第26話:完璧なクイーン
ジェイルとチセは応接スペースから、さらに奥のテラスへと案内された。イスラム風の正方形の中庭に面しており、籐でできた白いテーブルとチェアが置かれている。空気が通りぬけるように設計されているのか、涼しい風がそよぎ、中庭に植えられた小さな花々を揺らしていた。
「きれい」
チセは感嘆の声をもらしたが、ジェイルはここまで来ても、本当にラーニアに会えるのか不安だった。
メイド頭にはえらそうなことを言ったが、実際ラーニアと何を話せばいいのか、心が決まりきらずにいた。ラーニアの脳の状態が先日のパーティー通りなら、ラーニアはジェイルを孫だとは認識していない。ほぼ初対面の男にユナルやロチャを信用するなと言われても、困惑させるだけだろう。
そんなジェイルの苦悩をよそに、チセは中庭の写真を撮って、iPhoneをいじっていた。
「それは、いつも何をしているんだ」
「ツイッターとフェイスブックとインスタグラムです」
チセはすらすらと、SNSの名前を並べた。ジェイルはSNSを使っていない。存在は知っているが、具体的にどう利用するのかは、よくわかっていない。
「主には写真をアップして、コメントつけたりとか。ヴェイラに旅行する人なんて珍しいし、風景が綺麗だから、結構反応ありますよ。インスタだと日本以外の人も見てくれてるみたいだし」
それがどう面白いのか、ジェイルには今ひとつピンとこなかった。
「いいけど、余計なことは書くなよ」
「『ラーニアなう』とか?」
「……絶対にやめろ」
そのとき視界の端に、ふわりと揺れる淡い水色が見えた。ジェイルは弾かれたように立ち上がる。現れたラーニアは、細いプリーツが刻まれた、空色の薄手のワンピースに身を包んでいた。
「お待ちのお客様はこちらです」
メイド頭に促されたラーニアと、ジェイルの目があった。ラーニアの黒目が一瞬揺れる。パーティーのときもこうだったと、ジェイルは思い出した。
「突然押しかけて申し訳ございません」
ラーニアは小首をかしげ、ジェイルの目をのぞきこむように言った。
「以前、どこかでお会いしたかしら?」
一昨日のことを既に忘れているのだろうか。ジェイルは戸惑いが顔に出ないように気をつけながら、丁寧に挨拶した。
「先日のお誕生日パーティーでお目にかかりました。憶えておいででしょうか。こちらのチセ・オビサワ嬢と一緒に、日本の話をさせていただいて……」
「ああ、そうね。思い出したわ。とても可愛い方。本当に遊びに来てくれたのね」
チセがヴェイラ語で「ヤンナー」と挨拶すると、ラーニアが相好を崩した。ジェイルはほっとするが、少し離れたところに控えたメイド頭の目線は鋭い。細心の注意を払って会話を続ける必要がある。
ティーセットが運ばれ、ちょっとしたアフタヌーンティーが始まった。
一度思い出すと、するすると記憶が繋がったようで、ラーニアは先日のチセとの会話の続きを楽しんでいた。くだけて話す様子を見るに、かなりチセのことを気に入ったようだ。
しばらく他愛のない会話が続いた。場の緊張をほどくという意味では効果的だが、しかしいつまでも世間話をしているわけにはいかない。タイムリミットもある。会話が途切れた隙を狙って、ジェイルは切り出した。
「ところでラーニア様、ユナル・ジャネイラ氏とはいつ頃から親しく付き合ってらっしゃるんでしょうか? 先日の誕生日パーティーも主催されていましたが……」
「ユナル? そうね、いつからかしらね。定期的にお土産を持って来てくれて、親切な人よ」
お土産、という言葉を聞いてジェイルはハッとした。そんなこと思いもよらなかった。いい大人は、人を訪ねるときはお土産のひとつも持って行くものなのだろう。焦っていたというのを差し置いても、己のいたらなさに唖然とする。
「彼がどうかした?」
「いえ、血縁的にも立場的にも、ジャネイラ氏はラーニア様とそれほど近しい間柄ではなかったのではと思って、少し驚いたというか……」
不審がられないように上手く言わなくてはと思うが、自然な言い方が思いつかない。
「彼は王族といってもチュンクリットの血筋ではございませんし、なんというか、親しくされているのが意外に思いまして」
「逆に言えば、血が濃いからといって、必ず親しいというものでもないわね」
ジェイルの曖昧な語尾を打ち消すように、ラーニアはきっぱりと言った。
「特に王族は普通の家族とは違いますから、単純な血縁関係では計れないわ。遠戚・姻戚まで含めてひとつの共同体だし、それぞれに公人として役割や立場がある。たとえ小さな子どもでもね」
淀みのない、しっかりとした口調だった。ジェイルは認知症というイメージに踊らされていた自分を恥じた。記憶の一部が曖昧だろうと、ラーニアは今でも完璧なクイーンだった。
「それにしても、何故そんなことを聞くの?」
切れ長の理知的な瞳が、射抜くようにジェイルを見据える。
「そういえば翻訳をやっているとおっしゃっていたけど、あなた、もしかしてマスコミの方? これは取材?」
予想していなかった展開に、ジェイルは言葉を失う。ヤバいヤバいヤバい。動悸があがって、冷静に考えられない。ラーニアを納得させる、上手い言い訳を必死で脳内検索する。ここで警戒されたら終わりだ。
