第2話:最後の国王(2)
19時半になると、夕食のために部屋を出る。屋台ではなく、小さくても店として構えている食堂を選ぶ。また、あえて近所の店ではなく、少し離れた場所の店へ行くのがジェイルのルールだった。歩きながら、夜の街の空気を吸いたいという理由がひとつ。もうひとつは、特定の店の常連客になるのを避けるためだ。
今夜は川沿いにある、赤い看板の食堂に行こうと決めた。美味い海鮮ビーフンを出してくれる店だ。入り組んだ路地を歩き始める。
ヴェイラの首都の中央には、大きな川が流れている。別名・「聖女の恵み」。大昔、このあたりは干ばつがひどい土地だったが、ある日天から聖女が現れ、この地に川を通したという。もちろん科学的には眉唾物の話だが、そんな伝説も相まって、街は川を中心に栄えている。川の東岸は新市街として、近代化が著しい。一方、川の西岸は、旧市街として昔ながらの街並みが広がる。ジェイルが住んでいるのも西岸だ。
このあたりは、かつての城下町でもある。川の上流は土地が少し高くなっていて、街を見下ろす形で、宮殿が座していた。今でも国会などが開かれているだけでなく、一部が観光名所として一般公開されている。毎日、バスが広い庭園に横付けされ、旗を持ったガイドのあとを、観光客がぞろぞろとついていくのだ。
くだらない、とジェイルは思った。ロープで区切られた通路を流れ作業のように歩かせて、外国人観光客をわかったような気にさせることに、大した意味があるとは思えなかった。国や宮殿の歴史を説明したところで、帰国すれば彼らはすぐ忘れてしまう。
だが貴重な外貨獲得のためには仕方がないのだろう。エネルギー採掘や外国企業の工場誘致も進んでいるとはいえ、タイやベトナムといった近隣の国々には到底及ばない。観光業はヴェイラの重要な収入源だ。
路地を抜けると、露店が並ぶメインストリートに出る。この時間は特に、地元の人間や観光客でごった返している。東南アジアはどこも、夜になってからのほうが、人間が元気になるのだ。イギリスにもパブやクラブといった夜の盛り場はあるが、発せられるエネルギーの量が違う。子どもも老人も男も女も、我が物顔で夜の街を闊歩し、売ったり、買ったり、食べたり、喋ったりしている。
生ジュースの屋台の前にいた客引きの少年と目があった。シャツの袖を引っ張られるのを察知して、思わずジェイルは身体をねじる。指先につかまることなく、少年の横を大股で通り過ぎた。一瞬、少年の顔に不服そうな表情が浮かんだ。今のは、失礼な態度だったかもしれない――。後悔がジェイルの心をよぎって、数歩行ったところでチラリと振り返る。だが、少年はもうジェイルのことなど気にしておらず、笑顔に戻って呼び込みを再開していた。
5年暮らしても、なかなか慣れないものだ。
香辛料の匂いや呼び込みの声をかわしながら、ストリートを抜けた。お目当ての店まではあと5分ほどだ。
ふと、地図を持ってあたりを見回している少女が目に入った。ショートボブで、小さな身体に不似合いな大きなリュックを背負っている。肌の色や身なりからすると、日本人観光客のようだ。
背が低く、幼い雰囲気の少女だった。髪は明るい茶色に染めているようだから、まさか小学生ではないだろうが、日本ではローティーンのうちから髪を染めたりピアスを開けたりすると聞く。ツアーからはぐれた中学生だろうか。地図と風景を比較して、きょろきょろと目を動かす様子は小動物に似ていた。親と合流できなくて困っているのかもしれない。
日本人とは浅からぬ縁がある。話しかけるべきか、わずかのあいだジェイルは逡巡した。だが自分には関係ないと思いなおし、足早に過ぎ去る。不特定多数に注目されるようなことを、慎重に避けて暮らしているのだ。繁華街のど真ん中で日本語で人助けするなど、自殺行為に等しい。
海鮮ビーフンと生春巻き、氷入りのビールで夕食を済ませて、元来た道を戻る。先ほどの日本人の少女はすでにいなかった。ジェイルは内心ホッとする。やはり無闇に声をかけたりしなくてよかった。
騒がしいストリートを離れ、アパートのある路地に入る。ツイてない日だと思ったが、つつがなく過ごすことができた。家に帰ってコーヒーでも淹れ、読書の続きをしよう。日付が変わる前にベッドに入り、眠りに就く。いつも通りの1日だ。小さな達成感が、ジェイルの胸に広がる。
だが、最後の最後でそれはやってきた。
アパートの入口に人影をみつけて、ジェイルは足を止めた。蛍光灯に照らされた人物を見て、驚いた――玄関の段になっている部分にぺたんと腰かけているのは、さっき見かけた、日本人の少女ではないか。
少女がジェイルに気づく。ジェイルが何か言うより先に、少女が素早く立ち上がり、叫んだ。
「やーーっと、みつけた!!」
大きな瞳を輝かせて、嬉しそうにジェイルを指差す。人違いをしているのだろうか。思わずジェイルが身構えると、少女は我に返ったように、「あっ! ……ヤンナー!」と挨拶した。「ヤンナー」はヴェイラ語で「こんにちは」の意味だ。
「日本の方ですか?」
ジェイルはようやく口を開いた。
彼の口から出てきたのが流暢な日本語であったことに、少女がビックリした顔をする。
「すごい。日本語うまいですね」
「旅行者ですか? 団体からはぐれましたか?」
「そういえば、ウィキペディアに数ヶ国語喋れるって書いてあった!」
ジェイルの質問に答えていないどころか、何を言っているのかわからない。このガキはいったい何なんだ。
怪訝な顔をするジェイルの警戒を解くように、少女は笑いかけた。
「私、オビサワ・チセといいます。あなたを探して日本から来ました。取材させてほしくて」
取材、という言葉にジェイルは身を固くした。嫌な予感がする。
「人違いでしょう。さようなら」
無理やり会話を断ち切って、アパートの外階段を上がろうとする。しかし、少女の能天気な声が後ろから追いかけてくる。
「人違いじゃないですよー。確かに15年前の写真からだいぶ雰囲気変わってるけど、ヒゲがなかったらこの顔だもん」
思わずジェイルは振り返った。少女はいつの間にかiPhoneを取り出していて、画面の写真とジェイルを見比べていた。映っているのは、今朝テレビで目にしたばかりの――。
ジェイルの瞳が見開かれる。少女はにっこりと笑った。
「あなたがレックス2世ですね? ジェイル・レックス・ハッサ・チュンクリット。最後の国王で、15年前に民主化を断行した張本人。私、あなたに会いに来たの」




