表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/52

第28話:臨月

 別にあなたの正体が知りたいわけではないの、だから言わなくていいのよ、とラーニアは言った。

チセの手を握って、「日本に帰っても元気で。またヴェイラに来ることがあったら、気軽に訪ねてちょうだい」と微笑むラーニアに、ジェイルは声をかけた。

「私ひとりでも、伺っていいでしょうか。たとえば、月に1回くらい」

 ラーニアは小首をかしげて、「若いのに、物好きな人ね」と笑った。細めた目には慈しむような色が浮かんでいた。来てもいい、ということだろう。

「そういえば、これだけ話したのに、あなたの名前を聞いてなかったわ」

 一息置いて、ジェイルは名乗った。

「ジェイルです」

 ジェイルという名前は、ヴェイラでは割とありふれたものだ。だからか、ラーニアは特に驚いた様子もなく、「またお会いしましょう、ジェイルさん」と言った。

 ラーニアが奥の部屋に去ったあと、メイドたちが玄関まで見送ってくれる。

「今日は本当にありがとうございました。これからはお土産を持ってきます」

 丁寧にお礼を述べて帰ろうとしたジェイルのもとに、メイド頭がすっと近寄り、耳打ちした。

「ユナル様が、この週末は、ラーニア様を絶対に外出させないようにと。理由は、その時がくればわかるとおっしゃっていました」

 ジェイルが思わずメイド頭を見ると、彼女は静かに頭を下げた。

「私から申し上げられるのは、それくらいですが……」

 ユナルが企んでいることのヒントになるかもしれない。何より、越権行為に当たるだろうに、わざわざ情報を教えてくれたことにジェイルは感激した。少しでも信用してもらえたのだ。ジェイルは「ありがとう」と一礼した。


 帰宅したジェイルは、時差を考えて、まずシドニーへ国際電話をかけた。電話の主が兄だとわかった瞬間、ダニットの声は不機嫌になった。

「天変地異の前触れかしら。あのお兄様が、私にわざわざ電話してくださるなんて」

「長い間連絡してなくてすまなかった。元気か?」

「まあね。お兄様のほうこそ、妹の結婚式を欠席するほど人付き合いが嫌いだったのに、政治活動を始めるなんて、よっぽど元気なんでしょうね」

 予想してはいたが、やはり怒っているなと、ジェイルは電話を持っていないほうの手で頭をかいた。2歳年下のダニットは気が強く、昔からジェイルよりも弁が立つ。そして怒るとますます舌鋒鋭くなるタイプだった。

「結婚式のことは、本当にすまなかった。今日は、今俺が置かれている状況について、きちんと説明したくて電話した」

「政党に寄付金をよこせなんて話なら、断るわよ」

「まず言っておきたいんだが、今回のことは、俺の意思じゃないんだ」

 疑い深そうにしているダニットに、これまでの経緯を説明する。最初は黙って聞いていたダニットも、ジェイルの話がユナルやロチャ将軍の動きに及ぶと、信ぴょう性を感じ始めたようだった。

「つまり、ユナル叔父様が王党派と一緒に何か仕組んでいるということ? 一体何を?」

「わからない。何か知らないか」

「うちはあまり付き合いがないから……。ただ、叔父様なら何かたくらんでいても驚かないわね。昔から金儲けが大好きだもの。お母様やお姉様の前では言わないけど、私、あの人好きじゃない。蛇みたいな男」

 ダニットは吐き捨てるように言ったが、ただ、ラーニア様についての話は一理あるわね、と付け加えた。

「私もヴェイラを捨てたわ」

「違う、捨てたわけじゃない。お前は前に進んだんだ」

 自分が女で、姉妹のどちらかが男だったら――と、ジェイルが考えたことがなかったわけではなかった。女には王位を継ぐ必要がないうえ、結婚という切り札がある。名字を変え、夫の経済力に頼ることができる。そう羨んだことがなかったわけではなかった。

 しかし、若くして故郷と家庭を失ったという意味では、姉のカヤナも、ジェイルも、妹のダニットも、みんな同じだ。姉と妹は結婚し、新しい土地で新しい家庭を一から築くという道を選んだ。それがけっして簡単でないことが理解できないほど、ジェイルはもはや子供ではなかった。

