第25話:リハビリテーション
紅茶にトースト、新鮮な卵。それにサングラスがあるだけで、それなりに心強く朝を迎えられるものだということを、ジェイルは実感した。
朝イチで片っぱしから仕事のメールを打った。幸い大きな案件はなかったので、急ぎのものだけ片付け、それ以外の取引先には、1週間ほど取り込む旨を連絡した。
そしてジェイルとチセは、人でごった返す中央駅にいた。20世紀初頭に建てられた、レトロな建築様式の、ヴェイラ最大のターミナル駅だ。
「5番ホームの電車に乗るんですよね。あ、あの黄色い電車、レトロで可愛い!」
列車や駅が好きなのだというチセは、ジェイルの返事も待たず、iPhone片手に駆け出す。
「ちょっと写真撮ってきます。ついでにお水も買ってきますね!」
チセの楽しそうな姿を見て、まるで遠足みたいだなと思う。実際、ジェイルにとって、日の高い時間帯にこういう遠出をするのは初めての経験だった。家からここまでバスで20分。これから電車で25分、乗り換えて10分。さらに徒歩で10分。それがラーニア王太后の住む水晶宮への最短経路だ。
しかも、今日はサングラスこそかけているものの、帽子もマスクもしていない。以前では考えられないほどの無防備さに、何度か口元を手で隠したい衝動に駆られたが、なんとか押しとどめる。
タクシーで向かうという選択肢もあったが、あえて電車を乗り継ぐ道順を選んだのは自分だ。家を出た瞬間から緊張していたが、もう一方では、きっと大丈夫だという根拠のない自信もあった。というよりもむしろ、こう思っていた。こんなハードルを飛び越えられない程度の自分ならば、ラーニア王太后には二度と再会する資格はない。
とにもかくにも、この駅が最大の関門だった。切符を買ったり、改札をくぐったりするという普通の行動も、脳内で何度もシュミレーションする。いつの間にか、握りしめた拳に手汗をかいている。額に滲む汗は、おかしな量になっていないだろうか。歩き方が不審ではないだろうか。考え出せばキリがない。
ふとした瞬間に、「レックス2世」や「王制」といった言葉がジェイルの耳にまとわりついた。それは大型ビジョンから流れるニュースの音かもしれないし、通り過ぎた人の噂話かもしれないし、あるいは幻聴かもしれなかった。不安な気持ちを、ぎゅっと握りつぶす。――今、振り返ったら負けだ。
平常心、と心のなかで自分に言い聞かせながら、ジェイルは早足気味に、だが視線をまっすぐ前に向けて、5番ホームへと歩いた。お目当ての電車は、すでにホームに停まっている。乗客の少ない車両を見つけ、ボックス席にすべりこんだ。追いかけてきたチセが隣に座る。
1分ほどして、きしんだ音を立ててドアが閉まった。電車がガタンと大きく揺れ、動き出した。
「……はぁ」
緊張していた両肩がゆるみ、ため息が漏れた。チセが顔をのぞきこんでくる。
「大丈夫ですか?」
「一応」
なんとか中央駅を抜けられたことで、身体中の力が抜けていた。情けないが、これが現実だ。やっぱり、遠足というよりリハビリに近いかもしれない。それでもなんとか大きな山を越えられたことに、ジェイルは安堵した。
「お水飲みます?」
「ああ」
チセがビニール袋からペットボトルの水を取り出した。受け取ろうとした瞬間、電車がカーブにさしかかり、ぐらりと揺れる。バランスを崩したジェイルの指先が、チセの指先に触れた。
反射的に手を引っ込める。
「あ、ごめんなさい」
「いや」
ジェイルの脳裏に昨夜の出来事がよみがえり、思わず下を向いた。気まずさと恥ずかしさが入り混じった感情が、しばしジェイルの呼吸を止める。
昨晩どうしてあんなことをしてしまったのか、一夜明けてジェイルはわからなくなっていた。おそらくきっと、自分は弱っていたのだ、と思う。そしてチセもまた、弱っている人間に対して親切にしてくれただけに過ぎないのだと思う。チセは、腹を立てていても、相手が飢えていれば食糧を買ってきてくれるようなタイプの人間なのだ。ジェイルに抱きしめられるがままにされていたのは、その延長線上に過ぎないだろう。
チラリと隣に目線を移すと、チセは特に気にする様子でもなく、撮ったばかりの写真をSNSにアップしているようだった。ジェイルはペットボトルのキャップをひねり、唇の奥に水を押しこんだ。
およそ45分経って、水晶宮に辿りついた。
電話番号がわからなかったので、事前のアポイントメントは入れていない。つまり来てみたはいいが、その先どうなるかは出たところ勝負だった。もっとも、ジェイルはラーニアに会えるまで、いつまでも待つ覚悟はできていた。
ジェイルとチセは、まず、来客用の応接スペースに通された。
応対したメイド頭は、かつてラーニア付きの副侍女長をしていたと名乗った。
