第15話:乾杯
「では、王太后をお呼びしましょう」
ユナルの言葉に、ジェイルとチセを囲む津波のような視線とざわめきが、いったんおさまった。大広間前方の扉に注目が集まる。ズボンのポケットの中で、ジェイルは手を握りしめた。
ユナル自ら恭しく扉を開く。100人はいるだろうか、集まった大勢の客人たちが一斉に拍手する。
紫のロングドレスにカーディガンを羽織ったラーニア王太后が、ゆっくりと現れた。
ジェイルは息を呑む。頭はすっかり白髪になり、少し小さくなったようには感じるものの、背筋はすっと伸びている。穏やかにあがった口角が、優雅さを醸し出していた。
「まあまあまあ……」
会場中を見渡したあと、ラーニア王太后は口を開いた。
「私のようなおばあさんのために、こんなにたくさんの方に集まっていただいて。嬉しいわ」
王族にとって、人前で喋るのも仕事のひとつだからだろうか、85歳になるというのに声のハリも変わっていない。
「それとも月曜日だから、皆さん仕事をサボるための口実としていらっしゃったのかしら」
ドッと笑い声があがる。機知に富んだ語り口も相変わらずだった。ジェイルは心の中で唸る。さすがは、ラーニア王太后だ。
大広間の上座に準備されたテーブルと椅子へと、ラーニア王太后が誘導される。
「ごめんなさい、脚が少し悪いものだから、座らせていただきます。どうぞ、飲み物もお料理もどんどん召しあがってくださいな。楽しい時間を過ごしましょう」
「では、皆さん、乾杯いたしましょう」
ユナルがラーニアの傍に立ち、杯をあげる。皆もそれに倣った。
「我らがラーニア様の健康と誉れに、乾杯!」
「まさか今日陛下にお目にかかれるとは。いつヴェイラに戻られたので?」
「オックスフォードでは優秀な成績だったとか。向こうでのお話を聞かせてください」
「現在は、やはりユナル様のように投資を? 今度新会社を立ち上げるんですが、ぜひとも陛下に顧問になっていただければ……」
手にしたシャンパンに口をつける暇もなく、ジェイルは質問攻めに遭っていた。ひとりが話しかければふたり加わり、ふたり加われば3人が口を開くというふうに、人の壁はどんどん厚くなっていく。
「期待されているような話はありません」
ジェイルは適当に話を濁そうとするが、目を輝かせた客人たちはそれを許さない。
「あの陛下が、こんなにご立派な男性になられて」
「まだ独身でいらっしゃるのですか? よろしければ、今度わが娘をご紹介させていただきたく」
「母君に似て美形でいらっしゃる。さぞかしイギリスでもおモテになられたのでは」
右手に黒いレースの扇子を持った夜会巻きの婦人が、「あ!」と口に手をあてる。
「もしかして陛下のお相手は、あの方……」
そこにいる人間の視線が、立食カウンターの前にいるチセの背中に注がれる。チセはにこにこしながら、ブラックタイガーの塩茹でや、鶏の香草蒸しを物色していた。
「違います」
ジェイルはうんざりした表情で言った。
「彼女はオックスフォードの友人の教え子で、たまたま現在預かっているだけです」
これだ。年寄りはすぐに結婚だの子供だの言いたがる。ジェイルは話の流れを断ち切ろうと、口を開いた。
「だいたい、私はもう王ではないですから、“陛下”と呼ぶのは間違って……」
「皆さんご存じのとおり、甥っ子はなかなかのカタブツでね」
後ろから、ユナルがジェイルの肩に腕を乗せた。ジェイルは身をよじるが、ユナルにがっちりと挟まれていて、逃げられない。
「憶えていますか? 16歳になったカヤナ様の成人の儀」
ユナルは、ジェイルの姉の名前を口にした。
「もちろん憶えていますわ。私も出席しましたもの。とても豪勢なパーティーで」
「そうそう、大人の正装をしてお化粧されたカヤナ様に、ジェイル様が恥ずかしがって、晩餐会中ほとんど口をきかれなかったんでした」
「国王陛下と妃殿下が苦笑いされていましたな。もう20年も前のこととは。ああ、いい時代でした」
