第3話:ヒゲと少女
面倒なことになった――。
ジェイルの脳内で警鐘が鳴り響く。だが、動揺を悟られてはならない。
「人違いです」
あくまで無表情を装い、きっぱりと答える。同じようなことは、これまで何度かあった。とにかく否定し続けて、相手に有無を言わさないのが肝要だ。しつこいようなら、多少威圧的になっても仕方ない。ヒゲ面の男が凄めば、さすがに相手も……。
「って、写真を撮るな!」
叫んだときには、既にiPhoneのフラッシュが焚かれたあとだった。チセが画面を覗き込んではしゃぐ。
「結構よく撮れてる~」
「やめろ! 何するんだ!」
「あ、でも髪の毛もうちょっと流したほうがいいかも?」
「おい……」
先ほどからまったく話の通じない相手に、ジェイルは疲労感すら覚え始めていた。
チセがふとiPhoneから顔をあげ、小首をかしげて笑った。
「丁寧語だけじゃなくて、話し言葉も上手ですねえ。その口調、平間准教授そっくり」
「ヒラマ……?」
ジェイルの顔色が変わる。背の低いチセに合わせ、ぐいっと腰をかがめて顔を近づけた。
「タカシ・ヒラマのことか? ソウケイ・ユニバーシティの?」
ヒゲ面が急接近したことに頓着する様子もなく、チセは頷いた。
「そうです。私、平間ゼミの学生なんです。レックス2世さんのことも、准教授から聞いて」
思わずジェイルはチセの口を手でふさぐ。隙間からぐふっと空気の音が漏れた。
「その名前を言うな!」
そのときアパートの前の路地を、訝しげな目でジェイルとチセを見ながら親子が通り過ぎていった。ジェイルはハッとする。路地とはいえ、人通りはそれなりにある。ヒゲの男が少女の口をふさいでいる姿は、否応なしに目立つだろう。犯罪場面と勘違いされてもおかしくない。
「クソッ」
天を仰ぎ、英語で罵り言葉を吐いた。チセの口から手を離し、代わりに腕を掴んで引っ張るように外階段を上り始める。チセは怯えるどころか、大きな瞳をきょろきょろさせながら付いてきた。
だから、このガキは一体なんなんだ。
「そこにいろ」
チセを部屋に引っ張り込むと、テーブルの椅子を指差す。返事も確認しないまま、ジェイルは扉で仕切られた奥のベッドルームへと駆け込んだ。食事や仕事に使っているのはメインルームで、こちらはほぼ本棚と寝具だけの部屋だ。
棚から手帳を取り出して、大急ぎでめくる。TAKASHI HIRAMAの文字をみつけ、ベッドサイドに置いてある電話の受話器を掴み取った。81という日本の国番号に続けて、携帯電話の番号を入力する。
国際電話特有の発信音に飽きかけた頃、相手が出た。
「もしもし」
「Hi、タカシか?」
英語で切りだすと、ハッとした気配がした。
「ジェイ? 久しぶりだな! どうした?」
イギリスの大学に通っていた時代、ルームメイトだったのが日本から来た平間高志だった。年齢はジェイルより5つ上だが、ざっくばらんとした性格と、アジア人同士という親近感もあって、気の置けない付き合いをしていた数少ない友人のひとりだった。
だからジェイルにしては珍しく、感情を露わにすることができる。
「どうしたもこうしたもねーよ。お前、ふざけんなよ。何なんだよあいつは!」
「へ? なんのことだよ?」
タカシが間の抜けた声を出すので、ジェイルはさらに早口でまくしたてた。
「チセ・オビサワとかいう日本人の女のことだよ。いきなり俺の家に来て、『取材させてくれ』だとよ。お前のゼミの学生とか言ってたぞ。俺の素性を教えたのか?」
「おま、早口でわかんねえよ……。え? 帯沢千星が、そっちにいるのか?」
イギリスに留学していたにも関わらず、タカシは英語が下手だった。国際政治学の准教授ともあろうものがそれでいいのかと思うが、日本で若手の研究者として頭角を現していることは、ジェイルも伝え聞いていた。
