第24話:俺の魔法使い
大学院に残って研究を続ける道もあった。実際、引きとめてくれる人たちは少なくなかった。ここにいたほうがキャリアの足しになる。紹介状も持たずにヴェイラに戻ってどうする。
帰国の意志を曲げないジェイルに、担当教授は肩をすくめた。
「嫌な言い方かもしれないが、君は、自分の出自をもっと利用してもいいんじゃないかな」
一理あった。社会のある部分においては、ヴェイラのような小国でも元王族というカードは有効だ。研究するにしろ、就職するにしろ、いい待遇で受け入れてくれる場所はあるだろう。
だがそれは、ジェイルの望むやり方ではなかった。だから、あえて退路を断ったつもりだった。
「えらそうなこと言って出てきたはいいが、現実はこれだ」
10年ぶりの祖国は、陽射しのまぶしさも、香辛料の匂いも、客引きの押しの強さも、なにもかも強烈だった。圧倒的な生々しさの前では、記憶とインターネットを頼りにしたイメージトレーニングはまるで役に立たなかった。
まずは、慣れるところから。そう思って半引きこもり生活を始めて、早5年。ルーティーンを身体に組み込んでしまえば、それはそれで快適だったから、いつの間にか建前が目的になっていたのかもしれない。
大学院の人たちにこの体たらくを知られたら、きっと笑われるだろう。これまで学んでいたこととは直接関係ない、小口の翻訳業をこなして小金を稼ぎ、気休めといえば読書とたまのDVD鑑賞。髪と無精ヒゲで顔を隠してもなお、早朝と夜にしか出歩かない。そうやって、日々をやりすごすことだけに達成感を得る姿など。
「このまま時間が経てば、いつのまにか……なんとかなるんじゃないかって」
隠遁しながら暮らすのは、時間の流れとの我慢比べのようなものだ。
親戚や世間の目をかいくぐって、半径数メートルの世界で、ただひたすら、静かに生き延びていけば。
「でも、ダメだな。結局、俺自身が忘れていない」
「忘れたいですか?」
チセが問いかける。ジェイルは10秒ほど黙ってから、答えた。
「忘れたかったのと同じくらい、忘れたくなかったんだと思う」
自分でもうまく御せないこの気持ちを、17歳のあの夏の日からたぶんずっと、誰かにわかってほしかった。
いや、ただ聞いてもらえるだけでよかったのかもしれない。そう、こんなふうに。
ジェイルは眉を歪ませて、少し笑った。
「正直なところ、外に出て行くのは怖い」
自分の無力さは、自分が一番よく知っている。もしかしたら、状況はもう手の施しようがないかもしれない。自分ひとりの力ではどうにもならないかもしれない。
それでも、いいように利用されて、15年前の自分を裏切るのはイヤだった。
何故なら俺は証明するために生きてきたのだから。
「だが、民主化は俺の仕事だ。できる限り、ユナル叔父の計画を阻止する。簡単なことじゃないのはわかっている。だから、力を貸してほしい」
握りしめた指先に、ぎゅっと力を込めた。
部屋を静寂が満たしていた。ふたりの呼吸の音だけが交差した。
チセの手がジェイルの手を握り返す。チセはにっこりと笑った。
「もちろん」
安堵のため息をもらしたのも束の間、「じゃあ、こっち」とチセに腕をひかれた。促されるままに、ダイニングテーブルの椅子に腰掛ける。
「手始めに、怖くなくなる魔法、教えてあげようと思って」
「え?」
チセが鞄から何かを取り出し、後ろ手で持った。
「ちょっとだけ、目を瞑ってください」
「なんだよ」
「大丈夫、すぐ終わりますから」
チセの笑顔は有無を言わさぬ力があった。訳がわからないまま、ジェイルはとりあえず目を閉じる。
チセの指先が顎に触れる。
身構えた次の瞬間、唇の上の肌に、冷たく湿った感触があった。
鼻をツンとつく薬品臭。それが何かわかって、ジェイルは目を見開いた。
「バカ、やめろ!」
くすぐったいのを我慢できずに身をよじるが、どこからそんな力が出ているのかと思うくらい、チセはがっしりと顎をつかんで離さなかった。
「もー、じっとしてください」
「やめろって!」
「もう遅いですよん」
なすがままにしたあと、チセは満足そうに、きゅっと音を立てて水性ペンのキャップを閉めた。
「ほら、結構うまく描けましたよ。本物かそうじゃないかなんて、パッと見ただけじゃ意外とわかんないでしょう?」
チセが窓ガラスに顔を向ける。解放されて立ち上がったジェイルも、そちらを見た。
窓ガラスには、黒の水性ペンで描かれたヒゲ面の男が映っていた。
「ヒゲがないなら描けばいいんですよ」
頬をスモモのように色づかせながら、チセは得意げにジェイルを見上げた。
「このくらい、私がいくらでも描いてあげます」
黒の水性ペンで描かれたヒゲに、ジェイルはそっと指先で触れる。
「……確かに、悪くないな」
「でしょう。私、美術は5ですから」
チセの得意げな笑顔に、怒る気も呆れる気も奪われる。
そのうち笑いがこみ上げてきた。
「ああ、悪くない」
まったく、本当に、なんて女だ。
ジェイルは笑う。チセも一緒に笑った。
ひとしきり笑って、ふと真顔に戻る。チセと目が合った。
ゆっくりと、吸い込まれるように、ジェイルはチセの肩に腕を回した。
小柄なチセの身体が、すっぽりとジェイルの腕のなかにおさまる。茶色の細い髪の毛がジェイルの鼻先をくすぐった。チセの表情はわからない。
「しばらく、こうさせてくれ」
力をかけすぎないようにしながら、ジェイルはできる限り平坦な声で言った。チセの声が耳元で響く。
「いいですよ」
悪いと謝りかけて、やめた。その代わりこう呟いた。
「ありがとう」
チセは返事の代わりに、喉で小さく笑った。
しばらく体温の心地よさに身を委ねながら、ジェイルは心が軽くなっていくのを感じていた。
もしかしたら、本当に、こいつは魔法使いなのかもしれない。
子供じみた想像に、自分で呆れて笑みが漏れた。同時に、ひとつの決意が固まる。
チセを抱きしめたまま、窓の外をまっすぐみつめた。
「明日、ラーニア様に会いに行く」
もうこれ以上、ユナルたちのいいようにはさせない。そのためには、もう一度会う必要がある。
王制のもうひとりのシンボル、誇り高き王太后、そしてジェイルの祖母であるあの女性に。




