第20話:無防備な素顔
カチャカチャカチャと、前のめりにキーボードを打つ音が部屋に響いたのち、ふっと途切れる。ジェイルは手を止め、数秒の沈黙のあと、ポータルサイトのトップページをクリックした。普段は、仕事中はなるべくインターネットを見ないようにしている。だが今日はすぐに翻訳業の集中力が切れてしまう。正確にいえば、頭の片隅がずっと別のことに占められていて、仕事にならない。
時刻は15時過ぎ。今日だけでもう10回は見たポータルサイトに、ニュースのヘッドラインが並んでいる。≪レックス2世帰国へ≫の文字とジェイルの写真は、相変わらずトップに鎮座していた。それを見て、口の中が苦くなる。見なければいいとわかっているのに何度も見てしまうのは、かさぶたを剥ぎたくなる衝動と似ているかもしれない。
ジェイルは椅子から立ち上がり、冷蔵庫を開けた。気分転換に何かを口にしようと思ったが、あいにく水とバターと調味料しか入っていない。食パンと卵は昨日食べたのが最後の買い置きだった。仕方なしに紅茶を淹れようと棚からティーバッグを取り出すと、これもあと一杯分しか残っていなかった。
深いため息がもれた。
ジェイルは窓のカーテンを少しだけ開けて外の風景を覗き見る。いつもと変わらない町並みに見えるが、それが逆に不気味にも思える。ユナルがその気になれば、この家に住んでいることが公にされる可能性もあるのだ。もしかしたら既にマスコミが近くにいるかもしれないと思うと、気が休まらない。
ピコン! とパソコンから着信音が鳴り、ジェイルの肩がびくっと震えた。仕事関係の連絡かと思ってダイニングテーブルに戻ると、タカシからのSkypeのインスタントメッセージだった。〈Hey,take a look at this site!〉という一文とともにURLが貼られている。クリックして現れた画面を見て、ジェイルは思わずうめき声をあげた。
《【画像あり】【海外】ヴェイラの元国王イケメンすぎワロタwww》
一番上にレックス2世帰国についての日本語の記事と写真があり、その下に掲示板形式にコメントが番号順に並んでいる。
「これは普通にイケメン」「ブータン国王を超えたなw」「香港のアクションスターにこういう顔の人いるね」「ヴェイラはいいとこだよ。直行便がなくてバンコクかホーチミンで乗り継ぎしなきゃいけないのがめんどいけど。北部の寺院群は見る価値アリ」「ヴェイラとラオスがいつもごっちゃになる。てか32歳には見えないわ。余裕で20代中盤に見える」「短髪バージョンが見たい」「ちょっと線が細くね? 俺はブータンのほうがガタイよくて好みだわ」「アッーー!」
ジェイルが〈What on earth is this?(なんだこれは)〉と打って送ると、すぐにタカシから返信がきた。
〈It called Matome-Site,one of Japanese Web-culture.(まとめサイトって呼ばれてる、日本のウェブカルチャーの一種)〉
説明になっているような、なっていないような回答だ。続いて〈'Ikemen' means a handsome guy〉とも送られてきて、昨日チセが言っていた日本語のスラングのことだと思い出した。
「人の不幸で遊びやがって……」
どっと肩の力が抜け、怒る気にもなれないでいると、またメッセージが届いた。〈今のは前フリだ、こっからが本題〉という言葉に続いて、タカシが東南アジア政治を専門にしている同僚や知り合いのシンクタンクの研究員に聞いた話がまとめられていた。
いわく、与党であるヴェイラ国民党が軍部の予算削減を打ち出していることから、軍部内で反発が強まっていること。特に2年前に国防省幹部の汚職が発覚し、大幅な人事変動が行われて以来、ロチャ元将軍派が台頭してきていること。
〈ついでに、『ヴェイラ毎日新聞』のオーナーの息子の妻は、ロチャの孫娘だそうだ〉
ヴェイラ毎日新聞といえば、ヴェイラでは二番手の全国紙だ。系列にはテレビやラジオ、雑誌などを有するメディアコングロマリットである。もともと保守的な論調で知られているが、ここ数年はその色が濃くなっていた。婚姻関係と誌面の変化のどちらが先かはわからないが、影響しあっていることは大いに考えられる。
軍部と政府の対立については知っていたが、人事の動きまでは把握していなかった。というより、意識的に見ないようにしていた節もある。情けない話ではあるが、この手の事情は民間の研究者や、貿易で付き合いのある商社のほうが詳しかったりすることもある。なにより、くさっても有名大学の准教授であるタカシの人脈だ。
