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第36話:ささやかれたコード

 チセが見抜いたとおり、ジェイルの胸の内には言いたいことがたまっていたらしい。解き放たれた言葉は次々に連なって道をつくり、話し始める前は意図していなかった場所へたどり着いていた。

 わずか3分ほどのスピーチだったが、終えた今は数十年分の重荷をおろしたようで、ジェイルはちょっとした放心状態だった。こんなことなら、もっと早く言えばよかったのか。そう呆れそうになったが、すぐに考えを改める。今がふさわしいときだったのだ。自分自身に準備ができていなければ、内にある感情を言語化することはできない。ジェイルが言葉を待っていたように、言葉もジェイルを待っていたのだろう。

 はたと我に返り、ジェイルは立ち上がった。のんびり感慨にふけっている場合ではない。この動画もチセに渡し、届けてもらわなければ意味がない。

「待たせた。今度こそ、頼む」

 ジェイルが窓からそっと声をかける。頼んだとおり、チセは窓から少し離れたところで、こちらに背を向けて立っていた。

 聞こえなかったのか、チセは反応しなかった。ぼんやりと日差しの中に立ったままだ。もう一度、声を潜めながらジェイルが呼びかける。

「聞こえてるか?」

「えっ? あ、すみません」

 チセはようやく気付いたというように、ジェイルと目を合わせた。

「撮れたんですね」

 笑みをつくり、こちらへとやって来たが、酔っているかのように足取りがふわふわとしている。普段と違う様子に、ジェイルは怪訝な顔をした。

「どうかしたのか」

「暑いからですかね? なんかぼうっとしちゃって」

 チセはなんでもないと笑ったが、よくよく見れば、頬も赤い。

「変だぞ」

「いえ、大丈夫です。すぐに行ってきますね」

 そう言ってiPadに手を伸ばそうとした瞬間、ジェイルの目の前からチセの顔が消えた。正確には、チセが体のバランスを崩し、脚から崩れ落ちた。

 どさり、という音を聞いても、ジェイルは何が起きたのかわからなかった。格子をつかんで下を覗き込むと、チセが地面に尻餅をつくように転んでいた。

「おい――おい!?」

「あ、あれ? おかしいな……」

 チセは立ち上がろうとするが、体に力が入らないらしい。ぼんやりとした顔で、ジェイルを見上げた。目の焦点がちゃんと合っていない。息は浅く、額や首筋に大量の汗をかいている。

 もしかしてこれは、熱中症の症状ではないか。

「水だ!」

 ジェイルは弾かれたように部屋を振り返り、ベッドサイドに置かれた水入りのカラフェとグラスを手に取った。だが、窓の格子の間を通すことができない。ガシャンという音とともに、カラフェの中の水が揺れただけだ。

「大丈夫、です。たぶん、ちょっと休んでれば……」

 チセは気丈に振る舞おうとするが、息が荒くなるばかりだ。何もできないジェイルの前で、東南アジアの強い太陽光は、残酷にふりそそいでいる。

 ジェイルの全身から血の気が引いていく。この炎天下に、ジェイルを探して知らない土地をさまよっていたのだ。現地の人間だってつらい気候なのに、慣れない日本人ならどうなることか。全然気づかなかった。俺は本当に自分のことばかりだ。

「助けを呼ぶ」

「いいえ。はやく、iPadを」

 チセは壁に手をつきながら、なんとか立ち上がる。立ち尽くすジェイルを安心させるように、笑顔をつくった。

「ジェイルさんのボンドガール、ですから」

 その瞬間、ジェイルは心を決めた。

「カヒリ!」

 ジェイルは出しうる限りの大声を張り上げた。

「アンバムでもいい、今すぐ来てくれ」

 廊下の先から、人が出てくる気配がした。ジェイルはドアの向こう側に向かって叫んだ。

「庭に病人がいるんだ! おそらく熱中症だ。助けてくれ」

 バタバタと足音がし、玄関のドアが開く。十数秒のことなのに、十倍近くに感じる。叫ぶしかできない自分がもどかしい。

 カヒリが部屋に入ってきて、「いったい何が起きているのか」という顔をした。同時に庭に出てきたアンバムとディナラが、チセを見つけて目を丸くしている。

「彼女は俺を探してここに来たんだ」

 格子の向こうでふらついているチセは力なく首を横に振り、必死に目で訴えたが、ジェイルの腹は決まっていた。せっかくの逃亡のチャンスは水泡に帰したが、そんなことは今どうでもいい。

