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第30話:スイートルームの講義

 すぐに戻ると言った割に、ジェイルが食べ終わった皿を洗ったあとも、チセは帰ってこなかった。また寄り道しているのだろうか。戻ってきたら、聞きたいことがたくさんある。ジェイルはそわそわしながら待っていた。

 ブー

 チセのiPhoneのバイブレーションが、さっきから何度か振動している。悪いと思いつつ立ち上がって画面を見ると、「New message has arrived」という表示がいくつか連なっていた。差出人やメッセージの内容はわからない。

 もしかして、恋人からだったりするのだろうか。

 つい1時間前までは思いもよらなかった疑問が、ジェイルの頭をよぎる。もっとも、ジェイルの常識で考えれば、恋人のいる21歳の女性が、単身外国に乗り込み、初対面の男の家に泊まり込むなんてありえない。だから恋人なんているわけがないと思うのだが、その常識をことごとく裏切ってきたのがチセという人間だ。絶対にない、などと言いきれるだろうか。

 そのとき、玄関のドアを強く叩く音がした。チセが帰ってきたのだろう。ジェイルは反射的にiPhoneを手に取ると、大股で廊下へと向かった。

「遅かったな。さっきから電話が何度も――」

 鍵を開けたジェイルは、そこまで言って口をつぐんだ。目の前に立っていたのはチセではなく、ユナルとその配下たちだった。

「やあ」

 スラックスのポケットに手を突っ込んだまま、ユナルが口角をあげた。口元は笑っているが、目は笑っていない。

「今日ラーニア様のところに行ったんだって? 驚いたな、君にそんな行動力があったなんて」

 もう情報が回っているのか。なかば予想はしていたが、こうして目の前にユナルが現れると気分が悪い。さっきまでの高揚した気持ちが急激に冷めていった。

「用件はなんです」

「改めて話がしたい。顔を貸してくれないかな」

「こっちは話したいことなんてありません」

「誤解を解きたいんだ。なんだか、レックス・ルーサー率いる悪の組織みたいに思われているみたいだからね。今回のことは、何も私が先導しているわけじゃない。むしろ私は下働きみたいなものさ。錚々たるメンバーが、この国の将来のために動こうとしているんだ。賛同者の名前を挙げようか」

 そういってユナルは、王党派の政治家や軍人だけではなく、経営者や知識人の名前も挙げた。冷静さをよそおいつつも、ジェイルは内心驚いていた。いかにも右寄りの過激派という面々を想定していたが、これが本当ならば、思っていた以上に地下水脈が広がっていたということだ。

「君に会うために、中心的な存在の何人かがホテルで待っている。時間がない。とにかく着いてきてくれ」

「行ったら記者会見なんて罠じゃないでしょうね」

「天に誓ってそれはない。彼らも立場がある。今日はあくまで非公式だ」

 メンバーの顔ぶれから考えて、おそらくそれは事実だろうとジェイルは思った。

 ユナルの誘いに乗るのは癪だが、ジェイルは向かうつもりになっていた。チセに言われたように、隠れているだけではなにも解決しない。腹は決まっているのだから、これはかえってチャンスかもしれない。ただーー。

「俺がいちばん信用できないのは、叔父上、あなたです。この国を憂うという気持ちだけで、ガキの使い役をする人ではないでしょう。あなたの企みは別にあるはずだ」

 わざと挑発するようにジェイルは言ったが、ユナルは片方の眉をあげて「ガキの使いは自ら志願したことさ」とはぐらかした。

「君の居場所を知っているということが、私のカードでもあるからね」

 確かにそれはユナルの本心だろう。

「さあ、急ごう」

 チセがまだ戻っていないのが気がかりだが、仕方がない。ジェイルはメモ帳を1枚破り、"I'll be right back,J."と走り書きしてダイニングテーブルに置いた。チセが帰ってきたときのために玄関の鍵はしめず、着の身着のまま、ジェイルはユナルの車に乗り込んだ。


 ユナルが定宿にしているという高級ホテルには、地下駐車場から最上階のスイートルームまで、直通のエレベーターがあった。なるほどセレブリティのプライベートは、こうやって守られるらしい。