〈とりあえず、今の時点でわかったのはこのくらいだ〉
〈ありがとう。参考になる〉
気が重いことには変わりないが、事態の輪郭が少し見えてきたかもしれない。
〈ところで、そこに帯沢さんいる?〉
チセの名を出され、ジェイルは途端にバツの悪さを覚えた。ブラインドタッチで素早く返信を打つ。
〈いない。昨夜はたまたま一緒だっただけで、この先会う用事もない〉
〈そうか。ちょっと気になることを思い出してな。ゼミの面接のときに聞いたジャーナリストの志望理由なんだが、今思うと、もしかしてこういう意味か?って〉
〈わかりづらいな。何の話だよ?〉
思わせぶりな言い方が気になる。だがタカシは自分から話を振ったくせに、あっさり回収してしまった。
〈いや、俺からは言えない。本人の口から聞いてくれ。じゃあな〉
だから会う用事はないのに、と返信しようとした矢先、タカシのアカウントはオフラインになってしまった。
19時過ぎまでかかって、ようやく仕事を終わらせた。ぐったりと肩に疲労がのしかかる。はやく腹を満たし、きちんと睡眠をとりたいところだが、大きな問題が立ちふさがっていた。――どうやって、顔を隠して外出するか。
ヒゲはない。サングラスもない。髪の毛で隠すのにも限界がある。とはいえ、夜に帽子やフードをかぶるというのも不自然で逆に目立つ。
出掛けずにおとなしくしていようか。しかし食糧が手に入らなければ、明日も明後日も同じことだ。それにサングラスやマスクも買いたい。夜が更けるのを待って人通りが少ない時間帯を狙おうかとも思ったが、正直なところ、相当腹が減っていた。昨日さんざん吐いたうえ、朝からほとんど何も食べていないのだ。
逡巡ののち、紺系のシャツにグレーのズボンという、極力普通の格好で出掛けることにする。財布をポケットに突っ込み、スニーカーを履く。
深呼吸して玄関のドアを開いた。ムワッと熱い空気が頬をなでる。部屋に閉じこもりきりだったので、それも新鮮に感じた。
カンカンカン、とアパートの外階段を下りていく。ヘビの寝床のような細い路地裏を抜ける。脇の家の洗濯物が、道にはみ出して干しっぱなしでぶらさがっている。いつもどおりの光景なのに、なんとも落ち着かない。特にヒゲのない口元が心もとないが、平常心を保つようにする。
不意に目の前を影が横切って、立ち止まった。暗闇の中から眼光鋭くこちらを見ているのは、たまに見かける、背中に茶色いぶちのあるネコだった。
「なんだ、おまえか」
少し気が緩んで笑いかけたが、ネコはジェイルをじっと見つめたあと、ふいっと行ってしまった。まさかヒゲがないせいではあるまいが、きまりが悪い。
路地を抜けると、通りの光が目に飛び込んでくる。心臓がぎゅっとなる。うつむきがちにして、大股でジェイルは歩いた。一番近いスーパーまで徒歩5分。なるべく小さい通りを選んで、誰とも目を合わせないようにしながら足を動かし続ける。
青信号が点滅する交差点を渡ってしまおうと思ったが、足を踏み出す直前で赤になってしまった。仕方なく信号待ちをする。横の新聞スタンドに自分の顔写真が一面に入った新聞が並んでいるのに気づき、横歩きでゆっくり距離を取った。我ながら、なんとシュールな光景だ。
スーパーの目の前まで来た。自動ドアをめがけて突き進む。だが気が急いたのか、横から出てくる人影に気づかなかった。
「わっ」
小柄な中年女性とぶつかり、相手の持っていたビニール袋が地面に落ちる。
「すみません」
ころころと玉ねぎやオレンジが転がった。あわてて中身をかき集め、差し出す。「こちらこそ……」と手を伸ばした女性が、ハッと顔色を変えた。
「え、え、えぇ!?」
最後の音は叫びに近かった。店から出てきた別の客がつられてジェイルを見る。あっという間に、周辺に連鎖する。ヴェイラでは身長が高い部類に入るジェイルは、四方から見上げられるような構図になってしまった。
「うそ、レックス2世!」
「陛下ですか!?」
声があがるのと同時に、踵を返して通りへ戻る。背中にたくさんの声が追いかけてくる。逃げ去りたいのに、こんなときに限ってまた赤信号だ。
すっと静かに、目の前に黒塗りの車が停まった。後部座席が開く。
「ジェイル」
奥に座っていたのはユナルだった。ためらうジェイルだが、後ろを振り返って一拍置いたあと、さっと乗り込んだ。携帯電話のカメラのフラッシュが光るのと、ドアが閉じられたのは同時だった。
「応援してます! 陛下!」
走り出す車の窓に、誰かが叫ぶ声が反射した。




