第32話:国家の値段
「だから陛下、あなたは政治には興味がなくても、この国の進む先には関心がおありのはずですよ」
ムラトが確信的な口調で言った。
「我々はなにも、あなたに政治家になってもらおうというわけではないんです。陛下にはもっと適任の仕事がある。そう、例えば……我々のブレーンになっていただけたら、と」
思わずジェイルは振り返った。ゆったりと腕を組んだムラトが、夜景を背にして立っている。すでに政権を取ったかのような、悠々とした佇まいだった。
ブレーンになるということは、政策や制度に関する知的顧問になるということだ。
元国王が政治の現場に戻れば、反発も招く。だがブレーンならあくまで民間人という体裁だ。ジェイルは学業に従事しながら、社会的地位も得ることができる。一方でムラトたちは、政治の実権は自分たちが握りつつ、ユナルが言うところの“若くて、外国帰りのインテリで、見た目がいい”元国王を象徴にして、権威を手に入れられる。
確かに、自陣営にジェイルを取り込むなら、これ以上にうまい方法はないかもしれない。
「……ウィン‐ウィンの取引というわけか」
ようやくジェイルが口を開くと、ムラトは満足そうにニヤリと笑った。
「よろしければ、ナック大学のポストも斡旋しましょう。社会科学部の教授なら、すぐにひとつ空けられるはずだ」
「もったいないほどの申し出だな。あんたに本当にそんな権力があるとしても、もしくは出まかせの口約束だとしても、大した悪知恵だよ。どちらにしろ、断る」
沈黙があった。3人の男たちは、ジェイルの発言が聞こえなかったかのような顔をしていた。ジェイルはズボンの両ポケットに手を入れ、正面を見据えた。
「落ちぶれたとはいえ、あんたたちに世話してもらわなければいけないほど、仕事には困っていない。私は社交も慈善事業も大嫌いだが、権威を自分たちの野望のダシにしようとする奴らに協力するくらいなら、まだそっちのほうがマシだ」
カディールが「失礼な。こんなに譲歩しているというのに」と唸った。ジェイルはそれを無視して、ムラトに目線をやった。
「それにムラト教授。仮に論文の書き手が私だったとしても、大事な論文を匿名で発表するような奴をブレーンなんかにしたくないはずだ。あんたも学者なら」
ムラトはわざとらしく肩をすくめた。
「……交渉の余地ゼロ、ですか。確かに陛下は政治には向いていませんね」
それはムラト流の、最大限に丁寧な嫌味なのだろう。知ってるさと、ジェイルは声に出さずに自嘲した。
「これ以上話しても時間のムダのようだ」というムラトの言葉が、終わりの合図だった。
「今日、最初からここに陛下は来ていない、我々も集まったりしていない、それでいいでしょう。もちろん、話した内容はお互いすべて忘れる」
ジェイルは軽くうなずくと、出口のドアノブに手をかけた。最後にちらりと振り返る。
「近々、何を計画している?」
ラーニアのメイド頭が教えてくれた、ユナルたちが今週末にたくらんでいることがなんなのか、知りたかった。
「お話しする義理はありませんね。我々はもう無関係だ。陛下にとっても、知らない方が身のためですよ」
ムラトの縁なし眼鏡がライトに反射して、目元がよく見えなかった。まるで拒絶の意志を示しているように。これ以上の追及は無理なようだ。
来たときと同様に、いくつも扉を開けていく。“商談”の終わったスイートルームは静かだった。ここでのジェイルはもはや元国王ではなく、場違いな軽装の男にすぎない。
部屋の外の廊下に出たとき、そっとついてくる影に気づいた。その影の手が伸び、ジェイルより一瞬はやく、エレベーターの呼び出しボタンを押した。
「ご自宅までお送りいたします」
昨日ヌアークと名乗った、ユナルの配下だった。
「ひとりで帰れる」
「そういうわけにはまいりません」
やりとりを想定していたのだろう、ヌアークは流れるような動きでエレベーターに乗りこんだ。ジェイルも諦めて、エレベーターの壁に背中をつける。押し問答するような気力は残っていなかった。
案内された車は、行きに乗車したユナルの愛車のベントレーではなく、型落ちの韓国車だった。ヴェイラでは一般的な車種だ。
後部座席に腰を下ろすと、尻のあたりに何か硬いものが当たる。ポケットをまさぐって出てきたのは、チセのiPhoneだった。
「そういえば……」
ユナルが家に現れたときに、無意識にポケットに入れていたらしい。事故とはいえ、人のiPhoneを勝手に持ち出してしまった。今ごろチセは困っているかもしれないと、申し訳ない気持ちになる。シャツの胸ポケットにiPhoneを入れ直し、改めて座席に深く沈み込んだ。
疲れていた。チセと食事をとってから、まだ2時間程度しか経っていないというのに、遠い記憶のようだ。
啖呵を切るというのは、労力がいるものだ。ムラトたちに言った言葉は本心で、後悔などないが、清々した、という心境には程遠かった。
