第27話:王様の条件
ラーニアは笑みを浮かべたまま、ミントン製の繊細な器に注がれた、ダージリン・ファーストフラッシュに口をつけた。唇の先が触れるか触れないかで、ゆっくりと優雅に味わうさまは、紅茶を慈しんでいるようにさえ見えた。香りと味を楽しんだあと、ラーニアはカップから唇を離し、音を立てずにカップをソーサーに戻した。
それが合図だった。
「逆に私から質問してもいいかしら。王様の条件、あなたは何だと思う?」
「えっ」
青白い顔をしてラーニアを見つめていたジェイルは、驚きの声をもらしたあと、しばし沈黙した。チセには、その横顔が、少し傷ついているように見えた。ヴェイラ語の内容はわからなかったが、何か大事な話が始まったことをチセは理解した。
言葉をたぐりよせるようにしながら、ジェイルは遠慮がちに切り出す。
「まずは、品格……。国のシンボルたる者は、誰よりも品格を備えていなければいけないと思います」
国王が首相や大統領と違うのは、政治家である以前に、子供の頃から社交の特殊教育を受けていることだ。上流社会における社交でもっとも尊敬されるのは、優雅で教養があることである。
「実務においては、国民のたくさんの意見に耳を傾けられること。分け隔てなく、あらゆる意見を尊重すること」
訥々と語るジェイルを、ラーニアは黙ってみつめている。
「しかし国のトップでいる以上、リーダーシップも不可欠です。ただ、それは強権的なものではなく、そのときそのときで最良の判断を……」
それ以上の言葉は続かなかった。
国王の条件。そんなもの、何度考えてもわからなかった。誰も教えてくれなかった。だからそんなものはないはずだ。何冊本を読んだと思っている。でもわからなかった。あるなら教えてほしい。教えてほしかった。
いたたまれなくなって、下を向いた。どうしようもなく情けなかった。
「弾切れかしら? じゃあ、答えを言いましょう」
ジェイルの頭上に、ラーニアの涼やかな声が降った。ジェイルは緊張して、ぐっと拳を握った。
「それはね、やさしいことよ」
ジェイルは顔を上げた。
「やさしい?」
「そう。品格もリーダーシップももちろん大事。でも、スペシャリストである必要はない。王様っていうのは、『この人のために奉仕したい』と、たくさんの人に思ってもらわなければ成り立たない存在なの。そういう気持ちを抱いてもらうには、とにかく人にやさしいこと」
ぼうっと聞いているジェイルに、ラーニアは「ぜひ、通訳してあげて」とチセを見やった。ジェイルは慌てて一連の流れを日本語で説明してやるが、まるで別の人間が喋っているような、心ここにあらずの状態だった。
「親切さは教育や努力で身につけることができるけど、やさしさというのは、少し違うの。世の中の倫理に関係なく、どんな相手にも愚かなほどやさしくできるというのは、並大抵のことじゃない。それは信念に近い。陛下も、そりゃあやさしくてね。誰かれ構わず、行幸先の物乞いにすらやさしいから、従者が心配して止めようとするくらい。だから自然と人がついてきた。やさしさというのは、思想や哲学を超えて響くのよ」
生前のハディト1世のことを思い浮かべているのだろう、ラーニアはふふと笑った。
「それって、どうやったら身につくものなんでしょうか?」
ジェイルの代わりにチセが疑問を口にした。ジェイルが訳すと、ラーニアは頷いて答える。
「半分は、才能かもしれないわね。王様だって人間だから、好き嫌いもあるでしょう。でも普通の人に比べて、圧倒的に恵まれた環境で生まれ育っている。そういう自分を客観的に見られれば、自分を後回しにして、他人にやさしくなれるものよ。むしろそうじゃなければ、王様をやる資格はないわ」
きっぱりとラーニアは言い切った。
ずっと知りたかったひとつの答えを聞けた。それについて感想を言うべきだと思っているのに、考えがふわふわと泡立ってまとまらない。ジェイルは少し困って、ラーニアを見た。
ジェイルの視線に気づき、ラーニアは目を細めた。
「難しく考える必要はない。大丈夫、とても簡単なことよ」
心臓がぎゅっと縮まるような感覚がした。同時にまぶたの奥が熱を持つ。
少しでも動いたら何かが溢れてしまいそうで、ジェイルはじっと耐えた。自分が泣きそうなのだということに、数秒遅れて気がついた。それに気づいたら、ますます涙がこぼれそうになった。馬鹿、こんなところで。
