第17話:夜のあやまち
宴会は夕方に終わった。二次会の誘いをすべて断り、ユナルの意味ありげな目線も振り切って、ジェイルとチセは帰途につく。舗装されていない道を走るたび、ハイヤーが上下に揺れる。ジェイルは黙って後部座席で頬杖をついていた。
帰り際に玄関で、ラーニア王太后が客をひとりずつ見送ってくれた。ラーニアはチセを気に入ったらしく、嬉しそうに手を握った。
「ぜひ、またお話ししたいわ。いつまでヴェイラにいらっしゃるの?」
特に決めてないとチセが答えると、ラーニアは目を輝かせた。
「いつでも遊びにいらっしゃいな。昔を思い出してとても楽しかったわ。老人になると、することがなくて退屈なのよ」
冗談めいた口ぶりだったが、通訳するジェイルは祖母の顔をちゃんと見ることができなかった。
叔父の一言がぐるぐると脳内をかき回し続けていた。
政権が危うくなった途端、さっさと海外へ逃げたのはユナル本人のくせに、あんたにそれを言う権利があるのか。抜け目ない彼が、はやいうちから不動産を売却して海外に資産を動かしたことをジェイルは知っている。「国王一族自らがヴェイラ経済に見切りをつけた」と報道されて、海外の銀行や投資家の不信感をあおり、財政危機が加速した。それが王制崩壊の主原因のひとつになったことを忘れたとは言わせない。あのとき、民主化以外に選択肢があったというのか。
だからユナルや彼と繋がる王党派や軍閥が時代に対応できなくても、それは自分たちの責任だ。ジェイルが良心の呵責をおぼえる必要などないはずで、放っておけばいい。だが、ラーニアの尊厳が侵されている状況は見過ごし難かった。あの高貴な祖母が、訳のわからない連中にいいように利用されているなんて。
ラーニア王太后なら大丈夫だと、どこかで思っていたのだ。ひとりで生きていく力を持っている人だと。誰の手も必要としないのだと。だがそれはジェイルの勝手な思い込みだったのかもしれない。
ハイヤーが街の中心部についても、ジェイルの考えはまとまらなかった。高級ホテルの前で車が止まる。
「あ、私、ここです」
ドアが開き、チセが荷物を抱えて車を降りる。
「今日はお疲れさまでした。パーティー楽しかったです」
「ああ」
「それにしてもホテルまで取ってくれるなんて、ユナルさんは親切な方ですね」
無邪気な笑顔にジェイルはイラッとした。夕陽に照らされたドレス姿のチセが一瞬見知らぬ女に見えた。うわべの親切だけであんなやつを信用するのか。ジャーナリストになりたいなんて言っていたくせに。昨日まで俺の話を聞きたがっていたくせに。
気づけばジェイルは車を降りていた。チセが首をかしげた。
「……少し飲まないか。まだ、寝るにははやすぎる時間だろう」
「ええー、まだ飲むんですかあ?」
酒が足りなかった。誰かと話していたかった。相手が、鬱陶しかったはずの少女であっても。このままひとりで家に帰ることは、今日の彼には耐えられそうになかった。
ポケットからサングラスを取り出した。遠い空では、オレンジと濃紺が混ざり合おうとしている。薄いグレーのレンズが、その境目を曖昧にした。
ジェイルの記憶がはっきりと残っているのは、ここまでである。
目覚めたら横たわっていた。
焦点の定まらない目で、ジェイルは見覚えのない天井をしばらく見つめていた。ふっと我に帰る。
「あ……?」
ここはどこだ。無意識に右手を動かすと、なめらかなシーツの肌触りがした。どうやらベッドの上らしいが、自宅ではない。ならば、どこだ? そもそも何故俺は眠っている……。
頭の鈍い痛みと胸のムカつきが遅れてやってきて、ジェイルは顔をしかめた。こめかみを手で押さえながら、状況を把握しようとする。
そのとき、シャワーの水音に気づいた。廊下に面したドアから漏れているらしい。ジェイル以外の誰かが、この部屋のバスルームを使っているのだ。
「――!?」
ガバッと勢いよく上半身を起こすと、目の前がくらくらした。だが構っている余裕はない。さらに悪いことに気づく。着ていたはずのシャツや肌着が見当たらず、上半身には何も身に着けていなかった。見知らぬ部屋でベッドに寝ていて、記憶がなくて、誰かがシャワーを浴びている――。そんな状況から導き出される答えは、ジェイルにはひとつしか考えられなかった。血の気が急激に引いていく。ジェイルはおそるおそる臍から下にかかったシーツをめくった。
下半身は、ちゃんとズボンをはいていた。
「よかった……」
思わず安堵のため息が漏れる。自分の両脚に向かって拝みたい気分だった。だが、今度はバスルームからの物音に心臓が止まりそうになる。水音は止まり、代わりに人が動く音が聞こえていた。部屋を見回したジェイルの視界に、ソファに無造作に置かれた大きな黄色のリュックが入った。あれは間違いなくチセの持ち物だ。つまり、バスルームにいるのはチセだ。
ガチャとドアノブが回る音がした。ジェイルは顔前で両腕をクロスさせ、顔をそむけた。
「わー、待て、待て!!」
「何やってるんですか」
目を開くと、大きめサイズのTシャツに短パン姿で、首からタオルをかけたチセが立っていた。ジェイルは無言で首を振り、うなだれて息を吐く。まさか、裸で出てきたらどうしようと思ったなどと言えるわけがない。
「ここはお前のホテルの部屋か? 俺は何故ここにいる」
気を取り直して尋ねると、チセの顔色が変わった。
「そんな……憶えてないんですか?」
「え?」
「ひどいです。私、あんなことされたの、はじめてだったのに……」
いつになく真剣なチセの声に、ジェイルの背中に冷や汗が流れた。混乱した頭で必死に考えるが、やはり何も思い出せない。最悪の想像が再び頭をよぎる。こんなガキと? まさか、有り得ない……そう思いつつ、確信が持てない。
唾をごくりと飲み込む。
「……俺、何をした?」
その瞬間、胸の内側で水圧が押し上がるような感覚に襲われた。とっさに口を押さえる。それを見て、チセがバスルームのドアをバンと開いた。
「トイレはここーー!!」
全身の力を振り絞って転がるように駆け込み、白い便座にすがりついた。二秒後にはすでに、怒涛のリバースが起きていた。生理的な涙がにじむ。身体の逆流機能のなすがままになりながら、ジェイルはぼんやりと思い出した。
散々飲んで相当酔っぱらった状態で、チセを送るためにホテルの前まで来て……。
「も~、大丈夫ですか? 人の肩に盛大にゲロったうえに意識飛ばすなんて、新歓の大学生でもしませんよ」
廊下から聞こえたチセの言葉に反応することもできなかった。自らの悪臭と醜態に、ジェイルはただ情けないうめき声をあげた。