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第31話:ロング・ラブレター

 ジェイルは部屋の隅に置かれたアンティーク風のコンソールテーブルと、その上にある布張りのランプを見つめながら、慎重に言葉を選んだ。

「まず言っておきます。自分を犠牲にして国民に権利を与えたなんていう表現を、私の本心みたいに話すのは、やめてもらいたい」

 部屋中の目がこちらを向いているが、ジェイルはあえて誰とも目を合わせなかった。これは、集団催眠術の類だ――。内なる怒りを鎮めながら、自分に言い聞かせる。激昂したほうが、負けだ。

「私はたまたま王家に生まれて、たまたま大きな権利を託されていた。でもそんなシステムが時代遅れなのは明らかだった。だから民主化した、それだけのことだ。犠牲だとか与えただとか、そんな話ではありません」

「しかし実際、王家の人間は追放され、蔑まれ、祖国にすら堂々と住めない状況に陥りました。あまりにも理不尽ではないですか」

「民主化したあとのことに、私があれこれ口出しする権利はない」

「それですよ。おかしいと思いませんか? 民主化したって、あなたがこの国の一員であることには変わりがない。この国を憂う権利はあるんだ。なのに、元王族は何も言えない、何の権利もない、すべて奪われた状態でいろ……。そんな勝手が許されるでしょうか。それが、この15年間ではなかったですか?」

 ムラトは大きな窓を背景に、ワーキングデスクに手をつき、身を乗り出した。

「15年ですよ、陛下。15年の間、この国の人民は何をやっていたんでしょう? 健全な政治家を選ぶことでしょうか? 腐敗を弾劾することでしょうか? いいえ、違いますね。ただぼうっとしていたのです、彼らは」

 こいつの言葉に耳を貸すな。ジェイルはつとめて冷静になろうと、小さく呼吸を繰り返す。だがムラトのつむぐ話は、不思議に強い弾力性をもって、部屋の中で反響している。

「ヴェイラという国にとって、この15年間はムダだったとさえ言っていい。陛下、あなたはもっと怒ってもいいのですよ」

 ムラトが言いきると、ほかの男たちも小さくうなずいた。まるで、よく訓練された観客のように。


「とはいえ、国民がすべて悪いとは、私も思っていません」

 ジェイルが顔をしかめたのを見て、ムラトは表情を崩した。 

「思うに、変化が急すぎたのですよ。政治との向き合い方が成熟する前に、国のあり方が変わってしまった。努力する前に権利だけを得てしまった。赤ん坊に大金を渡しても、使い方がわからないのと同じです。私たちはこの状況を変えたいのです。国民のため、そして我が国の未来のために」

 険しかったムラトの表情は、一転して、憐れみをたたえた穏やかなものになっていた。口元には微笑みすら浮かべていた。

――こいつは学者じゃない。政治家でもない。ほとんど宗教家だ。

 ジェイルに虫唾が走ったところで、ずっと黙っていたカディールが言葉を引き継いだ。

「まったくもって、ムラト教授の話したとおりだ。この15年間、何度も総選挙が行われたが、まともな変化は起こらなかった。経済政策は遅れ、GDPでも東南アジア諸国の後塵を拝している。このままではうだつの上がらない二流国家のままだ。自分たちが置かれた状況を国民に思い起こさせること。それこそが、状況を変えるために必要なことだと、我々は考えているわけです」

「さっきから聞いていたら、どの立場からものを言っているんだ?」

 流れを断ち切るべく、ジェイルは大きな声をあげた。

「国民は愚かで、学がない。それに対して自分たちは立派で、導ける存在……そんなふうに思っているのか。傲慢すぎる。いい加減にしてくれ」

 ジェイルは今度こそ立ち上がった。この胸糞悪いスイートルームを出て、今すぐに帰宅するつもりだった。

「あんたたちがどんな思想をもとうと勝手だが、私はまったく共感できない。二度と巻き込まないでくれ。私は政治ゲームには一切関わらない」

 引き留めようとするクィンの手を振り払って、ジェイルは部屋の出口へと歩き始めた。扉近くの椅子に座っていたユナルが、物言いたげな顔でこちらを見ている。無視して外に出ようとした、そのときだった。