身体のそこかしこが熱を帯びている。しかしそれは怒りや焦りに付随するような、手に負えない不快な熱ではなく、もっとやわらかく穏やかなものだった。
しかし必死にこらえていた涙は、ラーニアの次の言葉で引っ込んだ。
「まあ、やさしすぎる人の近くにいると、大変なことも多いけれどね。陛下なんて、いったい何人の女性と関係を持ったことか……」
ジェイルは目を見開いた。
「ラーニア様、今なんて」
「浮気が凄かったという話よ」
聞き間違いかと思って確かめたが、ラーニア本人はケロッとしている。
祖父であるハディト1世は、ジェイルが生まれる前に亡くなっている。歴代でも名君と評判で、父としても家庭を大事にする素晴らしい男性だったと、ジェイルは何度も言い聞かされていた。とてもではないが、信じられない。
「で、ですが、おしどり夫婦だと」
「それは本当よ。私も子供のことも大事にしてくれましたけど、陛下はとにかく人間が好きな人でね。愛が分け隔てないの。でも相手が妙齢の女性なら、そういう展開になることもあるじゃない? 基本的に断らないのよあの人。来るもの拒まずで、悪気もないぶん、私たちは大変だったわ」
思わず後ろに控えるメイド頭を見たが、目を伏せて聞こえていないふりをしていた。そのポーズからも、これはラーニアが耄碌しているわけではなく、事実なのだろうと察せられた。
落ち着くため、ジェイルは手元のグラスを取り、一気に飲み干そうとする。
「婚外子だって、わかってるだけで2人」
鼻に水が入るかと思った。むせ返ったジェイルの背中を、チセが「ちょっと、どうしたんですか。汚い~」と言いながら、ぽんぽんと叩いた。
先代、つまりジェイルの父親には、ジェイルの叔母にあたる妹が2人いるだけで、ほかに男子の兄弟はいない。チュンクリット王朝は代々男子が継ぐことになっていたので、祖父、父、ジェイルの順に即位したが、いくら婚外子とはいえ男子の係累がほかにいたとすると、王家をゆるがす大スキャンダルではないか。
それ以上に、身近な家族にそんな秘密が隠されていて、自分がまったく知らずにいたことに、ジェイルはショックを隠しきれない。
「あの名君ハディト1世がまさか……。信じられません」
「そりゃ、王宮の奥に隠していたトップシークレットだもの。信じられなくて当然ね」と、ラーニアは得意そうな顔をした。
「完璧な人間なんていないってこと」
時間の制約など、すっかり頭の隅に追いやられていた。ずっと知らなかった家族の秘密を、もっと聞いていたかった。
話を聞いたチセは、驚くどころか目を輝かせて「さすが王様~! スケールが大きいですね」と興奮している。
「でも、いいんですかね? そんな話聞いちゃって」
ジェイルはハッとした。確かに、今自分たちはパーティーで会ったばかりの2人組ということになっているのだ。ラーニアの脳内では、王制はまだ続いている。こんな話を不用意にするものだろうか。
チセの疑問をジェイルがヴェイラ語で繰り返すと、ラーニアは真顔になった。
「私はね、カマをかけたつもりだったんだけど」
「え?」
「あなたが、陛下の隠し子か、その子供なんじゃないのかと思って。だから私に会いに来たんじゃないの?」
ジェイルはいよいよ絶句した。ラーニアは意外そうな顔をした。
「あら、違ったかしら?」
「何故……」
「だってあなた、若い頃の陛下によく似てるんだもの。とてもチュンクリット家らしい顔をしてる」
ラーニアはいたずらそうに笑ったが、ふと、その黒目がゆらいだ。
「私ね、最近物覚えが悪いのよ。大事なことをすぐに忘れてしまうの」
さきほどまで生き生きとしていた目は、一瞬だけ、何も反射しない黒い珠のようになった。老人特有の、光のない目だった。ジェイルが「そんなことはない」と言いかけたのを、ラーニアは制した。
「いいのよ、齢だから仕方がないの。自分でもわかってる。周りの人たちが、気をつかって話を合わせてくれていることも知っているわ。でもね、忘れていても、なんとなくわかることはあるのよ」
ラーニアは、ジェイルの目をじっとのぞきこんだ。
「私やっぱり、あなたとどこかで会ってるわね?」
この人に嘘はつけない。ジェイルは観念した。同時に、嬉しかった。
「はい」
空のいちばん高いところから、中庭に光が差し込んでいた。




