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第18話:やさぐれてもいいですか

 胃の中の固形物をひとしきり出しきり、体内の痙攣がおさまった頃には、ジェイルは気力も体力もなくなっていた。手足の先がしびれたようにうまく力が入らない。吐くという行為は、なんと心身を消耗することか。

 ふらふらと立ち上がり、洗面台の蛇口をひねる。勢いのいい水流に顔をぶつけると、鏡にしぶきが飛んだ。口の周りをざばざばとすすぐ。誤って水を飲み込みそうになり、顔をしかめる。しゃっくりのような拍動を利用して無理やり吐きだした。嫌な感覚。喉から胸にかけての管の内側が剥がれるようだ。

「……今、何時だ」

 ドアにもたれて絞り出した声は、笑えるくらい弱弱しかった。

「22時半です」

 チセが答える。思っていたほどは遅くない。

 バスルームを出て部屋を横切る。チセと目を合わせないようにしながら、一人掛けソファの背にかけられていたシャツを素肌に羽織った。

「帰る」

「え、休んだほうがよくないですか?」

「いい」

 ソファセットの奥は大きな窓で、外には首都の夜景が広がっていた。中央を流れる川を境に、新市街と旧市街、二通りの表情を見せる。バンコクやホーチミンの規模とは比べ物にならないとはいえ、美しさには定評がある。それを見下ろしているというのに、どうしてこんなに惨めな気持ちになるのだろう。

「その……悪かったな」

「え?」

 窓のほうを見ながらジェイルは言った。

「迷惑をかけた」

 謝るときは相手の顔を見るべきだとわかっていたが、できなかった。窓に反射したチセが首を横に振る。

「気にしてないですよ。居酒屋でバイトしてたんで、酔っ払いの扱いには慣れてます。歓送迎会の時期とかほんと大変なんですよねー! 前に個室から廊下まで点々とゲロったお客さんがいて、バイト仲間のあいだでは『ヘンゼルとゲローテル事件』って名前で伝説と化したんですけど」

「ヨーロッパでは、こんなふうには酔わなかった」

 独り言より少しだけ大きな声でつぶやいた。

「酔っても、記憶がなくなるほどじゃなかった。ひどく吐くこともなかった。今夜みたいになるのは、酒と食べ物の相乗効果で胃がやられるときだ」

 おとなしくホテルのバーかどこかで飲むべきだった。路地に長机とプラスチックの椅子を並べているような店で飲んでしまったことを、ジェイルは悔やんでいた。いつもならそんな店には絶対に行かないのに。チセに提案された時点で酔っていたとはいえ、どこかでヤケになっていたのかもしれない。

 それで、このザマだ。

「屋台で飲んだせいだ。合わないんだ、俺の身体には。体調が悪くなる」

 幼いころからそうだった。たまにお忍びで街に連れて行ってもらえても、すぐにお腹を壊してしまう。姉と妹は目を輝かせて、肉汁のしたたるフライドチキンやニラ入り焼き饅頭にかぶりついていたというのに。

 留学先のイギリスではフィッシュ&チップスもチョリソーサンドも平気だったから、大人になって大丈夫になったと思っていた。だが帰国後の挑戦はことごとく失敗に終わった。どういう仕組みかわからないが、ジェイルの胃腸はこの国のローカルフードを徹底的に受け付けないらしい。なんという嫌味な体質だろう。というより、拒絶されているのは自分のほうだ。揚げパンも米麺も豚足煮込みも串焼きも、普通の人たちが美味しそうに食べているもの全部。まるで、民主化しようとなんだろうと、お前はヴェイラの一員ではないと言われているようで。