「ラーニア王太后は通院のため外出中です。あと30分ほどでお戻りになるとは思いますが……」
ジェイルとチセは、応接室で待たせてもらうことにした。むしろそのほうが、心の準備ができて丁度良い。
湯気の立つ蓮茶が出される。外はカンカン照りだが、クーラーと扇風機が回る屋内では、氷入りの飲み物よりも、温かい飲み物のほうが落ち着く。一口飲んで、一級品とわかる代物だった。お茶を出してくれたメイドとは別に、部屋の隅にメイド頭が控えていた。ジェイルは彼女に、ラーニアの病状を聞いておくことにした。
メイド頭は一礼し、ピンと背筋を伸ばして説明を始めた。
曰く、認知症の症状は二年前から出始めたこと。昔のことは覚えているが、新しい出来事の記憶が飛び飛びになり、特に民主化後のことがぼやけていること。例えば携帯電話やデジタルカメラといった、この15年で普及した物や商品は、普通に認識している。だが自分の置かれている状況についての認識が、王制時代で止まっているそうだ。
薬物療法を行ってはいるが、徐々に進行するのは避けられない。ラーニア自身も、自分が忘れっぽくなったということは気づいているが、具体的に何を忘れているかはわからないらしい。認知症の初期患者はそういうものだそうだ。ラーニアは気丈に振舞っているが、ときどき不安げな表情をするという。
わかってはいたが、改めて聞いても胸が痛い。ジェイルが物思いに沈んでいると、メイド頭はおもむろに切り出した。
「それでジェイル様は、本日どのようなつもりでいらっしゃったのでしょうか?」
「え?」
ジェイルは思わずメイド頭を見返した。彼女の白髪は、髪の毛の一本も乱れることなく、きっちりとお団子頭にまとめられている。
「先日のパーティーがあったばかりで、ラーニア様はお疲れです。これ以上ラーニア様のご負担になるようなことをお考えになっているならば、僭越ながら、私はそれを認めるわけにはまいりません。それに……たとえジェイル様でも、事前のご連絡なしにラーニア様にお会いしようというのは失礼と存じます」
メイド頭は、あくまで慇懃無礼な態度を崩さずに言った。冷淡にも響くその口調からは、主人を守ろうとするプロの意志が見てとれた。
「申し訳ない。おっしゃるとおりです」
ジェイルは椅子に座りなおした。
「電話番号がわからなくて……。孫なのに何を言っているのかと思われると思いますが」
言いながら、ジェイルは己の不甲斐なさにため息をついた。
「恥ずかしい話です。ユナル叔父にも言われました。孫なのに一度も顔を見せず、今まで何をやっていたのかと」
「本日は、ユナル様に言われていらっしゃったのですか?」
「それは違います。自分の意志で来ました」
メイド頭が一瞬いぶかしむような顔をしたのを見て、ジェイルは立ち上がり否定した。
「テレビの報道をご覧になったかもしれませんが、あれはユナル叔父が仕組んだことです。私は引退した身で、政治活動を行うつもりは毛頭ありません。ユナル叔父やロチャ将軍が何を考えているのか知りませんが、ラーニア様がご自身の預かり知らぬところで彼らに利用されているならば、止めなければならない。そう思って今日は来ました」
「それにしても唐突でございますね。私の記憶が間違っていなければ、ジェイル様は王宮を離れてから一度もラーニア様とお会いされていないと存じます。お手紙などでのやりとりもなかったかと」
「弁解の余地もありません。本当にお恥ずかしい限りです。何をしても15年間の空白が埋められるとは思いませんが、自分の誤りに気づいたからには、1日もはやくお会いしたかった」
背中に冷や汗をかきながら、ジェイルは答えた。信用されていないのは明らかだった。何かひとつでも対応を間違えれば、ラーニアには会えないかもしれない。
おそらく70歳は超えているだろうメイド頭は、隙のない立ち姿だった。ロチャやパーティーの招待客たちと方法は違うが、このメイド頭もまた、ラーニア王太后の信奉者なのだ。
「本日もしラーニア様にお会いしても、ジェイル様のことを思い出せないかもしれません。もしくは、何か悪いショックを与える可能性もございます。私はそれを危惧しております」
「切り上げるタイミングはお任せします。15分でも構いません。それでも、ラーニア様にお目にかかりたいんです」
メイド頭はにこりともせずジェイルの話を聞き終えると、静かに目線でジェイルの姿をなぞった。
先ほどお茶を出してくれたメイドが部屋に入ってきた。ジェイルのほうを気にしながら、メイド頭に何事かを耳打ちをした。
おそらく、ラーニア王太后が帰ってきたのだろう。
メイド頭はしばらく沈黙したあと、一歩後ずさりして一礼した。
「準備ができたら、お呼びいたします」
彼女は若いメイドとともに、さっと部屋を出ていった。ジェイルはソファに尻を落とし、安堵のため息をついた。




