第21話:ボレロ
磨き抜かれたベントレー アルナージTセダンは、中も手入れが行き届いていた。ウッド調の車内には、外界の騒ぎが嘘のように上質で優雅な空気が流れている。
「出してくれ」
運転手に向かってユナルが言う。車はするりと夜の街を駆け始めた。
「すごい人気ぶりじゃないか」
ユナルがジェイル越しに窓の外を見ながら笑う。今日のユナルは、薄グレーの麻のスーツにつややかな紫のネクタイをあわせている。
「一夜にしてセレブリティに舞い戻った気分はどうだい、ジェイル」
名前を呼ばれて、息が漏れた。呼吸を止めていたことに、自分でも気づいていなかった。
「……監視していたんですか?」
「偶然通りかかったんだよ。君をディナーに誘おうと思って、家まで向かっていたところだった。そうしたら困っているようだったから、助けてあげたんだ」
御礼ぐらい言ってほしいなとユナルは咎めたが、その口調はいかにも楽しそうだ。
「こうなったのは誰のせいです。全部あなたが仕組んだことでしょう」
「すごい騒ぎだよ。新聞、テレビ、政治家、財界人。あらゆる分野から着信が止まらない。今夜のディナーも、是非話を聞きたいと呼ばれてね」
ユナルが名前を挙げた出席者は、確かにヴェイラの有力な政治家や経営者たちだった。
「彼らはみんな、元国王陛下に会いたがっている」
「俺は行きません」
座席の裏面を見つめながらジェイルは言った。無音だと思っていたが、スピーカーからラジオかCDが流れていることに気づいた。くすぐるようなクラリネットの音色が、耳の脇を旋回しながら飛び立っていく。この旋律は、ラヴェルの『ボレロ』だ。
「何故? 確かに高級レストランには似合わない格好だけど、そこは気にしなくていいよ」
「不利な場所に好んで行く馬鹿はいないでしょう」
ユナルはふっと笑った。
「今夜は来たくなければ別にいいけどね。でも不利になるというなら、君が現れない限り終わらないよ。さっきみたいな街角の騒ぎや、こないだのパーティーの目撃談が伝播して、噂は大きくなるばかりだ。一度火がついたら誰にも止められない。噂というものの恐ろしさは、君だって知っているだろう?」
株価はもちろん、政治制度すら左右することがある。噂がうねりとなって、いつの間にか世論と化す場合があることはジェイルも知っている。
「だが、15年間も沈んでいた人間に期待するほど、国民は愚かじゃない」
「若くて、外国帰りのインテリで、見た目がいい。ここ数年の政治停滞に飽きていた国民にとっては恰好のキャラクターだと思うよ。しかも君は当時17歳だったんだ。時代の波に翻弄された不遇の王子が、立派に成長して帰って来た……。マスコミも視聴者も大喜びのストーリーじゃないか。この夏の話題の主役は君だ」
ユナルのしみじみとした口ぶりに腹が立った。撥ね退けるようにジェイルは強い口調になる。
「いったい何を企んでいるんです」
「逆に訊こうか。君は何がしたいんだ?」
ジェイルはまともにユナルの顔を見た。叔父は口元に薄い笑みをたたえながらも、目は笑っていなかった。ジェイルはなるべく無表情に徹して答えた。
「俺は何もする気はない。平穏に生きたいだけです。それをあなたたちが乱そうとしている」
「それならイギリスにいればよかった。わざわざリスクを冒してまで、ヴェイラに帰って来た理由はなんだい?」
ジェイルは答えなかった。
『ボレロ』は同じメロディを繰り返しながら、徐々に熱を帯びてきている。トロンボーンのソロの番になった。ちょうど曲の中盤あたりだ。
ユナルもしばらく黙っていた。ジェイルの沈黙に耳を傾けているのか、それとも『ボレロ』を聴いているのか、その両方かもしれなかった。
窓の外を、夜の街の光が流れていく。
「6年前、ナーラに娘が生まれてね。私の初孫だよ」
ユナルは自分の長女の名前を口にした。ジェイルの2歳下の従妹でもある。彼女とはもう15年以上会っていない。
「女の子は、6歳にもなるといっぱしの口を利くようになる。彼女はなかなかのおませさんでね。何故自分がシンガポールに住んでいるのか、何故祖国であるヴェイラと距離を置かざるを得ないのか、子どもながらに疑問に思い始めている。素直な目をして、『おじいちゃま、どうして?』ってね」
ジェイルにとっては、嫌味でも言われたほうがまだましだった。だが孫を思い出しているのか、横顔がくすりと笑った。
「どうしてだろうね」
目を細めたユナルの目じりにくっきりと皺が寄った。15年前と現在を結ぶ一本の線だ。それはジェイルの知らない類の線だった。
車内に流れる音楽は、クライマックスに差し掛かっていた。
このクラシックの名曲は、指揮者泣かせだと聞いたことがある。そうかもしれない。陸上競技のトラックを何周もするように、同じ旋律をひたすら15分超繰り返す構成は、並大抵の神経では耐えられないかもしれない。すべては繰り返し。その真実に気づいても平気な顔をできる者だけが、タクトを振ることができる。
終盤に向けて、オーケストラのあらゆる音色を飲みこみながら、『ボレロ』の旋律は生き物のように増大していく。こらえきれないようにハ長調からホ長調に転調したら、息つく間もなく雪崩のようなクライマックスが訪れる。音の波が地面にぶつかり、砕け散っていく。瞼の裏に光が拡散するような熱狂。
そして静寂が訪れる。
車がユナルの目的地であるレストランの前で停まった。ドアを開けて降りようとしたユナルの背中に向かって、ジェイルは口にしていた。
「この国を、憎んでいるんですか?」
ユナルは興味深そうにジェイルを振り返ったあと、笑顔をつくった。いつもの笑みだった。
「君ほどじゃないよ」
運転手にジェイルを家まで送るように指示すると、ユナルは車のドアを閉め、颯爽とレストランの入口へ歩いていった。ドアマンが迎え入れる。
同じタイミングでやって来た出席者が、手を挙げて挨拶した。国産バイクメーカーの社長だ。さっそくジェイルについて尋ねてくる。今日は出席しないとユナルが告げると残念そうにしたが、すぐ興味津々な顔をのぞかせた。
「現在のレックス2世はどんなふうです。テレビで見る限り、すっかり大人になっていたが」
「ええ。だが、中身は変わっていないんですよ」
社長と並んで赤じゅうたんの敷かれた廊下を歩く。
「あの頃と同じ、繊細で心のやさしい王子様のままだ」
今しがたの甥の表情と言葉を思い出して、ユナルの口角はあがった。まったく、憎んでいるなどとは。
自分は確かに孫を持つ祖父であり、祖国を出た流浪の民である。だがそれ以前に、ユナルは投資家だ。カネの匂いには敏感だ。商機は見逃さない。勝つためには裏で多少の小細工もする。すべてはビジネスなのだから。
「それはそれは。はやくお目にかかりたいものだ」
社長の言葉にユナルは微笑んだ。
「じきに皆さんにもご紹介できますよ。そうですね、来週あたりには」
「楽しみですな」
奥の個室のドアが開く。これから、会食という名のとびきりの商談が待っている。そう、来週あたりには株価も為替も大きく変動しているはずだ。
この夏の仕事が、生涯でいちばん大きな投機のひとつになることは間違いない。ドアをくぐる前に、ユナルはカフスを直した。
「甘いよ、ジェイル」
そして誰にも見えないように、ユナルはそっと笑った。