「皮肉な話だろう? 俺はこの国でメシひとつ満足に食えないんだ」

 仮にも、仮にもそう、元国王だというのに。

 奥歯を噛みしめる。自ら作り出した気まずい空気に耐えられず、ジェイルは振り返った。

「笑えよ」

「へ? 笑いませんよ」

 ベッドの端に腰かけていたチセは、きょとんとした表情を浮かべた。

「むしろ、なんか納得しました」

「え?」

「食べたいものが食べられないって、すっごくさみしいじゃないですか。毎日その事実に直面するってことですもんね。そっか、だからかー」

 予想外の反応に戸惑うジェイルに、チセはあっさりと告げた。

「そりゃ、やさぐれますよね!」

「ヤサグレ?」

「あ、えーっと、やさぐれるっていうのは日本語だと“すねる”とか“気難しい”の意味に近くて、世の中や人生に対して投げやりになっているイメージです」

 反射的に口を開きかけて、閉じた。全身の力が抜け、糸が切れたようにジェイルはソファに尻をついた。

 やさぐれる、と繰り返してみる。

「そりゃ便利な日本語だ」

 鼻から苦笑いがもれる。口の端があがる。

「確かに、当たっているかもしれない」

 手足を投げだした。失礼なことを言われたはずだが、自分でも意外なほど腹は立っていなかった。

 この体質をただ情けなく思っていた。恥ずべきものだと。なのにまさか、さみしいだなんて。

 32年間誰も言わなかったし、自覚もしていなかった。でももしかしたら、そういう見方もあるのかもしれない。目から鱗が落ちるようだった。

 向かいのソファにチセがちょこんと座る。

「ただし、今日はそもそも飲み過ぎだと思います」

 チセが差し出したペットボトルの水を受け取った。

「悪かったよ。俺のミスだ」

 キャップをひねりながらジェイルは苦笑する。

「やさぐれってやつだ」

「えー、なんか素直にされると気持ち悪いですね」

「お前は……」

 脱力しながらも、タカシとルームシェアしていた頃のことを思い出す。ソファに身体を預けて、時間を気にせず軽口を叩き合っていたのは楽しかった。懐かしく感じるのは、チセがタカシの教え子だからだろうか。

 そうこうしているうちに、また胸のムカつきが甦る。口をおさえてよろよろとバスルームに吸い込まれていくジェイルにチセが声をかける。

「この調子じゃ、今日はトイレにお泊まりコースっぽいですね」

「いいや、すぐ帰る」

 ジェイルの反論の声はいかにも脆弱で、思わずチセは笑う。

「無理する必要ないですよ。全部吐いちゃったほうがラクになるんだから」

 もっとも、かなりの時間がかかりそうだが、とチセは思った。


 ピンポンパン ピンポンパン。iPhoneの着信音が、朝の部屋にこだまする。

 ソファで寝ていたチセは、サイドテーブルに手を伸ばした。ねぼけまなこでiPhoneを掴む。表示されているのは憶えのない番号だが、日本からの着信のようだ。

「もしもし」

「帯沢さん? いきなりすまん、平間です」

 声の主はチセのゼミの教官であり、ジェイルの元ルームメイトである平間高志だった。

「あー! 平間准教授ですかあ」

 チセが認めると、相手は慌てた様子で切り出した。

「近くにジェイ……ジェイルはいないか? 今すぐ話したいことがあるんだ」

「それなら、そこで寝てます。おーい。起きてくださーい」

 電話を肩に挟み、ベッドの上に乗っかって四つんばいになる。反対側を向いて眠っているジェイルの身体を揺さぶった。

「……なんだよ」

 ジェイルが不機嫌な顔で目を開く。

「平間准教授からお電話です」

「タカシ?」

 眉間にしわを寄せてチセからiPhoneを受け取る。時計を見ると、まだ7時前だ。

「朝っぱらからなんだよ」

「寝てる場合か。ニュースを見てないのか? 大変なことになってるぞ」

「ニュース?」

 テレビのリモコンをつけた。急に明るくなった部屋に、目を細める。だが次の瞬間、ジェイルは目を見開いた。

 画面いっぱいに現れたのは、己の顔だった。

 続いて、ラーニア王太后やロチャ元将軍と一緒に写っている写真。画面左上には「レックス2世がついに帰国へ。ロチャ元将軍らと会談」とテロップが表示されている。

「国際ニュースでも配信されてんぞ。どうなってんだ、ジェイ」

 何も言えずに呆然としていると、チセが部屋のドアに配られていた新聞を持って戻ってきた。

「こっちも」

 新聞の一面に、やはり昨日のスーツ姿のジェイルが大きく掲載されている。

≪レックス2世が帰国へ。現政権に遺憾の意を表明≫

 ユナルの笑みが浮かんだ。すべて、あの男の計画どおりということか。

「やられた……!」


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