「取材したがっているのは、こっちです」
ジェイルは隣に座るチセを指さした。
ラーニアが意外そうな顔でチセを見る。チセはリスのように全粒粉クッキーを頬張ったまま、きょとんとして目をしばたかせた。
「彼女、将来は国際ジャーナリストになるのが目標なんです。大学のゼミで政治体制を研究していて、フィールドワークのためにわざわざヴェイラに来たんです」
思いつくままに、でたらめを羅列する。
「彼女のゼミの教授が私の友人なんですが、単位認定が非常に厳しくて、彼女は卒業の危機なんです。でもラーニア様とお知り合いになれたことを連絡したら、もし取材できたら単位も認定するし、就職先に大手新聞社を紹介すると言っていて――」
すまんチセ、すまんタカシ。心のなかで謝りながら、ジェイルは畳みかけた。
ラーニアは少し考えていたが、テーブルの上で手を組み、にっこりと笑った。
「そういうことなら……。せっかく仲良くなれたことだし、こんな可愛いジャーナリストさんなら歓迎だわ」
ということなのでそれらしい質問をしてくれ、と日本語でジェイルが告げると、チセはラーニアに気づかれない程度にプッと噴き出した。
「なんですかその設定。いまどき、教授が新聞社を紹介するとかないですよ。そもそも私、まだ大学3年だし」
「いいから頼む。あとで礼はする」
ラーニアは日本語がわからないはずだが、つい小声でのやり取りになる。
「なかなか無茶ぶりですね」
そう笑いながらも、チセは鞄の中からメモ帳とボールペンを取り出して、ラーニアに向かって「よろしくお願いします」と一礼した。
「じゃあ、最初は気楽な質問からいきますね。宮中行事で、最も退屈なイベントは何ですか?」
いったい何を聞くんだと目を剥いたジェイルは、肘でチセの脇を小突いた。
「そんな質問、ラーニア様に失礼だろ」
「たぶん大丈夫ですから。お願いします」
自分で作り出した状況なので仕方がない。ジェイルがそのとおりに訳すと、ラーニアは目を丸くしたのち、破顔した。
「まあ、本当に面白いお嬢さんだこと。今から話すことはオフレコね?」
「もちろんです」
「実はね、年が明けて最初の国会のあとに、晩さん会があるのだけど……」
女学生が噂話をするように、ラーニアは身を乗り出した。
ぽんぽんぽんと、普段の会話と変わらないペースで、チセはインタビューを進めていく。
「国内行事だけでなく、外交も大事なお仕事だと思いますけど、どういう点に気をつけられているんでしょう?」
「たくさんあるけれど、その国の伝統や文化を尊重するというのが第一ね」
「それには、政治体制も関わってくるんでしょうか? 東南アジアだけでも多数の政治体制がありますよね。例えば、ヴェイラと同じ君主制のタイと、社会主義のベトナムでは、どんな違いが?」
いつでも助け舟を出せるように身構えていたが、今のところジェイルが口を挟む隙はなかった。よもやま話から、話題はいつのまにか政治と外交のテーマに近付いている。
さすがにラーニアもラーニアで、どんな質問にも素早く明確に答えていた。
「確かに、ベトナムやラオスのように、大きな動乱のあとに政治体制が変わった国は、センシティブな対応が求められるわね。同じ君主制のほうが、国賓の迎え方をよく知っているという点でラクではある。でも、だからといってタイが簡単な相手というわけではないわ。東南アジアは狭くて密接な地域で、人種も入り乱れている。島国である日本からは想像がつかないかもしれないけれど、紛争の種がそこらじゅうにたくさんあるの。ヴェイラは小さい国だから、他の国よりもさらに上手く立ち回らなければならない。政治体制に限らず、細やかに気を使いながらも、背中を見せないというのが、ヴェイラの外交かもしれないわね」
「なるほど。では具体的なお話を伺いたいんですが、1970年のカンボジアのクーデターのときは……」
ジェイルは目だけ動かして隣を見る。チラと見えたチセのメモ帳には、びっしりと書き込みがしてあった。ジャーナリスト志望というのは、伊達ではないらしい。
そういえば、そもそもチセがヴェイラにやってきたのは、自分に取材するためだったことを、ジェイルは思い出す。悪い冗談だと思っていたのに、こんな形で助けられることになるとは。
俺が21歳のとき、こんなふうに自分の言葉で話せただろうか。そして85歳になったとき、こんなふうに自分の言葉で話せるだろうか。
ひとしきり質問したあと、チセが感心したように言った。
「ラーニア様の人生って、ヴェイラの歴史そのものなんですね。本当に凄い」
ラーニアがふふ、と笑った。
「そうね。でもいちばん凄いのは国王陛下ですよ。責任もプレッシャーも段違いだもの。なろうと思ってなれるものじゃないわ」
ラーニアが「質問は以上かしら」と言いかけたとき、ジェイルは口にしていた。
「それでは、国王になるための条件とは、なんでしょうか?」
言葉がわからなかったチセが、首を曲げてジェイルの顔を見た。後ろに控えるメイド頭は、心なしか眉根を寄せた気がした。
ただひとりラーニアは、その質問を待っていたかのように、穏やかに微笑んでいた。