もしも論文の内容が、本当に政策として実行に移されたら――。ブレーンというのはムラトたちの誘い文句に過ぎず、そんなうまい話はまずありえないとわかっているのに、ほんの少しだけ、そうなったかもしれない未来を考えてしまう。
論文で書いたのは理想の理論であって、実際に政策として機能するかどうかわからないことぐらい、ジェイル自身承知している。それでも、可能性を目の前にぶら下げられたとき、どこかで想像してしまった自分が確かにいた。
それは、自分は元国王かつ研究者であるという、無意識の傲慢さゆえなのだろうか。
パパパパパンッ
窓の外から銃声のような音がした。物思いにふけていたジェイルは、ビクッと肩を震わせて我に帰った。
車はチャイナタウンを通り抜けていた。窓から覗くと、若い男女が通りで爆竹を鳴らしていた。
中国には、旧正月や節日に爆竹で祝う風習がある。もちろんヴェイラのチャイナタウンでも、その習慣は大切にされている。
建国記念日は今週末だが、お祭り騒ぎがすでに始まっているらしい。長期休暇を取っている者も多いだろう。銃声だと思うなんて、気が立っているのかもしれない。ぼんやりと考えながら、ジェイルは流れる景色を見ていた。
週末に向けて、街はますます盛り上がるだろう。金曜と土曜の夜には、毎年花火も打ち上がる。建国祭のメインイベントのひとつで、爆竹の比にはならないような大きな音が、首都中に響き渡る……。
ジェイルは目を見開いた。
恐ろしい想像が、急速に脳内を駆け巡っていく。まさか、そんなことは。
今週末。建国祭。外出を控えたほうがいい事態。花火。
《自分たちが置かれた状況を、国民に思い起こさせる》
カディールの言葉が頭の中で再生された。具体的にその方法があるとしたら、それは、もしかして。
「クーデターを起こすつもりか」
愚かな妄想だと思いたかった。しかし口にした瞬間、これが答えだという予感がした。
ミラーに写ったヌアークは微動だにしない。顔色も変えず、運転を続けている。
「建国祭のあいだは官公庁の警備も手薄だし、いちばん油断する時期だ。人の目は花火に向いている。音もかき消せる。夜のあいだに軍隊を動かし、重要機関を占領する。夜が明ける頃までに、大勢を決する。そういうことか」
ヌアークに問いかけるというよりも、考えを整理するために、ジェイルは喋り続けた。散らばっていたピースがひとつにまとまり、一枚の絵になって目前に現れる。
古今東西、政権転覆のいちばん手っ取り早い手段は武力行使だ。韓国でもタイでもミャンマーでも行われてきた。つまり、軍事クーデター。
軍部の急進派だけでは、そこまで計画できないかもしれない。だが、背後でムラトたち超党派が手を回しているなら話は別だ。
だがそんな事態は、決してあってはならないことではないか。
「違うなら否定してくれ」
祈るように尋ねたが、ヌアークは黙ったままだ。肯定だと、ジェイルは直感した。
心臓が早鐘を打ち、背中に冷や汗が流れ始める。
「ダメだ。軍部をどの程度掌握しているのか知らないが、そんな計画うまくいくはずがない。血が流れるかもしれない。下手したら死人だって」
「……一般人は巻き込みません」
「ふざけるな!」
ジェイルは思わず運転席の背を殴った。
「お前たち、何をするつもりかわかっているのか? こんなことをしたら時代に逆行する。ヴェイラの民主主義は後退し、国際社会の非難も浴びる」
「我が国の問題です。よその国がどう思おうと関係ありません」
「暴力で獲得した政権が支持されるわけがない」
「国家は無料ではないということを、国民は知らなければなりません。こんなふうに命がけで国のために動く人間たちがいるということを知れば、おのずと目が覚めるでしょう」
取りつく島もない淡々とした口調に、身震いがした。怒りを通り越して絶望すら感じる。
「車を止めろ。降りる」
ジェイルはシートベルトを外した。
「どうなさるおつもりですか」
「いちばん近い交番に駆け込む」
もはや素性がバレるなどといったことはどうでもよかった。このふざけた計画を今すぐに止めなくてはならない。
「警察は本気にしないでしょう」
「信じるまで話すだけだ。元国王が訴えれば多少の信ぴょう性はあるだろう。車を止めてくれ」
ヌアークが車を路肩に寄せる気配はない。ジェイルとて、素直に停車してくれるとは期待していなかった。
少し先に黄色の信号が見えた。減速したタイミングで、転がり落ちるほかないかもしれない。覚悟してドアレバーに手をかけたとき、ガチャッとすべてのドアがロックされる音がした。レバーを引こうとした手がむなしく宙を切る。
「お前――」
「ご無礼をお許しください、陛下」
そう言って振り返ったヌアークは、ガスマスクのようなものを顔に装着していた。ジェイルがあっと驚いたのと同時に、手にしたスプレーから、ガスが勢いよく噴出される。
ガスを顔面に浴びて声をあげることもできないまま、ジェイルの意識は、白濁の中に沈んでいった。