「『21世紀の小国が生き残るためにもっとも重要なのは、経済開発ではなく、多様性をふまえた保険と福祉の充実である』」


 朗々としたムラトの声が部屋に響いた。

 ジェイルは動きを止めた。というよりも、動けなかった。そんなジェイルの後姿を見て、我が意を得たりとばかりに、ムラトは口角を上げた。

「これは数年前に、とある無名の学者が発表した、国際開発学の論文の主旨です。従来のような上から一方的に押し付けた経済発展ではなく、貧富の差、宗教、さらにはLGBTすらも問わない保険と福祉の充実こそが、一見遠回りに見えても国民の幸福度を上げ、他国への人材流出を防ぎ、さらには質の高い移民の流入も見込める。それこそが次の時代の小国のあり方ではないか――と筆者は語っている」

 目の前の重厚な扉を見つめたまま、ジェイルは背中でムラトの声を聴いていた。無視して去るべきだと思うのに、できない。

「先進的な、素晴らしい論文だと感嘆しました。文中ではヴェイラの名前こそ上がらなかったが、我が国の今後を考えるうえでも必要不可欠な視点だと思いました。私も政治学を学ぶ者の端くれとして、大いに感じ入ったものです。問題は、いったい誰が書いたのかということ。この筆者の主要な論文は今のところこれが最初で最後で、詳しいプロフィールは不明。名前はJay.R.Crite、オックスフォード在籍…」

 ムラトの喉がごくりと鳴った。

「これは、陛下、あなたが書いたものでしょう?」


 ジェイルは何も言えなかった。なぜなら、真実だから。Jay.R.Criteという名前は、大学院時代の終盤に、論文を発表する際に使ったペンネームだった。

 ムラトは沈黙を肯定と確信したらしい。

「名前と大学名を見て、てっきりイギリス人だと思い込んでいました。正体がわかってみれば、Jaylle Rex Hassa Chumclitteをもじった、ごく単純なペンネームでしたがね。昨日、あなたがオックスフォードで国際学を学んでいたというニュースを見て、ハッと思い当たったんですよ。あなたが筆者であることを踏まえて読み直すと、いろんなことに合点がいく。ヴェイラは取り上げられてこそいないが、逆にそれが不自然なほどの内容です。本当は、どこよりもヴェイラを意識して書かれた論文のはずだ」


 自分が今どんな表情をしているか、ジェイルは知りたくなかった。初対面の人間たちの前で、過去の自分を暴かれること。おそろしく屈辱的なのに、どこかで「その先を聞きたい」と少しでも感じていることが、自分でも信じがたかった。


 ヴェイラを去ってから、ジェイルはずっと学問に打ち込んできた。勉強に没頭していれば、政治という生臭い過去から逃げられる気がした。

 最初は語学。そのうち、興味の先が自然に社会人類学や環境学に広がった。連鎖するように、学問の海が開けることに夢中になった。

 だが大学院に進んで、本格的に研究と向き合う頃には、勉強はただ楽しいだけではないこともわかっていた。本気で研究するということは、自分の内面と向き合うことに他ならない。広く泳いでいるだけではダメで、深く潜って、内なる主題を見つける必要がある。

 学問を通じて、自分は何を問いたいのかを明らかにすること。それこそが研究者の使命であり、課題だ。ヴェイラから遠く離れたイギリスにいようと、世界中のどこにいようと、己の主題から逃れることはできない。

 最終的にジェイルがたどり着いたのは、社会科学の視点からアプローチする、小国における開発の研究だった。何十枚、何百枚と書き損じながら、すべてを注いで書き上げた論文は、まさに10年間の集大成だった。

 できあがったものを、タカシに読んでもらった。感想と批評を送り返してくれたメールの最後に、「ある意味、長いラブレターだな」と一言添えられていた。

 そして、論文が教授会で評価され、国際的な学術誌に掲載される頃、ジェイルは大学院を離れた。


 論文の反響は、あえて知らないようにしていた。どうせもう関係ないからと。だが、気にならなかったといったら嘘だ。研究者にとって、論文は大事な我が子に等しい。

 自分の手を離れた論文が、知らないところで誰かに読まれ、さらには評価されること。それは感慨としか言いようがなかった。

 たとえ、相手がこんな男であっても。

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