第33話:とらわれの身の上
噴射される煙。白い靄が車内に充満していく。
必死に叫んでいるはずなのに、声が出ない。抵抗もむなしく、自分の体がゆっくりと崩れていく。涸れそうな喉で、それでもジェイルは叫んだ。
「やめろ!」
自分の声で、ジェイルはハッと目を覚ました。
車の後部座席に座っていると思ったのに、目に入ったのは木目の天井だった。数秒して気づく。今自分は横たわっているらしい。
状況を確認しようとしても、頭の中がモヤモヤとし、うまく働かない。つい最近もこんな目覚めがあったが、今回はアルコール由来の不快感とは少し違う。誰かに記憶を抜き取られたような、地に足のつかない気味の悪さだ。まるで、麻酔をかけられたときのような。
ふらふらする頭を右手で抱えながら、ジェイルは上半身を起こし、記憶をたどった。ホテルのスイートルームで、ムラトたちと対面した。物別れに終わって、部屋を出た。ヌアークの運転する車に乗った。それから……。
クーデターという言葉が、さっと脳裏をよぎった。慌てて立ち上がろうとして、体がバランスを崩して倒れる。力がうまく入らない。
部屋は暗く、今が何時かもわからない。自分はどのくらい眠っていたのだろうか。もしすべてが終わったあとだったら。恐怖に近い焦りを感じながら、なんとか体勢を立て直し、ジェイルは這うようにして部屋の端に辿り着き、カーテンを引っ張った。
明るい陽射しが容赦なく差し込んできて、目を細める。太陽の高さから言って、午前中のようだった。
窓を開けると、暑い空気が流れ込んできた。腰の高さまである大きな窓だが、格子が挟まっていて、外に身を乗り出すことはできない。格子の間から見る限り、狭い庭のような空間があり、その先には道路があるようだ。見覚えのある景色ではなかったが、ひとまず外界はいつもと変わらない時間を刻んでいるように思えた。
「どこだよ、ここは……」
日の光を浴びているうちに、だんだんと意識が明確になってきた。ヌアークに、催眠ガスのようなものを嗅がされた以降の記憶がないということは、そのままここに連れてこられたということだろう。
部屋を見回した。こじんまりとしたベッドに、白い小さなデスク。年季の入った衣装箪笥のようなもの。壁にはメルヘンチックなデザインの時計と、エッフェル塔のイラストが描かれたカレンダーがかかっている。その日付は数年前のものだった。
綺麗に掃除されてはいるが、ホテルの客室ではない。誰かの暮らしていた部屋、それも女の部屋だという印象を受けた。
ジェイルはドアの存在に気づき、部屋を縦断する。取っ手に手をかけたが、外から鍵がかかっているようで、開かない。
「誰かいますか!」
ノブをガチャガチャと回していると、ふと気配を感じた。ドアは明かり取りのため、上部が少しだけ空いているデザインだった。見上げると、その隙間からこちらを見ている目と目が合う。驚いてジェイルは動きを止めた。
この高さから見下ろしているとすれば大男のはずだが、それはどう考えても子どもの目だった。
「起きた!」
ヴェイラ語で叫ぶような声が聞こえ、その声を発したであろう子どもが、バタバタと廊下を走っていくのが聞こえた。
状況がさっぱりわからない。ジェイルはドアを開けるのを諦め、ひとまずベッドに腰掛ける。猛烈に喉が渇いてきた。新鮮な水を口にしたかった。
しばらくして、また足音があった。鍵が外される音がし、控えめにドアが開く。隙間から顔をのぞかせているのはヌアークでも子どもでもなく、体の大きな、年配の女だった。ジェイルは反射的にその名をつぶやく。
「カヒリ」
ずいぶん老けてはいたが、かつて王宮でメイドとして働いていた女に間違いなかった。主に母親やジェイルたち三きょうだいの世話をしていたひとりだ。
出会い頭に名前を呼ばれたことに驚いたのか、カヒリは「ジェイル様」とつぶやき、複雑そうな表情を浮かべた。だがさっとお辞儀して顔を上げたときには、すでに表情を消していた。
「お食事です。お口に合わないかもしれませんが……」
カヒリはドアの隙間から食べ物ののったお盆を差し入れると、すぐにドアを閉めようとした。
「待ってくれ、外に出させてくれ」
「申し訳ございません。このあとヌアークが……息子が参ります」
立ち上がったジェイルを制すように、カヒリは「御用があればベルを鳴らしてお知らせください」と言って、あっという間にドアを閉めてしまった。
「カヒリ! ここはどこなんだ? ヌアークはどこにいる?」
