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第29話:知らない女

 ジェイルは午後いっぱい、タカシとメールのやり取りをしたり、キオスクで購入した新聞各紙を読み比べたりして過ごした。本当なら母や姉にもすぐに連絡を取りたいところだが、ヴェイラと、ふたりが暮らすサンフランシスコの時差は約14時間ある。向こうの朝を待ちながら、ジェイルはユナルの計画について考え続けた。

 わかっているのは、王党派とつるんで、何かをたくらんでいること。今週末に何かが起きるということ。

 どの新聞も、反政権デモやジェイルの出現を大きく取り上げていたが、中でもヴェイラ毎日新聞は紙面を大幅に割いていた。一貫して、ドルーダ政権を厳しく糾弾する論調だ。また「関係者筋」として、王党派に都合の良い取材コメントが多く掲載されているあたり、ロチャ元将軍の意向を組んでいると見て間違いない。

 ドルーダ首相を失脚させて、己の息がかかった右派政権を樹立する。ロチャが狙っているのは、そんなところだろう。しかしユナルが何故そこに噛んでいるのかが、ジェイルにはまだわからなかった。

 タカシはユナルを「王党派のパトロンではないか」と推測していたが、そうだとして、あの叔父がただ政治的信条だけで金を出すはずがない。今はロチャ元将軍と接近しているとはいえ、民主化の経緯から、王党派にもユナルをよく思わない人間は多いはずだ。保身で逃げるようにヴェイラを去った男がわざわざ帰ってくるのは、それ以上のリターンがあるからこそだろう。

 右派政権樹立後に、何らかの見返りを確約されているのだろうか。だが総選挙はまだ先だ。ドルーダ政権の決定的なスキャンダルでも握っていれば別だが、不確定な未来に、ユナルがこの段階で賭けるだろうか。

 悶々と考えていたら、ベッドルームの電話が鳴った。ダニットからだった。

「さっそくだけど情報が手に入ったわよ、お兄様」

 聞けば、ここ数か月の間に、ユナルは投資用の不動産をいくつか手放したという。そのうちのひとつを、ダニットの夫と親交の深い華僑財閥が購入したそうだ。

「理由はわかるか?」

 不動産を売却したということは、現金が手元に必要だということだろう。しかしユナルの羽振りが悪いようには見えなかった。

「そこまでは。ただ、これから大きなビジネスがある、と言っていたみたい」

 ダニットは「大した情報じゃなかったかもしれないけど」と謙遜したが、十分ありがたかった。電話を切って、ジェイルはリビングに戻る。

「ビジネス……。新しく何かを買うということか?」

 まとまった額を準備して買うものとは、いったい何だろうか。ジェイルはひとりごちる。

「企業を買収する?」

 まだ、ロチャ元将軍との計画と、ユナルのつながりが見えない。ダイニングテーブルに座って、ジェイルは頭を抱えた。

「ああクソ、わからねえ」

 大きな声を出した途端、ジェイルのお腹がぐううと鳴った。

「いい音で鳴りましたね」

 部屋の隅でiPhoneをいじっていたチセが、顔を上げて笑った。

「ラーニア様のところから戻ってから、何も食べてないからな」

 ジェイルが言うと、チセが呆れた顔をした。

「えっ、お昼食べてないんですか。ラーニア様のところでもそんなに食べなかったのに、そりゃお腹すきますよ」

 ラーニアのところを出て中央駅まで戻ってきたあと、ジェイルはまっすぐ家に帰り、チセは日本大使館へパスポートを受け取りに行った。そのまま観光もしますといって、少し前にこの家に戻ってきたところだ。チセが個人行動してくれたのは、ジェイルとしても気を遣わなくて済んでありがたかった。

「集中していると、食事にあまり気が向かないんだ」

 ジェイルのこの性質は、昨日今日に始まった話ではない。出かけて美味しいものを食べるのは好きだが、家にいるときは、ジェイルにとって食事はあくまで栄養補給、エネルギー補給のための行為という位置づけだった。特に仕事に没頭しているときは、食べると集中力がそがれる気がして、つい後回しになってしまう。1日2食で終わることも珍しくない。

 部屋の時計の針は、18時過ぎを指している。

「いい時間だし、夕飯にしますか? よかったら何か作りますよ」

 立ち上がったチセが、すたすたとキッチンへ向かう。

「いや、俺の分は気にするな。食うなら勝手に食え」

「それも変でしょう。昨日買ってきた食料、使わないとダメになっちゃうし」

食料を買ってきてもらった件については借りがある。ジェイルが黙って肯定の意志を示すと、チセは開けまーすと言って、冷蔵庫を物色し始めた。

「じゃがいもと玉ねぎとベーコンかぁ……」

 しばらく考えたのち、チセは「よし」と言って、ポンと手をたたいた。メニューが決まったらしい。

「何を作るんだ?」

「できてからのお楽しみです」

 チセは鍋や包丁を取り出した。ジェイルも話しかけるのをやめて待つことにした。

 リクライニングチェアに腰を下ろす。酷使して熱くなった頭を冷やすように、何をするでもなく、黙ってじっとしていた。そうすると、だんだん自分が何者でもなく、部屋と同化していくような心地になる。

 包丁で野菜を切る音や、鍋が煮える音に混じって、チセの鼻歌が聞こえた。歌詞を聞き取ろうとしてみたが、日本語なのかそうでないのか、判別するにはささやかすぎる歌声だった。もしかしたら、ただ口から出まかせで歌っているだけなのかもしれない。飛行機で異国のラジオを聞くときの気分と、少し似ていた。ジェイルはリクライニングチェアに深く沈み込む。