「それに比べたら、俺は同じところでぐるぐると回っていただけだ。好んでヴェイラにいるくせに、現実から逃げ続けてきた」

 母、姉、妹には、祖国の状況にとらわれず、幸せでいてほしい。それがジェイルの素直な思いだった。

「このクソみたいな状況がどうなるかはわからないが、心配しないでくれ。ラーニア様のケアは、必ず責任を持ってするから」

 ダニットは黙っていた。綺麗事だけ言って、すぐには信用されなくても仕方がないだろう。失った信用は、何年もかけて、行動で取り返すしかない。

「ところで、子供が生まれると聞いた」

 ユナルの話を思い出しながら、ジェイルはつとめて明るく言った。

「おめでとう。俺が言うのもなんだけど、無事の出産を祈っているよ」

 受話器の向こうの沈黙に、濁音が混ざり始めた。ハッキリと鼻をすする音を聞いて、ジェイルはようやく、妹が泣いていることに気付いた。

「お兄様って、本当にムカつく」

 涙声のダニットの第一声は、予想外のものだった。ダニットは堰を切ったように語りだした。

「大学院を卒業してから、いよいよ連絡もよこさなくなって、この数年間ほとんど行方不明みたいな状況だったじゃない。お母様とお姉様と私、いつも心配してたのよ。なのに、いきなりパリッとスーツを着て、澄ました顔でトップニュースに現れるんだもん。ふざけてる」

 ダニットの口調が、これまでの距離感を伺うようなものから一転して、直線的になった。それは子供時代、何か気に食わないことがあった彼女が、頬を膨らませて周りに訴えるときの喋り方と一緒だった。そういうときの彼女は、テコでも動かないのだ。

「お母様なんて大騒動で、昨日は3度も電話をかけてきたのよ。友達や夫の親戚からも、問い合わせの連絡がひっきりなし。私、臨月なの。しかも初産なのよ。生まれてくる子供の名前を考えながら、ゆっくり編み物でもして安静にしてるつもりが、昨日、お兄様がニュースになった途端、話題はもうそればかり。みんなジェイルジェイルジェイルって! なんなのよ、もう!」

 ダニットの剣幕に気圧され、今度はジェイルが口を開くことができない。

「電話がかかってきた瞬間、罵倒してやりたかった。どれだけ自分勝手なのって。でも話せば話すほど、怒ってる私が悪いみたいな気分になってきたじゃない。お兄様って、昔からそういうところがある。目立ちたくない、ほっといてくれみたいな顔をして、トラブルも他人に頼らずに全部自分で抱え込もうとするから、結局周りに罪悪感を抱かせるの、気付いてないでしょう」

 ジェイルは驚いた。自分の行動がこんなふうに捉えられていたとは、思ったこともなかった。

「すまない。でも、本当にそんなつもりはなくて……」

「そういうところよ。素でやってるから、余計にムカつくのよ」

 ジェイルが弁解できずに言葉に詰まっていると、ダニットはようやく笑った。

「すっきりした。一度言いたかったのよね」

「俺は、自分が思っている以上に、嫌われていたんだな」

「逆よ、みんなお兄様に甘いのよ。ほっとけないの、私も含めてね」

 さらりと言われたその言葉に実感こそ持てなかったが、ジェイルはただありがたいと思った。ダニットは、夫が帰ってきたら、この件について訊いてみると言った。

「投資の動きについてなら、何かわかるかもしれない。金融に関して、華僑のネットワークは強いから」

 ひとしきり怒ったり泣いたりし終わって、今やダニットは機嫌がよさそうですらあった。この荒々しく、同時にさっぱりした気質こそが妹らしさだと、ジェイルは改めて思い出した。

「ありがとう、助けてくれて」

「いいわよ。私にできるのはこのくらいだもの」

 たとえ離れていても、家族の助力はかけがえのないものだと感じる。

「それともうひとつ、ありがとう。最初に怒鳴らずに、辛抱強く話を聞いてくれて」

 ダニットが微笑んだ気配がした。

「私も大人になったのよ。もう母親だもん」

「今回の件が終わって、お前の出産も落ち着いたら、シドニーに遊びに行くよ」

 そう言いながら、ジェイルは感じていた。たとえこの騒動が終わっても、すべてが綺麗に終わるわけではない。1週間前の生活に戻れるわけではない。むしろ今、ずっと止まっていた何かが再開し、また新しく始まりつつあるのだと。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