「俺には彼女を助ける責任がある」

 ジェイルの視線には、迷いも混じりけもなかった。カヒリの瞳にジェイルが映り、そこに過去の姿が重なる。32歳の青年でも、17歳の少年王でもなく、もっと古い記憶。もう失われた美しい時代の、無垢で聡い王子の姿が。

 カヒリが庭へ向かって言った。

「アンバム、その人を家の中に運んで」

 指名されたアンバムは、困惑した表情を浮かべた。

「はやく」

「わかった」

 そうは言いながらも、若い女性に触れることに抵抗があるのか手間取ってしまう。傍らのディナラも一緒に助けようとするが、体の小さな子どもにできることはたかが知れていた。

 もどかしく格子を握りしめるジェイルの手に、カヒリの手が重なった。

「玄関へ」

 アンバムが「お祖母ちゃん! もし逃げたら……」と、とがめるような声をあげたが、玄関から出たジェイルは、わき目もふらず庭へと走った。アンバムを押しのけるようにしてチセに駆け寄り、体を支える。

「今助ける」

 高い体温が、シャツ越しにも伝わってきた。ジェイルは改めて申し訳ない気持ちになる。華奢な腰を抱えようとすると、チセがかすれ気味の声でつぶやいた。

「私のことは放って、逃げてください」

「そんなこと言ってる場合か。逃げる方法はまた考えればいい」

「ごめんなさい」

「謝るな。謝るのは俺のほうだ」

 チセはもう何も言わなかった。カヒリに先導されながら、ジェイルは冷房の効いたリビングへとチセを運ぶ。ソファにゆっくりと横たえると、チセが安堵したような表情になった。


 カヒリの対応は迅速だった。横になっているチセの足元にクッションを置き、足の位置を高くする。こうすることで、心臓への血流がよくなるそうだ。首や脇の下に氷嚢を当て、口からはライムを絞り、塩とはちみつを加えたミネラルウォーターを飲ませた。ディナラもその手伝いをしたり、見よう見まねでチセの足元を扇子であおいだりする。

 救急車を呼ぶほどの重症ではなかったらしく、チセの顔はだんだんと生気を取り戻していった。傍らで見守っていたジェイルは、ほっと安堵のため息をついた。

「カヒリ、本当にありがとう。感謝してもしきれない」

 ジェイルは心の底からカヒリにお礼を言った。

「王宮でも、真夏には、こんなふうに倒れる兵士がおりました」

 無口なカヒリの、珍しい思い出話だった。メイドだった彼女にとって、熱中症の世話はよくあることだったのだろう。

「お祖母ちゃん、兵隊さんの手当をしてたの?」

 ディナラが尋ねる。

「そうよ、お祖母ちゃんは王宮のメイドだったから」

「お祖母ちゃんがメイドさんなんて、想像できない」

 カヒリは微笑んで、ディナラの頬をなでた。

「お祖母ちゃんにも若い頃があったんだよ。当時はあなたたちのお母さんと同じくらいの年齢だった」

「いいなあ。ママも王宮で働ければ、一緒に暮らせるのに」

「そうね」

 祖母と孫娘のたわいのない会話を聞いていると、ジェイルは自分が軟禁中だということを忘れそうになる。だがカヒリの携帯電話がメッセージを着信すると、穏やかな時間は終わりを告げた。