ムダかと思いつつもドアを叩き、声を張り上げると、「おじさんは仕事に出てる」と子どもの声が聞こえた。さらにそれを打ち消すように、「ディナラ、しゃべるな」という少年の声と、カヒリの「アンバム、ディナラをこっちに連れてきなさい」という声が続く。ドアの前で人の気配がした。「お兄ちゃん、痛い!」という甲高い声と、2人分の足音が部屋の前を過ぎていった。
ヌアークが部屋を訪れたのは、30分ほど後のことだった。
「お加減はいかがですか、陛下」
母親に似て大柄なヌアークは、部屋の出口をふさぐように仁王立ちし、デスクに置かれた手つかずのままの食事を見やる。
「食事を召し上がられていないようですね。お口に合わないかもしれませんが、どうか、お食べください」
「また昏倒させられるかもしれないのに、何が入っているかわからないものを食べられるわけがない」
実際のところ、腹は減っていたが、水しか飲んでいない。出されたものを食べないことは、ジェイルの意志表明のつもりだった。
ヌアークは首を横に振る。
「食事には何も入っていません。催眠ガスを使ったことは、本当に申し訳ないと思っています。ですが陛下の安全を思えばのことと、理解してはいただけませんか」
「無理やり眠らされて、知らないところに閉じ込められていることを喜ぶ奴がいると思うか? 俺は外に出る」
ジェイルはベッドから立ち上がったが、ヌアークは動かない。
「通さないつもりか」
「陛下の頼みであろうと、それは無理です」
対峙してしばし睨み合ったが、先に視線を外したのはジェイルだった。ベッドに再び腰かけ、額に手をあててため息をつく。
「……状況を説明してくれ」
「今は木曜日の昼前です。陛下が眠ってから半日ちょっとというところでしょうか」
「ここはどこだ?」
「3区にある私の家です」
ジェイルは苦い顔をした。予想はしていたが、ヌアークの自宅にいるということは、助けを求めても外部に伝わる可能性が低いということだ。
「これは、ユナル叔父の指示なのか?」
ヌアークは否定した。眠らせて自宅に連れてきたのは、自分の独断だという。
「ユナル様に報告したら、勝手な行動をたしなめられました。ただ、週末の計画のことを考えれば、陛下にここにとどまっていただくのは、結果的に好ましいとおっしゃいました」
「とどまっているんじゃない、閉じ込められているんだ」
ジェイルははっきりと訂正したが、ヌアークは特に悪びれる様子もなく、「狭苦しくて恐縮ですが、ここ以上に安全な場所はないのです。どうかあと数日、ご辛抱ください」と告げた。
ユナルやムラトと違い、ヌアークには対話の余地がない。なんとかしてここから抜け出す方法を考えていたが、正面から説得しても、とても聞き入れそうにない。走って強行突破する手もあるが、失敗して逆上させると厄介だ。
ジェイルは話題を変えた。
「俺のシャツのポケットに、携帯電話が入っていたはずだ」
「預からせていただきました」
「あれは間違えて持ってきた他人のものだ。俺は携帯を契約していない。だから、壊すとか中を見るなんてことは絶対にするな」
チセの名前を出すのははばかられた。ヌアークがどこまでチセのことを把握しているのかわからないが、危害が及ぶのは避けたい。
「丁重に保管しますが、今はお返しできません」
ヌアークは、ジェイルをじっと見た。おそらくジェイルより3、4歳下のはずだが、海の底のような静かな目をしている。
「一緒にいた日本人女性のものですか」
控えめにジェイルが頷くと、ヌアークはおもむろに言った。
「あのお方は……陛下の交際相手なのですか」
一瞬にして頭に血がのぼる。反吐が出そうだった。
的外れな質問だから、という理由だけではない。ヌアークの言葉の端に、「元国王たる者が付き合うにふさわしい相手なのか」と値踏みするようなニュアンスを感じたからだ。
それは侮辱以外の何物でもなかった。自分にとっても、チセにとっても。
「もし、仮にそうだったとして」
ジェイルは怒りのこもった目を向けた。
「だったら、いったいなんだというんだ」
拉致されてから、今、一番腹が立っていた。身体的に拘束されること以上に、精神に土足で踏み込まれることは許せなかった。
「申し訳ございません、出過ぎたことを伺いました」
今度はヌアークが視線を外し、腕時計をちらりと見た。
「私はいったん仕事に戻らなければなりません」
ジェイルの怒りは収まらなかったが、少しだけ冷静になった。ヌアークが長時間家をあけるなら、その隙に逃亡できるかもしれない。
そんな淡い期待を、去り際のヌアークの言葉が打ち砕く。
「玄関にも、暗証番号が必要な鍵をかけております。どうか、脱出などはお考えなさらぬよう」