あっという間に、彼らは思い出話に花を咲かせ始めた。ジェイルへの関心が途切れた隙を見て、ユナルがジェイルの肩に腕をかけた態勢のまま、身体を壁際に回転させる。ジェイルの耳元でささやいた。
「スペシャルゲスト陛下、もっと愛想良くしたらどうだい。ずっと海外にいた国王が、久しぶりに姿を現したんだから」
「だから、俺はもう国王ではないし、陛下でもありません」
ジェイルはユナルの腕を振り払い、小声だが強い口調で言った。
「素っ気ないことを言うなよ。ここにいる人たちは、みんな君のことが大好きなんだ」
「彼らが好きなのは、俺ではなく王家でしょう」
「私も含め、王族関係者はほとんど国外に散らばっているからね。みんな、こうして昔を懐かしむ機会に飢えているのさ。そうそう、こないだアメリカで姉上に会ったよ」
ジェイルはユナルの笑みを見つめた。ジェイルの母は、王制崩壊後、結婚した長女のカヤナとともにサンフランシスコに移住していた。
「カヤナの夫と子ども2人と、5人で平和に暮らしていたよ。カヤナの夫の事業もそこそこ順調みたいだしね。それにしても、元王妃にしちゃ質素な暮らしだけど」
「……そうですか」
ジェイルは小さく息を吐いた。もう何年も、母にも姉妹にも会っていない。
「ついでに、君の妹のダニットはシドニーで暮らしてるよ。華僑の夫とのあいだに、もうすぐ子どもが生まれるそうだ」
「ずいぶん詳しいですね」
ジェイルが言うと、ユナルは鼻で笑った。
「家長のくせに、君が知らなさすぎるんだよ。ヴェイラから海外に移住した我々は、頼れるものがないのだから、一族の繋がりを大事にするしかないだろう? まさにディアスポラ、流浪の民さ」
「だからって、お祖母様の代理人みたいなことまでするんですか。特に近しい間柄というわけでもないのに」
「孫の君に比べれば、ね。だが、うちの家系はラーニア様の遠縁筋だから、それほど不自然なことでもない」
それに、とユナルは続ける。
「君が言うようにラーニア様がただの老人だとしたら、それこそお世話をする人間が必要だ。夫も息子も亡くした上、血縁者たちは国外に移住してしまい、孤独な生活を強いられている80代。孫息子にいたっては、ヴェイラに戻ったくせに所在を隠し続ける始末だ。だから、代わりに私が近親者としての仕事をしているだけのこと。本来ならば、孫が祖母の面倒をみるのが筋のはずだけどね。違うかな?」
ジェイルは言い返せなかった。
ユナルは、広間の上座で客と談笑しているラーニアを見た。
「君が来たことはまだ知らせていないんだ。挨拶する客の波が引けたら、チセ嬢と一緒に紹介するよ。それまでパーティーを楽しむといい。じゃあ、あとでね」
軽快な足取りでユナルは人の波に消えていく。
「あのー、何か食べます?」
振り返ると、料理がいっぱいに載った皿を手にしたチセがいた。
「揚げ春巻きがめちゃくちゃ美味しいですよ~。アサリの炒めものもかなりイケます」
ジェイルはシャンパンをくいっと飲み干した。
「食欲がない」
「また、すぐそういうことを言う~。こういう場では、ちゃんと美味しく料理をいただくのが大人のマナーですよ」
大人のマナーという響きに、ジェイルはハッとする。10歳以上年下の女の子にまで、そう言われてしまう自分はどうなのだろう。ユナルの言動は不愉快なものばかりだが、彼が指摘したいくつかのことは、確かに否定できなかった。
「……そうだな」
「あ、珍しく素直ですね。ヒゲがないから?」
「バカ、関係あるか」
チセは串に刺さった白身魚のフライを手に取り、ジェイルの眼前に差し出した。
「これなんかも美味しいですよ」
フライにかけられたチリソースが、ジェイルの鼻先でとろりと垂れる。甘酸っぱく、香ばしい匂いがした。だが唾を飲み込んだジェイルの目の前で、チセが手を翻す。ジェイルが「あっ」と叫ぶあいだに、フライはチセの口内におさまってしまった。
「何するんだよ」
「ふふ、食欲が刺激されたでしょう?」
幸せそうに咀嚼しながら、チセはウィンクしてみせた。同時に、ジェイルの腹がぎゅうと鳴る。
「……確かにな」
ジェイルは苦笑して、新しいフォークを手に取った。