ジェイルは日本語に切り替える。少なくとも、タカシの英語よりジェイルの日本語のほうが数段、うまい。
「隣の部屋にいるよ。すげえ変なガキ。大体あの子、いくつだ? 10代だろう? 日本の大学も飛び級制度を導入したのか?」
数秒の沈黙のあと、タカシは突然噴き出すと、爆笑した。
「だははは! あの子、ちっちぇえもんなあ。でも3年生だから今年で21歳だよ。リーガルな年齢。そうかあ、変わってる子だと思ってたけど、マジでヴェイラまで押し掛けたかぁ」
ジェイルの苛々に構うことなく、タカシはゲラゲラと笑い続けた。
「笑いごとじゃねえよ。説明しろ」
「すまんすまん。確かにウチのゼミの学生だな。将来ジャーナリストになりたいとか言ってて、俺がお前とルームメイトだったって話をぽろっとしたら、すげえ食いついてきたんだよ。もともと比較政治論とか体制移行に興味あったみたいでさ」
「だからって、お前は俺の住所まで教えるのか?」
思わず、非難めいた口調で詰め寄る。
「いや、さすがに教えねーよ。……教えてないが、心当たりはある」
おそらく、と前置きして続けた。
「どうしてもって言うんで、お前から来たクリスマスカードを見せたことはあった。その最中に電話がかかってきて数分席を外したから、写メでも撮られたかもしれん」
「泥棒じゃねえか」
オーマイゴッシュ、とため息が漏れる。
「なあタカシ、日本の学生は、頭は良くても道徳ってものを知らないのか?」
「少なくとも、大学に道徳を教える義務はねえよ。ゆとり世代は俺たちにも手に負えん」
「ユトリ……?」
聞き慣れない言葉をジェイルが聞き返すと、タカシがまたゲラゲラと笑った。
「そういう教育制度があってな。まあそんなわけなんで、夏休みを利用してお前に会いに行ったんだろ。しかし最近は、女の子のほうが行動力あるなあ」
「感心してる場合か。言っとくけど、俺は取材なんて一切答えるつもりないからな。昔のことはもう関係ないんだ。そのために俺は……」
ジェイルの言葉を紡ぐように、タカシが続けた。
「できるだけ一般人らしく生きてる、んだろ」
ジェイルは押し黙った。大学院時代、はじめてタカシに過去を知られたときも、自分は同じことを言った。
王制が崩れてすぐイギリスに渡り、ありふれたアジア系の学生として過ごしながらも、素性がばれることを常に警戒していた。当初はカメラのシャッター音や、東南アジア出身の人間とすれ違うことにすら、いちいち反応していた。
自意識過剰だという自覚はある。だが、おかげでなんとか15年間、平穏を保ってこれたのだ。
「わかってるよ。帯沢さんのことは俺に気を遣う必要はない。お前の好きにすればいいさ」
タカシが笑いながら言った。自称「小岩出身のヤンキー」らしい彼は、実際高校を卒業しておらず、大検を取って大学に入ったらしい変わり種だ。そのせいか、研究者とは思えないくらい口が悪い。寮生活を数年間ともにした結果、ジェイルの日本語は、影響されてかなり砕けたものになってしまった。
「ところでジェイ、今も翻訳で生活してるのか? 論文を書くつもりはないのか?」
タカシの声がさりげなく一段低くなったのを感じて、ジェイルは自嘲めいた笑い声を洩らす。
「大丈夫、間に合ってるよ。それよりお前が先月『Security Studies』に載せた論文読んだぜ。相変わらず英語は下手くそだが、考察はなかなかよかった」
うっせえよ、というあけすけな反応を聞いて、ジェイルは我知らず肩の力を抜いた。親友と呼んでいい関係のタカシにすら、突かれたくないこともある。きっとタカシは、わかっていてすぐ引いたに違いないのだが。
また連絡するよと言って、ふたりは国際電話を終えた。