「息子が、10分ほどで帰ってきます」

 チセの出現という緊急事態を聞いたヌアークが帰ってきたら、警戒が厳しくなるのは目に見えていた。ジェイルひとりでも厳しいのに、チセも一緒となれば、脱出はいよいよ困難になるだろう。

「ジェイル様、部屋にお戻りください。息子には、部屋から出たことは伏せておきますので」

 勝手にジェイルを出したことがバレれば、カヒリとしてもまずいのかもしれない。ジェイルはうなずき、状況をチセに伝えた。

 チセはジェイルの顔をじっと見て、「私、今のうちにトイレに行きたいです」と言った。

「起こしてもらえませんか?」

 ジェイルがチセの肩を軽く支えようとすると、手をはらいのけられた。ジェイルがきょとんとしていると、「そうじゃなくて、上半身をしっかり抱きかかえてください」などと言う。

「えっ? わ、わかった」

 病人相手なので、言うとおりにするしかない。しかし、傍にはカヒリもアンバムもディナラもいる。考えてみれば、さっき腰を抱きかかえたことも恥ずかしくなってきた。

 照れる気持ちを抑えながらチセの脇の下にそっと腕を入れる。すると、チセがぎゅっとしがみついてきたではないか。

 正面から抱きしめるような姿勢になる。やわらかい体が当たって呼吸が止まった。狼狽しかけたジェイルの耳元に、湿ったくちびるでチセがささやいた。

「0、8、7、3です。iPadのパスコード」

 一拍置いて、チセが伝えようとしたことにジェイルは気づいた。「わかった」とささやき返し、起き上がらせてやる。

 トイレにはカヒリとディナラがついて行くことになった。アンバムに監視されながら、ジェイルはあてがわれた部屋に戻った。鍵がかかった音を確認した瞬間、窓際に駆け寄る。


 モバイルWi-Fiは窓枠に置かれたままだった。床に落ちていたiPadを拾い上げ、パスコードを入力する。

 このiPadを外に持ち出せないなら、オンライン空間に動画をアップロードするしかない。ジェイルは画面を見て、ウェブブラウザを立ち上げ、世界最大級の動画サイトを開く。「Chise Obisawa」のユーザー名でログインしたままになっているが、新たなアカウントを登録する余裕はない。

「クソ、どこだよ」

 動画を投稿するページを見つけられず、焦りが募る。ヘルプページを見ているあいだにも、時間は刻一刻と過ぎていく。ようやくアップロード画面を開いたジェイルは、一瞬手を止めた。

 ふたつの動画のうち、どちらを優先させるか?

 ジェイルが選択したのは、後で撮ったもののほうだった。アップロードが始まる。Wi-Fiが重いのか、パーセント表示がなかなか増えない。ズボンの裾にぽたり、ぽたりと汗が落ちた。10秒、20秒、ジェイルは祈るように画面を見つめた。

 ステイタスが「完了」に変わった。これで終わりではなく、タイトルやキーワードを打ち込み、公開ボタンを押さなければならない。iPadの文字入力に慣れていないので、余計に時間がかかる。

 いったん入力し終えたが、英語表記のみになっていることに気づいた。今の設定ではヴェイラ語に変換もできない。英語だけで公開することはしたくなかった。この動画は、ヴェイラの人々に見てもらえなければ意味がない。

 ブラウザの新しいタブを開き、Googleの検索窓に自分の名前を入れた。ウィキペディアのページを開く。誰かがさっそく編集したのか、ラーニアの誕生パーティーのときのジェイルの顔写真に変わっていた。わずか数日後に、民家に幽閉され、汗水たらしながら慣れない動画サイトに四苦八苦することなんて、まるで想像もしていない顔だ。

 ヴェイラ語で書かれた名前をコピーし、Youtubeの編集欄にペーストした。

 ジェイル・レックス・ハッサ・チュンクリット。

 この名前を名乗ることに、もう迷いはない。


 ヌアークが部屋のドアを開いたのと、動画が「公開」になったのは、同時だった。


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