第28話:臨月
別にあなたの正体が知りたいわけではないの、だから言わなくていいのよ、とラーニアは言った。
チセの手を握って、「日本に帰っても元気で。またヴェイラに来ることがあったら、気軽に訪ねてちょうだい」と微笑むラーニアに、ジェイルは声をかけた。
「私ひとりでも、伺っていいでしょうか。たとえば、月に1回くらい」
ラーニアは小首をかしげて、「若いのに、物好きな人ね」と笑った。細めた目には慈しむような色が浮かんでいた。来てもいい、ということだろう。
「そういえば、これだけ話したのに、あなたの名前を聞いてなかったわ」
一息置いて、ジェイルは名乗った。
「ジェイルです」
ジェイルという名前は、ヴェイラでは割とありふれたものだ。だからか、ラーニアは特に驚いた様子もなく、「またお会いしましょう、ジェイルさん」と言った。
ラーニアが奥の部屋に去ったあと、メイドたちが玄関まで見送ってくれる。
「今日は本当にありがとうございました。これからはお土産を持ってきます」
丁寧にお礼を述べて帰ろうとしたジェイルのもとに、メイド頭がすっと近寄り、耳打ちした。
「ユナル様が、この週末は、ラーニア様を絶対に外出させないようにと。理由は、その時がくればわかるとおっしゃっていました」
ジェイルが思わずメイド頭を見ると、彼女は静かに頭を下げた。
「私から申し上げられるのは、それくらいですが……」
ユナルが企んでいることのヒントになるかもしれない。何より、越権行為に当たるだろうに、わざわざ情報を教えてくれたことにジェイルは感激した。少しでも信用してもらえたのだ。ジェイルは「ありがとう」と一礼した。
帰宅したジェイルは、時差を考えて、まずシドニーへ国際電話をかけた。電話の主が兄だとわかった瞬間、ダニットの声は不機嫌になった。
「天変地異の前触れかしら。あのお兄様が、私にわざわざ電話してくださるなんて」
「長い間連絡してなくてすまなかった。元気か?」
「まあね。お兄様のほうこそ、妹の結婚式を欠席するほど人付き合いが嫌いだったのに、政治活動を始めるなんて、よっぽど元気なんでしょうね」
予想してはいたが、やはり怒っているなと、ジェイルは電話を持っていないほうの手で頭をかいた。2歳年下のダニットは気が強く、昔からジェイルよりも弁が立つ。そして怒るとますます舌鋒鋭くなるタイプだった。
「結婚式のことは、本当にすまなかった。今日は、今俺が置かれている状況について、きちんと説明したくて電話した」
「政党に寄付金をよこせなんて話なら、断るわよ」
「まず言っておきたいんだが、今回のことは、俺の意思じゃないんだ」
疑い深そうにしているダニットに、これまでの経緯を説明する。最初は黙って聞いていたダニットも、ジェイルの話がユナルやロチャ将軍の動きに及ぶと、信ぴょう性を感じ始めたようだった。
「つまり、ユナル叔父様が王党派と一緒に何か仕組んでいるということ? 一体何を?」
「わからない。何か知らないか」
「うちはあまり付き合いがないから……。ただ、叔父様なら何かたくらんでいても驚かないわね。昔から金儲けが大好きだもの。お母様やお姉様の前では言わないけど、私、あの人好きじゃない。蛇みたいな男」
ダニットは吐き捨てるように言ったが、ただ、ラーニア様についての話は一理あるわね、と付け加えた。
「私もヴェイラを捨てたわ」
「違う、捨てたわけじゃない。お前は前に進んだんだ」
自分が女で、姉妹のどちらかが男だったら――と、ジェイルが考えたことがなかったわけではなかった。女には王位を継ぐ必要がないうえ、結婚という切り札がある。名字を変え、夫の経済力に頼ることができる。そう羨んだことがなかったわけではなかった。
しかし、若くして故郷と家庭を失ったという意味では、姉のカヤナも、ジェイルも、妹のダニットも、みんな同じだ。姉と妹は結婚し、新しい土地で新しい家庭を一から築くという道を選んだ。それがけっして簡単でないことが理解できないほど、ジェイルはもはや子供ではなかった。
「それに比べたら、俺は同じところでぐるぐると回っていただけだ。好んでヴェイラにいるくせに、現実から逃げ続けてきた」
