第23話:亡霊みたいなもの
「ユナル叔父の周到さは、お前も見ただろう? どんな根回しをしているかわかったものじゃない。次はテレビカメラが用意されているかもしれない」
ジェイルの畳みかけにひるむことなく、チセは言い返す。
「なおさら好都合じゃないですか。何も悪いことしてないんだから、堂々としてればいい。現政権に遺憾の意も抱いてないし、新党も結成しないし、国政に復帰するつもりもないって、ハッキリ言ったほうがいいですよ」
「あのな」
ジェイルはベッドから立ち上がり、右の手のひらをサイドテーブルに置いた。
「政治の世界っていうのは、お前が言うよりも複雑なんだ。そんなことで解決するなら、とっくの昔に解決してる」
「じゃあ、解決するためには何が有効なんですか? 今の状況を変えたいなら、少しずつでも行動するしかないじゃないですか」
「今は様子を見るのが先だ。だから、タカシに頼んで情報収集もしている」
「……そうですか」
了承したかと思ったのも束の間、冷徹なほど落ちついてチセは言った。
「情報収集で飢えがしのげるなら、ラクなもんですよね」
ジェイルのみぞおちが、ぐっと唸った。容赦なくチセは続ける。
「私が連絡しなかったら、飢え死にするつもりだったんですか? それに、たとえ買いだめしたって、食糧はなくなりますよね。そしたらどうするんですか。ヒゲが生えてくるのを待ちながら、ひもじいのを我慢し続けるんですか? それとも、生協でも頼むんですか」
受話器から聞こえる声は、普段の明るさが嘘のように冷たい。反比例するように、ジェイルのこめかみが熱くなっていく。
「どういう経緯であれ、起きてしまったことは戻せないのだから、ちゃんと向き合わないと。今の姿は、私には、逃げてるようにしか見えません」
「お前に何がわかる」
気づけばジェイルは叫んでいた。
「俺の気持ちは、誰にもわからない」
国中から石を投げられ、晒し者にされて、何もかも奪われる感覚は。
目の前がチカチカする。じっとりした汗が額から伝っている。右手で身体を支えないと、立っていられない。
「元国王として生きることが、どれだけ孤独か、わかるかよ!」
少しの沈黙があった。
「そうですね、わかりません。私は日本人だし、女だし、一般市民だし」
でも、とチセは言った。
「わからないから、わかりたいから、話したいんです。ジェイルさんは、何を望んでいるんですか?」
《君は何がしたいんだ?》
ユナルの声が横切った。口の中に苦みが走る。眉間にぎゅっと皺が寄る。
何故みんな俺にそれを訊くんだ。何故放っておいてくれないんだ。
黄金で飾られた、空の王座が瞼の裏に浮かんだ。もう二度と座ることのない椅子。引き継げなかった一族の繁栄の証。
何も考えたくない。
「……話すことはない」
「残念です」
小さなため息とともに、チセの声は途絶えた。通話が終わったことに気づかないまま、ジェイルは電話機を握りしめ、しばらく立ちつくしていた。
沈黙の塊となった電話機を、乱暴にサイドテーブルに投げる。それでは気持ちがおさまらず、ジェイルはベッドの枕を手に取ると、電話に向かって叩きつけた。
息が上がっている。目眩がするほど空腹なのに、血液が逆流して、興奮がおさまらない。意味もなく部屋の中を歩き回る。ベッドに横たえて瞼を閉じられたら、どれだけラクだろう。だが自分でもコントロールが効かないのだ。
あの女。チセ。元はと言えば、あいつが来たことからすべてが始まった。
チセに会わなければ。いや、そういう問題ではないことはわかっている。この状況は時間の問題だった。わかっていたはずだ。
だがチセじゃなければ、こんなに心が掻き乱されることはなかったのではないか。
ジェイルは後頭部を乱暴に掻き毟った。
苛々する。何も考えていなさそうな能天気そうな笑顔も、そのくせ鋭くえぐってくる言葉も。だから信用すべきじゃなかったのに。苛々する。あいつも結局、大勢のなかのひとりだった。どうして俺は期待したんだ。
「クソ」
ダイニングテーブルを両の拳で叩いた。興奮した身体をそのまま押さえつける。ぜえぜえと息を吐き、肩が大きく上下した。