 エレベーターは一部ガラス張りになっている。ハイスピードで上昇しながら、ジェイルは眼下の街を眺める。目の前の川の向こうにはライトアップされた宮殿も見える。

 王制の頃は、こんなに高い建物はなかった。宮殿を見下ろすような高層建築は、法律で禁じられていたからだ。いわばこのホテル自体が、民主化の産物のひとつだ。

 重い扉の奥に、ジェイルの家より長い廊下があり、さらに2つの扉を開けると、広いリビングルームになっていた。ジェイルの姿を認めて、3人の男がいっせいに立ち上がる。

「お目にかかれて光栄です。陛下……ではなくて、ミスター・チュンクリット?」

「ジェイルで構いません」

 さっと会釈はしたが、握手のために差し出された手には首を横に振った。相手もわかっているようで、それ以上は求めなかった。

 男たちの簡単な自己紹介が始まったが、ジェイルも全員の顔と名前を知っていた。中央にいるカディール・ダルは、陸軍出身のベテラン政治家で、野党の大物である。年はユナルと同じくらいだろう。堂々とした恰幅で、ヒゲをたくわえている。右にいるのはクィン・エラン。三代続く名門政治家一族で、王党派の流れを汲んでいるが、今は与党のヴェイラ国民党にいるはずだ。3人目は学者のムラト・ティウン。ムラトは、ヴェイラでもっとも権威のある大学である国立ナック大学で政治学を教えるかたわら、テレビ番組の論客としても活躍している。舌鋒鋭いコメントが人気で、「首相になってほしい人」などというアンケートでも名前の挙がる有名人だが、実際本人からも学者業以外への色気が垣間見えていて、ジェイルは苦手なタイプだった。ジェイルも大学院で研究をしていた身だから、広く言えば同業者である。だからこそ、この場にムラトがいるのは、いい気分ではなかった。政治家だけのほうが話しやすい。

「ミスター・ジェイル、あなたの影響力には本当に驚かされています。昨日の朝にあなたが帰国していることが報道されてから、話題はもちきりだ。そのほとんどが好意的なものです。政界も大騒ぎで、どうやったらあなたにコンタクトを取れるかと、情報が飛び交っています。幸いなことに、我々が一番乗りできた」

 一番若いクィンが、興奮したように言った。勢いで唾液が出そうになったのか、言い終えてペロッと舌で唇を舐めた。それが舌舐めずりのように見えて、ジェイルはさっそく気分が悪くなった。

「おべっかはいい。断っておきますが、私は話があると言われて来ただけです。あなた方のことを信用しているわけじゃない。むしろ、信用できない、関わり合いになりたくないと思っている。それをきちんと表明して帰りたい」

 与党の政治家と野党の政治家と学者が、秘密裏に会合している。その状況だけで、うさんくささの証明には十分だと思った。

「確かに驚かれたかもしれません。我々は超党派で集まっていますからね。そのぶん、純粋な思いをひとつにしている。つまり、国を憂うという思いだ。ヴェイラを正しい道に導く、そのためにひそかに活動を重ねてきた」

 カディールが低い声で、もったいぶりながらゆっくりと話した。さっそくこちらの問いを微妙にずらして、自分たちの言いたい結論に着地させている。政治家のこのやり口がジェイルは大嫌いだった。

「そんなことが聞きたいわけじゃない。私が言いたいのは、あなたたちが何を計画していようが、私を利用しようとしているなら、絶対に断るということです。第一、あの報道はなんですか? 私は現政権を憂慮しているなんて一言も言っていない。ねつ造して既成事実化しようとするなんて、まっとうな政治家のやることですか?」

 うしろで話を聞いているユナルへの怒りもこめて、ジェイルははっきりと言ってやった。クィンが苦笑しながらとりなす。

「急なことでしたから、情報が錯綜して、報道が先走ってしまったんでしょう。でもああやって報じられること自体、あなたにその価値がある、あなたが期待されている、ということではないでしょうか? どうでもよければ、ニュースにすらならないのだから」

「話にならない。一方的な主張を聞かされるだけなら、帰ります」

 ジェイルがソファから立ち上がろうとすると、今まで黙っていたムラトが口を開いた。

「大事なのは、陛下の登場によって、政治への不満が、一気に顕在化したということです」

 ムラトは一音一音区切るような話し方をした。まるで、学生に言い聞かせるように。

「これは、素晴らしい傾向です。ところで、陛下――」

ムラトはおもむろにソファから立ち上がると、部屋を歩きながら「わが国の政治の問題点は、なんだとお考えですか?」と質問した。

「……政治家たちが、政局に興じたり、保身に走ったりするばかりで、正しい政策が行われていないことだ」

「正解です。だが、答えとしては不十分だ。試験なら及第点といったところです」

 これではまるで、本当に授業だ。茶番だとわかっているが、部屋全体がムラトの講義に聞き入っていて、ジェイルも聴講するよりほかにない。

「もうひとつ、我が国の政治の問題点は、国民だ。国民は政治を諦めてしまって、他人事だと思っている。彼ら自身も、変化しようとしていない。つまり、政治家も国民も麻痺してしまっているのが、ヴェイラというわけです」

「それは違う。政治家の不正や汚職が、国民に皺寄せしている」

「では選挙で政治家を変えればいい。この国は民主主義なのだから」

 民主主義という言葉に、ジェイルは口をつぐんだ。それこそがジェイルの功績であり、同時に弱みでもあるということを、ムラトはよくわかっているのだ。

「そう、民主主義。15年前、陛下が自らを犠牲にして、国民に与えたものだ。なのに彼らはその貴重な権利を、おざなりにしているんですよ。悔しくないですか、陛下?」

 ムラトの縁なし眼鏡の奥が、不敵に光った。スイートルームは完全に、ムラトの独壇場と化していた。


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