母、姉、妹には、祖国の状況にとらわれず、幸せでいてほしい。それがジェイルの素直な思いだった。
「このクソみたいな状況がどうなるかはわからないが、心配しないでくれ。ラーニア様のケアは、必ず責任を持ってするから」
ダニットは黙っていた。綺麗事だけ言って、すぐには信用されなくても仕方がないだろう。失った信用は、何年もかけて、行動で取り返すしかない。
「ところで、子供が生まれると聞いた」
ユナルの話を思い出しながら、ジェイルはつとめて明るく言った。
「おめでとう。俺が言うのもなんだけど、無事の出産を祈っているよ」
受話器の向こうの沈黙に、濁音が混ざり始めた。ハッキリと鼻をすする音を聞いて、ジェイルはようやく、妹が泣いていることに気付いた。
「お兄様って、本当にムカつく」
涙声のダニットの第一声は、予想外のものだった。ダニットは堰を切ったように語りだした。
「大学院を卒業してから、いよいよ連絡もよこさなくなって、この数年間ほとんど行方不明みたいな状況だったじゃない。お母様とお姉様と私、いつも心配してたのよ。なのに、いきなりパリッとスーツを着て、澄ました顔でトップニュースに現れるんだもん。ふざけてる」
ダニットの口調が、これまでの距離感を伺うようなものから一転して、直線的になった。それは子供時代、何か気に食わないことがあった彼女が、頬を膨らませて周りに訴えるときの喋り方と一緒だった。そういうときの彼女は、テコでも動かないのだ。
「お母様なんて大騒動で、昨日は3度も電話をかけてきたのよ。友達や夫の親戚からも、問い合わせの連絡がひっきりなし。私、臨月なの。しかも初産なのよ。生まれてくる子供の名前を考えながら、ゆっくり編み物でもして安静にしてるつもりが、昨日、お兄様がニュースになった途端、話題はもうそればかり。みんなジェイルジェイルジェイルって! なんなのよ、もう!」
ダニットの剣幕に気圧され、今度はジェイルが口を開くことができない。
「電話がかかってきた瞬間、罵倒してやりたかった。どれだけ自分勝手なのって。でも話せば話すほど、怒ってる私が悪いみたいな気分になってきたじゃない。お兄様って、昔からそういうところがある。目立ちたくない、ほっといてくれみたいな顔をして、トラブルも他人に頼らずに全部自分で抱え込もうとするから、結局周りに罪悪感を抱かせるの、気付いてないでしょう」
ジェイルは驚いた。自分の行動がこんなふうに捉えられていたとは、思ったこともなかった。
「すまない。でも、本当にそんなつもりはなくて……」
「そういうところよ。素でやってるから、余計にムカつくのよ」
ジェイルが弁解できずに言葉に詰まっていると、ダニットはようやく笑った。
「すっきりした。一度言いたかったのよね」
「俺は、自分が思っている以上に、嫌われていたんだな」
「逆よ、みんなお兄様に甘いのよ。ほっとけないの、私も含めてね」
さらりと言われたその言葉に実感こそ持てなかったが、ジェイルはただありがたいと思った。ダニットは、夫が帰ってきたら、この件について訊いてみると言った。
「投資の動きについてなら、何かわかるかもしれない。金融に関して、華僑のネットワークは強いから」
ひとしきり怒ったり泣いたりし終わって、今やダニットは機嫌がよさそうですらあった。この荒々しく、同時にさっぱりした気質こそが妹らしさだと、ジェイルは改めて思い出した。
「ありがとう、助けてくれて」
「いいわよ。私にできるのはこのくらいだもの」
たとえ離れていても、家族の助力はかけがえのないものだと感じる。
「それともうひとつ、ありがとう。最初に怒鳴らずに、辛抱強く話を聞いてくれて」
ダニットが微笑んだ気配がした。
「私も大人になったのよ。もう母親だもん」
「今回の件が終わって、お前の出産も落ち着いたら、シドニーに遊びに行くよ」
そう言いながら、ジェイルは感じていた。たとえこの騒動が終わっても、すべてが綺麗に終わるわけではない。1週間前の生活に戻れるわけではない。むしろ今、ずっと止まっていた何かが再開し、また新しく始まりつつあるのだと。