 甘辛いような匂いがキッチンから流れてきて、鼻腔をついた。腹が鳴り、ジェイルの頬が自然とゆるむ。自分が今、くつろいでいるという事実を、ジェイルは他人事のように感じる。同時に腹をすかしているのは紛れもない自分自身であることが、なんだか不思議で、くすぐったいような気分になった。

 20分後、ダイニングテーブルに皿が並べられた。パクチーときゅうりのサラダに、グリルしたナス。そしてジェイルは食べたことのない、大きめに切られたジャガイモと、玉ねぎと、ベーコンを煮た何か。ほくほくとしたジャガイモから湯気が立っている。

「……これは何ていう料理だ?」

「肉じゃがです。お肉は本当は牛肉を使うんですけど、ないのでベーコンにしました。醤油もないので、代わりにナンプラーを使ってみました」

「それ、もう別の料理じゃないか?」

「さあ、どうでしょう。とりあえず食べてみましょうよ」

 チセはいつものはぐらかすような言い方をして、「いただきます」と手を合わせた。なんとなくジェイルも真似して手を合わせた。

 フォークをじゃがいもに突き刺してみる。思ったよりやわらかく、割れ目からほろりと崩れる。落とさないように気を付けながら、ジェイルはそっと口に運んだ。熱いかたまりが口内を満たし、ゆっくりと溶けるように消えていった。

 続いてベーコンとたまねぎも食べてみる。味がしみていて、旨みがじゅわっと広がる。初めて出会う食感と味だった。

「どうですか?」

 チセが目を輝かせながら聞く。

「まずくない」

「素直じゃない言い方ですね」

「どう説明したらいいのかわからないんだ。不思議な味だが、嫌いではない。ただ、喉が渇くな」

 ジェイルは水をぐいっと飲み干した。

「日本の家庭料理で、一応モテ料理とも言われているんですよ」

「モテ? 餅のことか?」

 チセは吹き出した。

「男性が喜ぶ女性の手料理ってことです。セックスアピールに有効というか」

 真面目に聞き返した自分が馬鹿らしい。そう思ってジェイルは食事を再開しようとしたが、ふと手が止まった。

 チセもそんな気持ちで、恋人に料理を振る舞うことがあるのだろうか。

 なぜそんなことを急に思ったのか、わからない。だがその瞬間から、ジェイルの脳内は考えが止まらなくなった。

 この「ニクジャガ」を、ほかの誰かにも作ったことがあるのだろうか。そのときどんな顔をするのだろうか。というかそもそも、チセには今付き合っている相手がいるのだろうか?

 ジェイルはチセを見た。チセは自分が作った料理をぱくぱくと食べている。

「どうしました? やっぱりお口に合いません?」

「いや」

 慌ててジェイルは手と口を動かす。しかしやはり、頭の中がチセに関する疑問であふれかえってしまう。

 そりゃチセは大学生なのだから、彼氏くらいいてもおかしくない。そんな当然のことを、これまで考えてもいなかった。ジェイルにとって、チセは妙齢の女の子というよりも宇宙人のような存在だった。どこかフィクション的な存在だった。なのに急に今、初めて会ったかのように感じて、胸がざわついてしまう。何故こんな気持ちになってしまうのだろう、今考えるべきはユナルやロチャ元将軍のはずなのに。

 ジェイルはもう一度、チセをまじまじと見、そして思った。

 そういえば、俺はこいつのことをほとんど何も知らない。

 タカシから聞いた話が、ふと頭によみがえった。

「何故、ジャーナリストになりたいんだ」

「なんですか、急に」

 ナスを飲み込んだチセが首をかしげた。

「ご覧のとおり、昔から好奇心と行動力が旺盛なので。ジャーナリストになれば、いろんな国に行ったり、いろんな人に会えるでしょう?」

 確かにこれまでチセと一緒にいて、ジャーナリスト向きの特性は嫌と言うほど感じていた。ただ、それ以上の何かがあるとしたら、今はそれを知りたかった。

「いつから考えているんだ」

「小さい頃から漠然と思っていましたけど、ハッキリ意識したのは大学受験の頃です」

「目標はあるのか。いちばん取材したいこととか」

 チセが意外そうな顔をした。ジェイルが自分について細かく質問してくることを、少なからず驚いているらしい。今まではジェイルがチセに驚かされてばかりだったのに、逆の立場になったようで、ジェイルの心は何故か高鳴った。

「そうですね、叶えたい夢はあります」

 言葉を選びながら、チセが答える。

「でもそれに関しては、取材したいというより、自分の気持ちを伝えたいという思いが大きいんですよね」

「どういうことだ?」

 チセは答えるかわりに意味深に微笑むと、フォークを置いた。

「食べ終わったことだし、私、ちょっと甘いものでも買ってこようかな」

 そう言って立ち上がり、さっさと玄関へ向かう。チセの皿はきれいに空になっていた。あっけにとられたジェイルは、あわててチセの背中に呼びかける。

「電話、持っていかなくていいのか」

 キッチンの端に、チセのiPhoneが置きっぱなしになっていた。

「すぐ戻るから大丈夫でーす」

 そう言って振り返った笑顔は、いつもどおりのチセだった。気勢がそがれたジェイルは、そのまま出ていくチセを見送った。


 チセを追いかけていかなかったことを後悔すると、このときのジェイルはまだ知らない。


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