、薄目を開いて時計を確認し、目をつむった。浅い夢を見て、目覚めてはまた目を閉じるを、しばらく繰り返している。
夜20時近くになっていた。ヌアークが部屋を去ったあと、いつの間に眠ってしまったのか覚えていない。途中、カヒリが様子を見に来た気配があったが、ろくに反応できなかった。体がだるく、重い。肉体的なものではなく、精神的なものからきていることは、ジェイル自身よくわかっていた。
目覚める一瞬だけは、自室のリクライニングチェアでちょっとうたた寝でもしていた気分になる。だが次の瞬間、手首の金具の冷たさが、それは錯覚だと思い起こさせる。
何もできないままこんな時間になってしまったことを焦るべきだが、一方で、1日がまだ終わらないことに倦怠感を覚えているのも事実だった。閉じ込められているだけなのに、情緒の振れ幅が大きすぎる。怒り、忍耐、悲しみ、希望、そして失望。まるで感情のオーバードーズだ。
人が何を信じているかなんて、口出しできることではない。それは民主主義の根幹的な考えだ。だがその思想に他者への暴力が含まれるとき、どうやって止めればいいのか、そもそも止めることが可能なのか、ジェイルはもう本当にわからなかった。
何の解決にもならない、だがこのまま眠っていたい。再び意識が暗い淵に落ちそうになったとき、控えめにドアが開く音がした。
立っているのはアンバムだった。
「起きていますか」
返事をしないジェイルに、アンバムが続ける。
「女の人が、言ってます……Helpって」
ジェイルは上半身を起こした。
「また具合が悪いのか?」
アンバムは返事を戸惑っている。ぼんやりとしていたジェイルの頭がようやく覚醒した。チセにまた何かあってはたまらない。立ち上がって出口へ急ぐと、廊下の灯りで手錠が照らされ、アンバムが小さく息を呑んだ。
大股で廊下を進み、リビングルームのドアを開けた。蛍光灯の明るい光が視界に飛び込んでくる。その明るさのなかで、チセはソファの上であぐらをかき、ストローでアイスティーをおいしそうに飲んでいた。
「あ、おはようございます~」
てっきりチセが倒れているかと思っていたジェイルは、呆気にとられた。
「体調は?」
「おかげさまですっかりよくなりました! カヒリさんのおかげです」
「アンバムが、Helpって……」
「ああ、それは」
チセが隣に座っているディナラを見て笑う。
「彼女とおしゃべりしたいけど、さすがに身振り手振りだけじゃ限界があるので。ジェイルさんの助けが必要! って意味でのHelpです」
ディナラはチセとジェイルを交互に見て、笑顔を浮かべている。いつの間にか懐かれているようだ。ほがらかなチセの表情からは、熱中症のつらさがすっかり消え去っている。それを見て、喉から出かかっていた抗議の言葉をジェイルは飲み込んだ。
「……元気なら、なによりだ」
いつものお小言が飛んでくると思っていたらしいチセは、少し意外そうに片眉を上げた。
「お前はそのくらいがちょうどいいよ」
知らない間に、ジェイルはチセとのつきあい方を習得したのかもしれない。チセはゆっくりと微笑んだ。
「ジェイルさんこそ、調子はどうですか? せっかくだから夕飯を食べましょう。さっき味見させてもらったんですけど、カヒリさんのご飯、すごくおいしいです」
「今日はエビの米粉揚げ、蟹肉とクレソンのスープに、豚肉とアサリの香草蒸し焼き。大ごちそう!」
日本語がわかるわけでもあるまいに、タイミングよくディナラが叫んだ。アンバムは顔をしかめたが、ディナラはチセの脇にしがみつき、瞳をキラキラと輝かせてジェイルを見ている。
あげられたメニューはどれも、宮廷料理の流れを汲んだものだ。庶民の日常の食卓に気軽に出てくる内容ではない。
ジェイルはキッチンの奥にいるカヒリを見た。相変わらず無表情を保っているが、きっとジェイルのためにこの食事を準備してくれたのだろう。かつての雇い主のために、心を尽くしてもてなそうとしているのだ。たとえ今はうらぶれた身なりで、さらに手錠をはめられているとしても。
「いいのか? ここで食べても」
カヒリが控えめにうなずく。安易に逃げる恐れはないと判断されたようだ。もしかすると、哀れな姿の元国王に対する同情もあるのかもしれない。
ジェイルはチセの向かい側に腰を下ろした。それを機に、テーブルに料理が運ばれ始める。皿や箸を取り分けながら、チセが小声で訊いた。
「動画は?」
「Youtubeに公開することはできた。でもその瞬間に奴が来たから、電源を落とした」
傍目にはわからない程度に、チセは顔を曇らせた。
「アップしただけだと、見られるかどうか微妙なところですね……」
それはジェイルもわかっていた。もし都合よく誰かが検索して辿り着いてくれたとしても、政府や警察など、しかるべき機関まで届くかどうかは賭けに近い。せめて、あと1分あったら。
ジェイルは顔を上げ、ヴェイラ語で、わざと大きめの声で言った。
「うまそうだ」
カヒリたちはキッチンの片隅で食事しようとしていた。ジェイルに遠慮しているのだろう。
「みんなで一緒に食べよう」
こちらを窺っていたディナラが歓声を上げた。アンバムは戸惑い、カヒリは恐縮しているが、空気がなごみつつあるのをジェイルは感じた。
問題は山積みだとしても、目の前の食事と、この人々に罪はない。とろりとしたスープからは温かい湯気が立っている。ジェイルは手錠のかかった手で、ぎこちなくスプーンを握った。