ようやく呼吸を整えて、顔をあげる。部屋は嫌味なほど静まり返っている。
窓に近づいて、カーテンを開いた。
ガラス越しに夜の街がある。夜の闇に、無数の小さな光が見える。
この部屋の外では、人々が喋ったり、食べたり、喧嘩したり、触れ合いながら、暮らしている。それなのに。
ジェイルはカーテンを握りしめ、額を窓ガラスにつけた。
――ああ、俺は今、ほとんど亡霊みたいなものだ。
実体のないまま彷徨い続けている、王制国家の抜け殻。
大声で叫んでいるのに誰にも聞こえないんだ。
ドンドンドン、と音がした。
最初、ジェイルにはそれが何の音かわからなかった。
ドアが振動している音がする。ジェイルは窓辺を離れ、呆然と音のほうへ身体を動かした。
玄関ドアを誰かが叩いている。
まさか、そんなはずはないとジェイルは思った。あいつであるはずがない。期待するべきじゃない。
だが一方で、どうしようもなく、そうであってほしかった。
ゆっくりとドアノブをひねった。重い扉が開かれる。
「お待たせです」
パンパンに膨れたビニール袋2つを担いだチセが、立っていた。
言葉の出ないジェイルに構うことなく、チセは「お邪魔しまーす」と言いながら廊下を進み、ダイニングテーブルにビニール袋をドンと置いた。
「牛乳、インスタントコーヒー、ティーバッグ、頼まれてませんでしたけどビールも」
商品を読みあげながら、勢いよくテーブルの上に並べていく。
「缶詰は、シーチキン、カットトマト、パスタソース、キャンベルスープ、あとフルーツ缶」
テーブルが、あっという間に食品で埋められていく。
「食パン、バター、卵、パスタ、ベーコン、きゅうり、玉ねぎ、じゃがいも、ナス、アボカド、パクチー、冷凍むきエビ、冷凍ピザ、冷凍ギョウザ……こんなとこですね。あ、そうそう、これも」
ショートパンツのポケットをまさぐり、チセは値札がついたままのサングラスを取り出した。放り投げられたそれを、ジェイルはあわててキャッチする。
「レジの手前で売ってたので。適当な安物ですけど」
空になったビニール袋を手際よくまとめると、チセは振り返って腰に手をあてた。
「泊めていただいたお礼ってことで、お代はいりません」
あっけにとられているジェイルに、チセはうっすらと微笑んだ。
「以上です。それじゃ」
来てから3分と経っていなかった。何事もなかったように帰ろうとするチセの右手首を、ジェイルは掴んだ。
「いてくれ」
喉の奥から言葉をしぼりだした。
チセの大きな丸い目がジェイルを見つめる。手首を掴むジェイルの指先がかすかに震えた。
「……なんで、来たんだ」
「迷惑でした?」
「違う。でも、来ると思わなかった」
あんな酷いやり取りをしたあとで、どうして助けてくれるのか、ジェイルにはわからなかった。
「約束は約束ですから。でも正直、来るかどうかちょっと迷いましたよ」
「……悪かった。さっきは頭に血がのぼっていた」
「今も、ムカついてないと言えば嘘になります」
眉根を寄せたジェイルに、チセはいたずらっぽい微笑みを浮かべた。
「私が怒るの、結構珍しいんですよ。悔しいけど、さすがですね」
怒っても、それでもなお笑ってくれる人がいる。諦めずに対峙しようとしてくれる人がいる。
それに比べて、俺はどうだ。自分の不甲斐なさを、チセのせいにしようとしていた。逃げている、その通りじゃないか。
ジェイルは両手でチセの手を握り直した。
「なあ、笑わずに聞いてくれ」
チセは黙ってジェイルの顔を見返す。
「俺がヴェイラに帰って来たのは……ここが、俺の故郷だからだ」
イギリスでもアメリカでもなく、ヴェイラで暮らすことに意味があった。
「留学は楽しかった。でも、ずっと何かひっかかっていた。民主化してハイ終わり、は違うと思った。元国王が一般市民として暮らせるなら、それが本当のヴェイラの民主化だと」
それはなにより、自分への挑戦でもあった。
「俺はこの国で証明したいんだ。名誉も権力もなくても、俺の人生は間違ってないんだって」




